寺田屋 と 龍馬 |
龍馬たちが襲撃された寺田屋は、京都伏見にあります。
伏見は、幕末の頃、坂本龍馬を始めとする勤皇の志士が活躍する舞台でもありました。 伏見は、1592年に豊臣秀吉が伏見桃山城を築いた城下町です。 江戸時代には、港町としても栄え、宇治川などを三十石船が行きかう水上交通の要衝の地でした。 伏見城の櫓は、現在皇居に移設されています。二重橋とともに調和した景観を呈し、 皇居の代表的な観光スポットになっている 伏見櫓 がそれです。 |
寺田屋
水上交通の要衝としての伏見は、江戸時代に大変賑わった町でした。寺田屋は、慶長2年ころに、
伊助という百姓が船宿を開いたことに始まるといわれています。
寺田屋は、薩摩藩の定宿であり、勤皇の志士たちもここを足場に京へ向かいました。
龍馬もこの宿を利用していました。
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龍馬の銅像と自作の句 | |||||||||
大きな石碑の前に、坂本龍馬の銅像が建っています。 石碑は「薩摩九烈士碑」です。寺田屋事件-その2-において、 藩主 島津久光によって殺害された急進派薩摩藩士9名を追慕して建てられた記念碑です。 ちなみに9名の名前は以下の通りです。
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坂本龍馬は、自由奔放な性格の持ち主であったことが、つぎの龍馬自作の句から伺われます。
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寺田屋の室内
寺田屋は旅籠でしたから、2階に小さな部屋がいくつもあります。龍馬がよく利用していた「梅の間」は、
右の写真の部屋です。現在、この部屋には、龍馬の掛け軸や、愛用した刀や短銃の模型などが展示されています。1階の部屋には、様々な品が展示されています。その中に、龍馬と共に、明治維新に活躍した人たちが一同に会して写っている 「 フルベッキ写真 」 も展示されています。 |