寺田屋 と 龍馬
龍馬たちが襲撃された寺田屋は、京都伏見にあります。 伏見は、幕末の頃、坂本龍馬を始めとする勤皇の志士が活躍する舞台でもありました。
伏見は、1592年に豊臣秀吉が伏見桃山城を築いた城下町です。 江戸時代には、港町としても栄え、宇治川などを三十石船が行きかう水上交通の要衝の地でした。 伏見城の櫓は、現在皇居に移設されています。二重橋とともに調和した景観を呈し、 皇居の代表的な観光スポットになっている  伏見櫓 がそれです。

寺田屋
水上交通の要衝としての伏見は、江戸時代に大変賑わった町でした。寺田屋は、慶長2年ころに、 伊助という百姓が船宿を開いたことに始まるといわれています。 寺田屋は、薩摩藩の定宿であり、勤皇の志士たちもここを足場に京へ向かいました。 龍馬もこの宿を利用していました。
寺田屋  
・寺田屋事件-その1-(龍馬襲撃騒動)
慶応2年(1866)1月23日、伏見の旅館寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、 伏見奉行配下の捕り方が急襲した騒動です。 このとき、入浴中だった婚約者のお龍は、裸のまま風呂から飛び出し、龍馬に知らせたといわれています。 お龍の機転により、龍馬は辛くも屋根伝いに逃げ延びたわけです。
なお、寺田屋には、いまもその風呂桶や、柱に争ったときの刀傷が残っていますが、 現在の建物は後に建てられたものだそうですから、いずれも本物ではないようです。

・寺田屋事件-その2-(急進派薩摩藩士の鎮圧騒動)
一般に、寺田屋事件というと龍馬が襲撃された事件を思い浮かべますが、 もう一つの寺田屋事件のほうが大きな騒動だったようです。
その寺田屋事件というのは、文久2年(1862)4月23日に起こっています。 討幕を計画する薩摩藩や他藩の急進派の勤皇の志士たちが寺田屋に集合することを知った薩摩藩主 島津久光が、 この暴挙を鎮圧した騒動です。
 
龍馬の銅像と自作の句
龍馬の銅像 龍馬の銅像 大きな石碑の前に、坂本龍馬の銅像が建っています。
石碑は「薩摩九烈士碑」です。寺田屋事件-その2-において、 藩主 島津久光によって殺害された急進派薩摩藩士9名を追慕して建てられた記念碑です。 ちなみに9名の名前は以下の通りです。

・有馬新七・田中謙助・柴田愛次郎
・橋口壮介・橋口傳蔵・弟子丸龍助
・西田直五郎・森山新五左衛門・山本四郎
龍馬の句 龍馬の句
坂本龍馬は、自由奔放な性格の持ち主であったことが、つぎの龍馬自作の句から伺われます。
「世の人は われを 何とも言はばいへ わがなすことは 我のみぞしる」
この句は、10代の頃に作ったようですが、その頃から我が道を行くタイプ、 悪く言えばマイペース人間であるがゆえに、周囲からは低脳呼ばわりされていたそうです。
寺田屋の室内
刀 寺田屋は旅籠でしたから、2階に小さな部屋がいくつもあります。龍馬がよく利用していた「梅の間」は、 右の写真の部屋です。現在、この部屋には、龍馬の掛け軸や、愛用した刀や短銃の模型などが展示されています。

1階の部屋には、様々な品が展示されています。その中に、龍馬と共に、明治維新に活躍した人たちが一同に会して写っている  「 フルベッキ写真 」 も展示されています。

寺田屋 寺田屋 寺田屋

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