歌川広重は、天保9年(1838)頃江戸近郊の景勝地8か所を浮世絵として作成しています。以下に、  現在の地図上で江戸近郊八景それぞれがだいたいどの位置あたるかを示します。
金沢八景
吾嬬杜夜雨あずまもりやう 吾嬬杜夜雨 この絵は、墨田の吾嬬杜あたりに降る夜半の春雨の風景を描いている。 吾嬬杜は、日本武尊と弟橘姫を祀った吾嬬権現社(現在の吾嬬神社:墨田区立花)の杜のこと。 そばを流れる北十間川は、江戸初期に開削された運河で、西に隅田川、東に旧中川と接続する。 なお、隅田川に架かる吾妻橋は、吾嬬神社への参道だったことから、その名前が付けられた。
 - 柳島 柳の蓑も かりてまし 吾妻の杜の 夜半の春雨
玉川秋月たまがわしゅうげつ 玉川秋月 この絵は、玉川(現在の多摩川)の丸子の渡し(現在の丸子橋辺り)付近にかかる秋の月の風景を描いている。 対岸に平間村の家並みが見える。 玉川は、鮎などの川魚が豊富で、鵜飼いも行われていた。この絵にも網を打つ漁師の姿が見える。 また、玉川は物資の運搬にもよく利用され、人々の行楽の場所でもあった。 なお、玉川は下丸子、六郷、羽田を経て東京湾に流入するが、河口付近は六郷川と言われていた。
 - 秋の夜も 昼に似顔の 月影は 二タ子の松に 宿る玉川  
羽根田落雁はねだらくがん 羽根田落雁 この絵は、湿地帯であった羽根田の玉川弁財天(別称:羽田弁天)と、その辺りに舞い降りる雁の群れを描いている。 この辺りは今は羽田飛行場になっているが、昔は新鮮な魚介類を幕府に献上する「御菜浦」として発展し、 羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が新田を開発したことから「鈴木新田」と呼ばれた。 このとき新田を守る堤防の守り神として「穴守稲荷」が祭られた。 また、ここには玉川弁財天もあり、玉川の守護神、海上の守護神として江戸商家や廻船問屋の信仰を集めていた。
 - 羽根多道 子等が わるさに引きわたす 縄手を 横に落る鴈かね  
飛鳥山暮雪あすかやまぼせつ 飛鳥山暮雪 この絵は、飛鳥山の雪景色を描いている。飛鳥山といえば、当時桜の名所として知られ、 花見客で賑わう一大行楽地であったが、静寂とした雪景色の飛鳥山もまた一層の趣を与える。 山の上の方に石碑が見えるが、これは元文2年(1737)に八代将軍徳川吉宗がここに桜を植樹させ、記念碑を建てさせたものである。
 - あすかやま 梢も わかす 降埋む 雪にゆふへや あらそひの松  
池上晩鐘いけがみばんしょう 池上晩鐘 この絵は、平間街道から見た池上本門寺の参道、総門、本堂、五重塔などを描いている。 池上本門寺は、現在の大田区池上にある日蓮宗の寺院。表参道96段の石段坂は、慶長年間に加藤清正が寄進したもので、 法華経宝塔品の偈文の96文字にちなんで石段を96段としたと伝えられている。
行徳帰帆ぎょうとくきはん 行徳帰帆 この絵は、下総葛飾郡(現在の千葉県市川市)の行徳の入り江に、江戸から帰ってきた帆船が差し掛かっている風景を描いている。 行徳は、江戸小網町の行徳河岸との間の水路三里八丁に「行徳船」という定期船を通じ、 房総・常陸への物資継走地としての重要な水駅であり、海浜には塩田も作っていた。
 - 二またの猫ざね川の 追い風に こわごわ帰る 行とくの船  
芝浦晴嵐しばうらせいらん 芝浦晴嵐 この絵は、芝浦の海の嵐の去ったあとの爽快な風景を、海上から岸を遠望する形で描いている。 芝浦は、古く竹芝の浦と言われていたのを縮めて芝浦と呼ばれるようになったが、江戸前の鮮魚の漁場として栄えた。
小金井橋夕照こがねいばしせきしょう 小金井橋夕照 この絵は、小金井橋を中心とする玉川上水の満開の桜が夕陽に照らされて一層美しさを増している風景を描いている。 玉川上水は、羽村の取水堰から四谷大木戸に至る40数kmの江戸の上水路で、 庄右衛門、清右衛門の二人の玉川兄弟が元禄7年(1694)に開削した。後の元文年間(1737年頃から)に川崎平右衛門が、 大和の吉野山と常陸の桜川の山桜の苗を植えたことにより、江戸近郊随一の桜の名所となった。
 - さひ鮎の あかき 夕日もまきわらへ 横にさしたる 小かね井の橋  
 - 花くもり あすの日和を もち直す 夕日うれしき 小かね井のさと  


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