木曾路
木曾路はすべて山の中である。 あるところはそばづたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、 あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。・・・ 
藤村 「夜明け前」より
木曽路 は、 中山道 のほぼ中間地点にあたり、 古くは律令時代から都と東国を結ぶ重要な幹線道路「東山道」 に属していました。 徳川家康は、五街道の整備に力を注ぎ、慶長6年(1601)にその一環として東山道を元にした中山道を定め、 木曽路もその街道の一部になりました。
中山道は、日本橋を起点とし近江の草津で東海道と合流し大津を終点とする街道で、区間に67の宿駅が定められました。 総延長距離は百三十五里二十三町(約533km)で、 東海道(495.5km)よりも約47km長いことになります。

中山道のうち 第三十三宿の贄川から第四十三宿の馬籠までの十一宿 が木曽路です。 この一帯は趣のある景勝の地であり、中山道自体「木曽街道」とも呼ばれ、中仙道を代表する地帯です。

中山道宿場Map

木曽路は、信州の木曽谷を流れる 木曽川沿い に位置し、もともと山深く険しい峠も多い地帯ですが、 近江八景になぞらえた 木曽八景 と呼ばれる名勝地がある風光明媚な地帯です。

何といっても、馬籠の庄屋の家に生まれた島崎藤村の小説 「 夜明け前 」 の書き出し
木曽路はすべて山の中である・・・・・・・・・・・・・ ・・・”
があまりにも有名です。
なお、中山道全体としては、山深い地帯を通っているので峠が多いわりには、東海道ほどには大きな川や海上を渡る危険が少なく、 比較的容易な旅ができたようです。皇女和宮も中山道を通って江戸に降嫁したことは有名です。

浮世絵『木曽街道六十九次』のうち木曽路の宿駅

江戸時代の浮世絵師・歌川広重(寛政9年(1797) - 安政5年(1858))と渓斎英泉(寛政2年(1790)- 嘉永元年(1848))は、天保6〜8年(1835-1837)頃 名所絵『木曽街道六十九次』を合作しました。 全部で72枚の浮世絵が作成されましたが、広重が48枚、英泉が24枚です。 起点の「日本橋」は英泉、終点の「大津」は広重が作成しました。
木曽路十一宿に関しては、 広重が「贅川」「宮ノ越」「福島」「上ケ松」「須原」「三渡野」「妻籠」、英泉が「奈良井」「薮原」「野尻」「馬籠」です。

以下に、木曽路十一宿をFlashソフトで模写したものを掲載します。

『木曾街道 贅川』 歌川広重

贅川宿は、木曽路十一宿の北端に位置し、日本橋から数えて三十四番目の宿場。 福島宿の関所の副関贄川番所が設けられていた。宿屋の軒先の看板に書かれているのは、 この「木曽街道六十九次」シリーズの彫師、摺師、版元の名前であり、馬の尻には贄川宿の宿番三十四が示されている。
(長野県塩尻市贄川)
贅川
『岐阻路驛 奈良井宿 名産店之図』 渓斎英泉

奈良井宿と藪原宿を結ぶ鳥居峠は、中山道の難所であり、この峠越えを控えて一夜の宿をとる旅人で「奈良井千軒」と言われるほど奈良井宿は栄えた。 図中の看板にある「名物お六櫛」は、この地方の特産品であった。(長野県塩尻市奈良井)
奈良井
『木曾街道 藪原 鳥居峠 硯ノ清水』 渓斎英泉

木曽路最大の難所であった鳥居峠(標高1,197m)からの眺めは最高で、西に御嶽山、南に駒ケ岳、眼下には木曽川の清流を見ることができた。 峠を越えると薮原宿である。後方に見えるのは御嶽山、左の松の下にある碑は、木曽義仲が願文を書いたという硯清水である。(長野県木曽郡木祖村薮原)
藪原
『木曾街道 宮ノ越』 歌川広重

宮ノ越は、木曽義仲が平家追討の挙兵をした歴史の地で、義仲ゆかりの寺「徳音寺」がある。 この寺に義仲と巴御前の墓がある。また、この地は木曽大工の発祥の地でもある。 図は、ぼかしを入れ夜霧を表わした広重の名作の一つとされている。(長野県木曽郡木曽町日義宮ノ越)
宮ノ越
『木曾街道 福しま』 歌川広重

