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Part1:浅草寺、浅草神社、三社祭の起こり |
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推古天皇の御世 西暦628年に、浅草の漁師 桧前浜成・
竹成兄弟 が 隅田川 (当時は 宮戸川 と言いました)で漁をしていたところ、
一体の観音像が網にかかりました。
この頃の浅草一帯は、 江戸湾の入り江 になっており、小島がたくさん浮いていたそうです。
浅草も一つの小島の中にあったと言われています。
だから隅田川と言うより海の入り江と言った方が当っているかもしれません。
観音像を拾った浜成竹成兄弟は、地元の郷司 土師真中知 に相談したところ、
これぞ聖観世音菩薩ということを教えられました。
ちょうど土師氏は出家する心の準備をしていた矢先でもあり、寺を作ってこの観音像を安置したと伝えられています。
これが 浅草寺 の起こりです。
また、 浅草神社 の起こりですが、土師氏や浜成・竹成兄弟が没して後のある日、
土師氏の子が観世音菩薩のお告げを聞いたことに始まります。
お告げによれば、3人を神として祀る社を建てよということでした。
そこで、土師氏の子は以下の3人の神を奉る三社権現社を建てたということが伝えられています。
・ 土師真中知命 |
・ 桧前浜成命 |
・ 桧前竹成命 |
なお、大化元年(645)には、 勝海上人 が本尊の観音像を秘仏とし、浅草寺を開基(創始)したと伝えられています。
また、天安元年(857)には、延暦寺の 慈覚大師 によって参拝者が拝むための観音像が作られたと伝えられています。
それ故に、勝海上人を開基、慈覚大師を中興開山としています。
天慶5年(942)には、浅草寺の雷門や仁王門も作られたと言われています。
さて、 三社祭 の起源ですが、時代は下り 時は鎌倉時代 正和元年(1312)に「我は是れ阿弥陀三尊なり。神輿をかざり奉り、
船遊の祭礼をいとなみ、天下の安寧を祈れ」とのご神託があり、祭礼が営まれるようになったと伝えられています。
(浅草寺縁起による) |
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Part2:江戸時代の浅草 |
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時は過ぎて天正18年(1590)、 家康 は浅草寺を徳川家の祈願所に定めました。
さらに、 3代将軍家光 は、寛永14年(1637)に神輿を寄進し、慶安2年(1649) には本堂を再建して、
3神に加え家康公と大国主命の二柱も合祀したといわれています。
堂や塔も立派になり、徳川幕府の庇護の下で、浅草寺は当時の庶民が訪れる安息の地となりました。
その後も浅草は、浅草寺、浅草神社詣と、芝居小屋などが立ち並ぶ娯楽の地として、
江戸文化の隆盛に大いに寄与したことは言うまでもありません。
江戸末期に編纂された絵入りの年中行事記 「東都歳時記」 に 三社神輿船渡御 の絵が描かれています。
この絵は、当時の漁師たちがふんどし一つで、三社神輿を乗せた船で隅田川を渡御する様子を描いたものですが、
祭りがたいそう賑わっていた様子がうかがい知れます。
この船渡御を今はもう見ることはできませんが、やはり浅草の主役は、今も昔も隅田川であるのかもしれません。
なお、家光が寄進した神輿は、その後約300年もの間担ぎ抜かれたといわれています。
(上図は、東都歳時記に描かれている三社神輿船渡御の絵をFlashで模写したものです。)
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<弁天山のかねつき堂と松尾芭蕉>
浅草寺境内にある弁天山の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)に 徳川5代将軍綱吉 の命により作られたものだそうです。
綱吉の家臣であった牧野成貞が、寄進した黄金200枚を地金の中に鋳込ませたといわれています。
当時この鐘は江戸市中に時刻を知らせたことから「時の鐘」ともいわれています。
今でも大晦日には除夜の鐘が鳴り響き、また毎朝6時にも時を知らせる鐘の音が響きます。
ちょうどこの時代に生きていた芭蕉も、次の句を残しています。
- 観音の いらか見やりつ 花の雲
- 花の雲 鐘は上野か 浅草か (芭蕉)
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最初の句は、貞亨3年(1686)芭蕉43歳、2番目の句は貞亨4年(1687)44歳のときに、深川の草庵で作ったものです。
やはり芭蕉も毎日この時の鐘の音を聞いて暮らしていたのです。ちなみに、芭蕉が奥の細道の旅に立ったのは、
元禄2年(1689) 齢46歳のときですから、もうこの鐘の音を聞くことはできないだろうと思っていたかもしれません。
下の写真は、弁天山の鐘楼の入り口に建てられている芭蕉の句碑です。
この句碑は、寛政8年(1796)10月12日 芭蕉の103回忌に浅草寺境内に建てられたもので、
「くわんをんのいらか見やりつ花の雲」 の句と芭蕉の座像が刻まれています。
残念ながら、210年以上の年月が経ち、碑の表面がすり減っていてはっきりと見えませんが、
貴重な句碑ということができそうです。
この石碑に刻まれた芭蕉の句は泰松堂の手による書、芭蕉の座像は佐脇嵩雪の手による画だそうです。
