日本の夜明け −明治維新で活躍した人たち− |
この写真は、オランダ人宣教師フルベッキ博士と勤王の志士たちが、
西欧の状況や今後の日本の進む道などについて議論を交わしたときの記念写真といわれています。 慶応元年(1865)に、上野彦馬(写真技術の祖といわれている)によって撮影されたそうですが、 実際には、明治元年(1867)というのが正しいようです。 幕末から明治にかけて活躍したそうそうたる人たちですね。 写真の人物の名前を下の表に示してみましたが、●印を付けた人物以外は、真偽のほどがはっきりしていないようです。 それぞれの人たちが活動していた時期と照らし合わせてみると、このように一同に会するというのは難かしいそうです。 たとえば、龍馬はんや中岡はんや高杉はんなどは、この写真を撮影したころには、すでに死んでいたそうです。 しかし、明治維新に活躍したそうそうたる人物が写っているということについては、 この写真を評価している人たちも多くいるようです。 |
この写真の人物の真偽を別として、当時どのような人物が活躍したのかを知る意味で、 人物名のリストを作成してみました。 |
No | 藩 | 名前 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 長州藩 | 大村益次郎 | 明治2年(1869年)2月に函館・五稜郭を制圧し、戊辰戦争を終結する。 |
2 | 長州藩 | 桂小五郎 | 神道無念流・斎藤弥九郎門下として傑出した剣の才能を現し、21歳で免許皆伝。 その後、練兵館の塾頭になる。 |
3 | 佐賀藩 | ●江副廉蔵 | |
4 | 公卿 | ●岩倉具経 | 父親が岩倉具視。兄が岩倉具定。男爵 |
5 | 公卿 | 岩倉具慶 | 岩倉具視の義父。後に、岩倉具視を養子とする。 |
6 | 長州藩 | 広沢真臣 | 慶応2年(1866)長州藩を代表し、安芸国厳島で幕府方勝海舟と会見し、休戦協定を結ぶ。 |
7 | 明治天皇 | ||
8 | 佐賀藩 | 副島種臣 | 枢密院顧問官、枢密院議長,松方内閣内務大臣などを歴任する。伯爵 |
9 | 土佐藩 | 岡本健三郎 | |
10 | 土佐藩 | 坂本竜馬 | 勝海舟の海軍塾の塾頭になり、1867年に海援隊を作る。 その後、倒幕のために薩長同盟を仕掛け、実現する。 「世の中の人は何とも言わば言え。わが成すことは我のみぞ知る。」という歌でも有名な 自由奔放な人物であったが、1867年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。 |
11 | 福井藩 | 日下部太郎 | 慶応2年(1866)、福井藩第1号の海外留学生として渡米。 数学者としても天才的で、アメリカ・アカデミー賞の初代受賞者の一人。 |
12 | 肥後藩 | 横井左太平 | 横井小楠の甥 |
13 | 肥後藩 | 横井太平 | 横井小楠の甥 |
14 | 土佐藩 | 中岡慎太郎 | 坂本竜馬と共に薩長の和解工作に尽力する。 竜馬の「海援隊」とは別に、「陸援隊」の隊長となる。 |
15 | 佐賀藩 | ●大隈重信 | 第8代、第17代内閣総理大臣。東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者。侯爵 |
16 | 公卿 | 岩倉具綱 | 義父が岩倉具視。後に、具視の養子となる。 |
17 | ●ウィリアム・フルベッキ | フルベッキ博士の子供 | |
18 | ●フルベッキ博士 | オランダ人宣教師。長崎に設立した英学塾「致遠館」の校長となり、 副島種臣、大隈重信、中野健明、中島永元、相良知安などを指導する。 | |
19 | 公卿 | ●岩倉具定 | 父親が岩倉具視。義父が岩倉具綱。岩倉具経は弟。公爵 |
20 | 長州藩 | 高杉晋作 | 慶応2年(1866)、薩摩藩と薩長同盟を結び、反幕府の態勢を固める。 |
21 | 肥後藩 | 横井小楠 | 藩の改革や幕政改革などを説き、文久2年(1862)「国是7カ条」をまとめる。 この中の1か条に「参勤交代制度の廃止」も含まれていた。 |
22 | 幕臣 | 勝海舟(●相良知安) | 1860年、咸臨丸で太平洋を横断し渡米する。ジョン万次郎や福沢諭吉も同乗していた。 神戸海軍操練所で、坂本龍馬に海軍術を教授する。 官軍側の西郷隆盛との交渉で、江戸城の無血開城を果たす。 明治新政府より子爵の内示を受けた際、「今までは人並の身と思いしが、五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」 との歌と共に突き返し、あわてた政府が伯爵の位を授けたという逸話が残っている。伯爵。 なお、写真の実際の人物は、明治初期の医学行政担当者であった相良知安といわれている。 |
