新撰組 壬生屯所
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京都の壬生村は、新撰組の発祥の地です。 当時の新撰組の屯所であった八木邸や旧前川邸が、今でも残っています。 当時、壬生村は水菜を栽培する農村地帯だったそうです。ここで採れる水菜が、有名な壬生菜です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新撰組 徳川第14代将軍家茂の上洛の警護のために、京に上った浪士隊のうち芹沢鴨、近藤勇ら13名は、 壬生村の郷士八木家の邸を宿所とし、ここで文久3年(1863)3月に新撰組を結成しました。 幕末の京の治安を守るために、新撰組は活動を始めますが、急造した組織であり、考え方も違うことから、 なかなか全体の結束が固まらなかったようです。 このため、近藤勇や土方歳三らは、下に示すような「局中法度」を作り、結束を図りました。 しかし、初代局長でもあった芹沢 鴨はこの規則を守らず、文久3年(1863)9月18日、 土方、山南、沖田、原田らによって、暗殺されることになったのです。 この後、近藤勇が芹沢 鴨に代わって新撰組局長となり、全体を統率していくことになります。 当時は幕末の動乱期です。討幕を期す勤皇派と佐幕派の対立が激化し、 池田屋事件(注1)、近江屋事件(注2)、 寺田屋事件(注3)など、幾多の事件が起こりました。 新撰組が活躍した期間は、わずか5年くらいの間でしたが、大変な激動の時期だったわけです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(時代背景)
当時の日本は、ペリー率いるアメリカの大艦隊が押し寄せるなど、
開国をせまる諸外国の圧力が日増しに高まっていました。
開国やむなしとする幕府側、夷敵を打ち破り天皇による政治を実現しようとする朝廷側(尊王攘夷、王政復古)、
いわば開国論の江戸と攘夷論の京都が真っ二つに分かれていました。
このような状況の中で徳川幕府と朝廷は 公武合体(公家集団と武家集団の一体化) を進め、
国内の混乱を鎮めようとしました。特に弱体化していた徳川幕府の思い入れは強かったといえます。
その具体的方策が 皇女和宮の降嫁 でした。
和宮は徳川14代将軍家茂の御台所となりましたが、
一度火がついた闘争はなかなか静まりません。朝廷との連帯を深めるために、
家茂は何度も天皇と会いに京都に赴くことになったわけです。
このとき、京都における将軍の警護のために結成されたのが新撰組です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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近藤勇と隊旗 近藤勇は、天保5年(1834)10月5日に、武州多摩群石原村の農家の3男として生まれました。当時の多摩地方は、 幕府の直轄地、いわゆる天領であり、武士になり出世することを夢見ていた者がたくさんいたようです。 近藤勇は、天然理心流の千葉周斎の養子となって、免許皆伝の腕前になりました。 折りしも、京都では、勤皇派の活動が活発になり、一方では、市中に暗殺や押し込み強盗のたぐいが横行し、 治安の悪化が著しかったようです。幕府は、これを取り締まるために、浪人を募集することになりましたが、 近藤勇も、これに応募したわけです。 このときに、同郷の土方歳三を始め、沖田総司、山南 敬助、永倉 新八、原田 左之助、藤堂 平助、 井上 源三郎らも一緒に応募したのです。 その後、京に出て、新撰組を結成し、近藤勇は局長になりましたが、隊旗を 「 誠 」 としました。 なぜ隊旗に、「 誠 」の1字を選んだのでしょうか。 近藤勇は、若い頃から、 「 誠に生きる 」 ということを自分の信念としていたと言われています。 実際、近藤勇は「誠に生き、誠に死ぬ」という信念を持って、武士としてのあり方を新撰組の活動に求めました。 しかし、最後には官軍に捕らえられ、明治元年(1868)4月25日、江戸板橋宿において35歳の若さで斬首の刑にあい、 その生涯を閉じています。なお、同年5月30日に、沖田総司も労咳で病死しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
壬生屯所 八木邸 八木家は、壬生村の郷士です。右の写真にも示すように、長屋門を構えているくらいですか 当時はかなり由緒ある家柄だったのかもしれません。実際、先祖は越前朝倉家とつながっていたようです。 現在の八木邸の長屋門をくぐると、母屋が残っています。 この母屋には、芹沢 鴨が暗殺された部屋や、そのとき柱に付けられた刀傷も残っています。 なお、館内は撮影禁止です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
壬生屯所 旧前川邸 八木邸の向かい側にも、文久3年(1863)から2年間新撰組の屯所とされた「前川邸」があります。 右の写真が、昔のままの建物の外観です。庭までは入れますが、内部は非公開です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新撰組隊士の墓(壬生寺内) 八木邸の隣に壬生寺があります。新撰組は、ここで兵法の訓練をしていたそうです。 壬生寺の境内には、芹沢鴨と平山五郎の墓(写真の左側の墓)、隊士の墓(写真の右側の墓)があります。 また、近藤 勇の遺髪塔もあります。近藤 勇は、斬首の刑に処せられたために、 遺髪だけが祭られた塔になっています。 |
(注1) | 池田屋事件 | 元治元年(1864)6月5日、京都守護職の下で治安維持にあたっていた新選組が、 京都三条小橋の旅館池田屋に潜伏していた尊皇攘夷派の長州藩士を襲撃した事件。 |
(注2) | 近江屋事件 | 慶応3年(1867)11月15日、京都河原町蛸薬師の旅館近江屋の2階で、坂本龍馬と中岡慎太郎が惨殺された事件。 当初、新撰組の犯行と思われていたが、実際は「京都見廻組」の犯行だった。なお、この日は龍馬の誕生日でもあった。 |
(注3) | 寺田屋事件 | 寺田屋と龍馬のページ 参照 |