はっきりしたことはわかりませんが、泰松堂と佐脇嵩雪は江戸時代の書家と画家(浮世絵師)であったようです。
『武江年表』(*1)という書物に、
“画工佐脇嵩雪 文化元年(1804)11月22日に没し、浅草誓願寺中称名院に葬られる”と記されているそうです。
(*1) |
武江年表というのは、江戸の考証家 斎藤月岑(げっしん)
(文化元年(1804)-明治11年(1878))が著した江戸の見聞記。
江戸の地理の沿革、風俗の変遷、事物の起源、巷談、異聞など百般にわたり考証、研究した名著。 |
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Part3:明治以降の浅草 |
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明治維新に 神仏分離令 が出され、これにより浅草寺と浅草神社は切り離されました。
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本社神輿 一ノ宮 |
しかし、今でも毎年3月18日に開かれる示現会には、浅草神社の宮神輿が浅草寺本堂に上げられ、
一夜奉安されるという行事が受け継がれています。やはり両者の関係は延々と続いているわけです。
戦災以前には、家光寄進の神輿などの他に新たな3基が加えられ、全部で7基の神輿があったそうです。
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本社神輿をしまう神輿庫 |
しかし、戦災で全ての神輿が焼失してしまったそうです。
現在の本社神輿は、昭和25~27年に氏子四十ヶ町により奉納された一之宮、二之宮、三之宮だけです。
一之宮は土師真中知命、二之宮は桧前浜成命、三之宮は桧前竹成命を祀っており、
いずれも家光に因み日光東照宮の神輿を模して造られているそうです。
これらの3基の本社神輿は、浅草神社の神輿庫にしまわれています。
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Part4:三社祭を取り仕切る新門 |
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新門の控え所の提灯 |
浅草神社境内の神輿庫の裏手あたりに新門の控所が立ちます。
「新門」は、江戸町火消しとして有名な 新門辰五郎 (寛政12年(1800)の生まれとされている)の流れを汲む鳶、
今流に言えば建築屋です。
新門辰五郎は武家の子として生まれましたが、浅草寺を守る門番として、そして町方の火消しとして活躍したことで有名です。
浅草神社の社殿の右手に被官稲荷社がありますが、これは、山城国の伏見稲荷社に祈願したことによって、
重病の妻の病気が全快したお礼として、安政2年に創建した稲荷神社だそうです。
今も浅草寺境内で催される折々の行事における出店は、新門が一手に取り仕切っています。
そして、三社祭では、朝6時に浅草寺境内に神輿の担ぎ手が勢ぞろいし、宮出しの幕が切って落とされますが、
最初に新門の頭の音頭で手打ちが行われます。
また、宮入りでは、新門の頭の音頭で木遣りの謡いと手締めが行われ、祭りが幕を閉じます。
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Part5:浅草寺・浅草神社境内の神輿 |
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浅草寺本堂前でもむ神輿 |
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浅草神社境内の神輿 |
三社祭の圧巻は、何といっても 宮出し と 宮入り をおいて他にありません。
見学するには多少厳しい時間帯であり、それ以上に見物するに良い場所がなかなかとれません。
であれば、町内神輿も境内にきて張り切ってもみますから、
それを見て我慢するのもいいかもしれません。
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【雷門と仁天門】
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雷門をくぐり仲見世に入る神輿 |
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仁天門から眺めた境内の神輿 |
雷門は浅草寺のメインゲートです。この門をくぐると宝蔵門に向かって仲見世の参道が続いています。
雷門は正式には 「風雷神門」 といい、門の右手に風神、左手に雷神の像が置かれています。
また、 仁天門 は、ほとんどの建物が震災や空襲で焼失した中で唯一そのような災厄を免れ今に残っている貴重な門です。
この仁天門には、左に仏教の四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天[毘沙門天とも呼ぶ])の一人である増長天、
右に同じく持国天の像が立っています。よく知られているように、多聞天[毘沙門天]は上杉謙信の守り神です。
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| 雷門通りを練り歩く町内神輿。
向こうに見える金斗雲のようなものは朝日ビールのビルの屋上のシンボル。 |
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