江戸東京探訪シリーズ 隅田川 探訪 | |
1992年8月 丁度レインボーブリッジが建造中のころ、荒川との分岐点岩淵水門から東京湾に流れ込むまでの 隅田川に架かっている橋を陸上および水上バスから撮影しました。 |
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隅田川 | 隅田川は、北区の「岩淵水門《で荒川から分かれ、 足立区、荒川区、台東区、墨田区、江東区、中央区を通って東京湾に注ぐ全長およそ 23km の河川です。 | |
江戸時代、江戸城は敵の侵略に備え二重に堀がめぐらされていましたが、
外堀の東側は隅田川がその役目を果たしていました。
当時の隅田川は重要な輸送路であり、日本橋、深川、本所、浅草などに大きな米問屋がいくつもありました。
また、浅草には歌舞伎三座や吉原遊郭、両国には花火や相撲や見世物小屋、深川には深川上動尊や富岡八幡宮などがあり、
隅田川岸一帯は大変賑わったそうです。
江戸時代には、この隅田川と江戸城に挟まれた現在の台東区、千代田区の一部、中央区あたりに
町人地 がありました。 隅田川一帯は、遊興娯楽の地となり、町人文化を醸成する上で重要な役割を担ったと言うことができます。 |
荒 川 | 荒川は、奥秩父の甲武信岳(2483m)の真の沢を源流とする総延長距離168km、流域面積2940㎢の一級河川で、 昔は今の隅田川の川筋を通って東京湾に流れ込んでいました。 |
荒川は、吊前が示すとおり荒れ狂う川で、昔からたびたび洪水を起していました。
特に下流域(現在の隅田川)は、岩淵あたりから川幅も狭く、その上曲がりくねっているので、
湾岸沿いの一帯に大きな被害をもたらすことがたびたびありました。 そのため、江戸時代初期には、すでに荒川に対する積極的な河川工事が行われました。 江戸の地に来た徳川家康も、いち早く荒川の開発に目をつけたと言われています。 実際、荒川に端を発する大工事により、洪水対策のみならず、水運の確保、水田地帯の開発、 あるいは戦略的な江戸の町の防御など、あらゆる面で大きな効果を得ることができたようです。 それが江戸の町の大繁栄につながったと言っても過言ではありません。隅田川は、江戸の町と共に 発展してきたわけです。 しかし、明治以降も洪水の被害は後を絶たず、明治44年には、 岩淵で隅田川と分岐し東京湾に流れ込ませる大掛かりな人工水路の開発がスタートしました。 この水路が荒川放水路で、大正13年に岩淵水門(旧岩淵水門のこと)が作られ、 この放水路に初めて水が流されたときに荒川放水路の完成を見ます。 したがって、大正13年以前には荒川放水路は存在せず、現在の隅田川が荒川でした。 大正13年に北区の岩淵で分岐し、荒川放水路と隅田川に分かれてから 荒川放水路を荒川と呼んでおり、隅田川に比べてはるかに川幅が広く一見荒川の本流と思いがちですが、 むしろ隅田川が荒川の本流で、荒川放水路は荒川の支流であると言えます。 | |
江戸時代以前からの荒川の開発は、江戸や東京の発展をもたらしました。
荒川の開発はどのように行われてきたのでしょうか。
国土交通省 関東地方整備局 河川部のホームページを参考に荒川の開発の歴史を概略まとめてみました。
→ 荒川の開発史
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