福島は、中山道のほぼ中間に位置し、碓氷、箱根、新居と並ぶ天下四大関所の一つがあり、木曽谷の行政や経済の中心地であった。 関所は木曽谷の切り立った断崖の上に設けられ、木曽五木(ひのき、さわら、あすひ、こうやまき、ねずこ)の持ち出しや入り鉄砲に出女などが厳しく取り締まられた。 その一方で、信仰の山御嶽山への入り口としても賑わった。(長野県木曽郡木曽町)
福島
『木曾街道 上ケ松』 歌川広重

上松は、尾張藩の庇護のもとで、古くから木曽檜の集積地として栄えた。宿外には木曽川の激流が花崗岩を浸食して作り上げた奇岩が多く、 「寝覚め床」も最も有名な奇岩である。広重も描いた「小野の滝」も絶景で、このあたりは、中山道随一の景勝地と言われた。(長野県木曽郡上松町)
上ケ松
『木曾街道 須原』 歌川広重

須原は、古くから水が豊富な宿場町として知られ、丸太をくりぬいて水を溜める「水舟」が有名。 この図は、宿場の外れの名刹「定勝寺」の境内と言われており、にわか雨に遭った虚無僧たちが雨宿りしたり、 駕籠やがお堂に駆け込もうとしていたりする風景を描いている。(長野県木曽郡大桑村須原)
須原
『岐阻路驛 野尻 伊奈川橋 遠景』 渓斎英泉

野尻は、外敵を防ぐため道が左右に曲がりくねった「野尻の七曲り」と呼ばれる町並みの宿場であった。 この図は、伊奈川に架かる伊奈川橋を描いている。伊奈川は暴れ川で、たびたび上流から濁流と共に石が流されてくるために、 橋脚のないアーチ型の橋が作られた。左上部に「木曽の清水寺」といわれる岩出観音が描かれている。(長野県木曽郡大桑村野尻)
野尻
『木曾街道 三渡野』 歌川広重

妻籠宿と並び栄えた宿場であるが、度重なる大火で規模が小さくなっていったと言われている。 この宿の外れにある曹洞宗等覚寺には、十二万体を夢見て全国行脚した円空の仏像が収められている。この図は、 梅の花が咲きほこり春の訪れを告げる宿場の外れの情景である。(長野県木曽郡南木曽町三留野)
三渡野
『木曾街道 妻籠』 歌川広重

妻籠は、中山道と飯田街道の分岐点に位置し、古くから交通の要所として栄えた。伊那谷への分岐点でもある。 現在でも江戸時代の町並みをよく残しており、木曽路を代表する観光地としても有名である。この図は、 妻籠から馬籠に向う途中の馬籠峠(標高801m)を描いている。(長野県木曽郡南木曽町妻籠)
妻籠
『木曾街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之図』 渓斎英泉

美濃の国と信濃の国の境界。妻籠宿と馬籠宿の間には馬籠峠(標高801m)がある。峠からは南に恵那山が眺められる。 峠を下ると島崎藤村の生誕地であり、名作「夜明け前」の舞台になった馬籠宿。 藤村は、明治5年(1872)に馬籠宿の代々本陣を務めた家に生まれた。(岐阜県中津川市馬籠)
馬籠
【参考】 中山道の起点と終点の浮世絵
『木曾街道 日本橋 雪之曙』 渓斎英泉
日本橋 日本橋川に架かる日本橋の北側には魚河岸があり、早朝から大変な賑わいを見せていました。 周辺には問屋が多く、日本橋川沿いには倉庫が立ち並び、江戸の商業の中心地でした。 魚河岸の発祥は、天正18年(1590)に摂津国佃島の漁師が、幕府へ献上した魚の残りを、この地で販売したことによるといわれています。
大津
『木曾街道 大津』 歌川広重
大津は、天智天皇が大和から遷都、律令国家の基盤を築こうとした歴史の地。都が京に移ってからも、都への出入口として、 琵琶湖水運の中心地として、また、北陸道、東海道、中山道の分岐点という要所に位置する宿として栄えた。
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