23 | 佐賀藩 | ●中野健明 | 維新後、外務省や司法省の官僚として活躍し、 後に、神奈川県知事になる。 |
24 | 佐賀藩 | ●中島永元 | 岩倉使節団の一員として渡米する。 |
25 | 土佐藩 | 後藤象二郎 | 明治6年(1873)板垣退助らと愛国公党を組織する。伯爵 |
26 | 佐賀藩 | 江藤新平 | 司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。 |
27 | 土佐藩 | 大木喬任 | 初代文部卿、元老院議長、枢密院議長、法相、文相などを歴任する。 明治期の教育制度を確立した明治の六大教育家の一人。伯爵 |
28 | 長州藩 | 井上馨 | 明治23年(1890)、渋沢栄一と大倉喜八郎の両氏を説いて、 鹿鳴館との関連性のあるホテルとして有限会社帝国ホテルを設立させる。侯爵 |
29 | 長州藩 | 品川弥二郎 | 明治3年(1870)渡欧し、農政や協同組合の研究をする。帰国後、信用協同組合を設立する。子爵 |
30 | 長州藩 | 伊藤博文 | 明治18年(1885)初代内閣総理大臣となる。その後、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣を歴任。 明治22年(1889)発布の大日本帝国憲法制定の中心人物としても活躍。公爵 |
31 | 薩摩藩 | 村田新八 | 西郷隆盛の下で、会津若松城の戦に参戦する。 岩倉使節団の一員として渡米し、帰国後、砲隊学校・章典学校の監督となる。 |
32 | 薩摩藩 | 小松帯刀 | 薩摩藩家老として、討幕運動、大政奉還、薩長同盟に尽力する。 |
33 | 薩摩藩 | 大久保利通 | 版籍奉還、廃藩置県など、明治政府の体制を確立する。 内務省を創設し、初代内務卿として地租改正、徴兵令などを実施し、実権を握る。 |
34 | 薩摩藩 | 西郷隆盛 | 明治元年(1968年)、高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会談し、 江戸無血開城を実現する。 |
35 | 薩摩藩 | 西郷従道 | 西郷隆盛の弟。 新政府では、文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任。第1次伊藤内閣では、海相に就任し、 海軍大将となる。海相として、海軍の整備、改革に尽力し、日清戦争でも活躍する。侯爵 |
36 | 薩摩藩 | 別府晋介 | 戊辰戦争(1868)で、分隊長の一人として白河城、会津若松城の戦に参戦する。 西郷隆盛が切腹したときに、介錯を勤める。 |
37 | 中村宗見 | 江戸本所で生まれ、緒方洪庵の適塾に入門し、蘭学、医学を学び、長崎に遊学する。 その後、江戸小石川療養所勤務、病院開業。明治12年(1879)には、江差に渡り、風土病の研究治療にあたる。 | |
38 | 薩摩藩 | 川路利良 | 大久保利通の腹心として、警察制度を創設する。 明治7年(1874)に創設された警視庁の初代総監となる。 |
39 | 薩摩藩 | 黒田清隆 | 第2代内閣総理大臣。その後、枢密院顧問、逓信大臣、枢密院議長を歴任。伯爵 |
40 | 薩摩藩 | 鮫島誠蔵 | |
41 | 薩摩藩 | 五代友厚 | 明治元年(1868)外国事務局判事として大阪在勤し、 翌年には現在の大阪証券取引所や・大阪商工会議所を設立し、初代会頭となる。 東の渋沢栄一と西の五代と並び称される。 |
42 | 薩摩藩 | 寺島宗則 | 慶応元年(1865)渡欧し、維新後は、外務卿として、 樺太・千島交換条約、日朝修好条規の締結などに尽力する。伯爵 |
43 | 薩摩藩 | 吉井友実 | 新政府において司法、民部、宮内各省の仕事に尽力する。 |
44 | 薩摩藩 | 森有禮 | 英国や米国で教育制度の研究に取り組んだ後、 第一次伊藤博文内閣において、初代文部大臣として学校制度を確立する。 義務教育、帝国大学を頂点とした学校システムなどを打ち出すと共に、修学旅行や運動会などの行事も制定。子爵 |
45 | 佐賀藩 | 正岡隼人 | |
46 | 紀伊藩 | 陸奥宗光 | 坂本竜馬の海援隊に加わって活躍し、明治維新後は、 駐米全権公使、山県有朋内閣の農商務大臣,第2次伊藤博文内閣の外務大臣などを歴任。 日清戦争直前の1894年には、イギリスとの間で治外法権の撤廃を勝ち取る。伯爵 |