江戸東京探訪シリーズ
浅草 羽子板市

羽子板 羽子板がいつごろ世の中に出てきたのか定かではありませんが、一説によれば、 すでに室町時代には正月に羽子板が使用されていたようです。 もともとは子どもの厄除けの目的で、羽子板が作られたといわれています。

現在、年の瀬に催される浅草の羽子板市は大勢の人出で賑わいますが、この羽子板市は、 江戸時代に浅草 歳の市で羽子板を売る店が立ち並んだことに始まります。 その名残が今に続いているわけです。 当時は周辺の下谷あたりに大勢の羽子板職人が住んでいたそうですが、 今では職人の数も少なくなってしまい少し寂しい思いがします。
しかし、浅草寺境内に、ライトの明かりに照らされた色とりどりの羽子板を飾った無数の店がところ狭しと立ち並び様子は まさに一大絵巻とでも言えそうです。 身動き取れないほどの人出ですが、むしろそれが一層羽子板市らしさかもしだしています。

ここに掲載した写真は、浅草の羽子板市に行って携帯で撮ってきたものですが、 この写真を見ても分かるように、やはり羽子板の王様は押絵を貼り付けた豪華な羽子板です。 ちなみに右の写真は羽子板市で思わず衝動買いしてしまった羽子板です。 このような羽子板が登場したのは、徳川11代将軍家斉の頃、すなわち 文化・文政年間(1804〜1830)と言われています。

その頃は、特に江戸町人文化が栄え、町人たちはいろいろな娯楽を楽しむようになった時代です。 たとえば、浅草といえば隅田川の花火が有名ですが、 これも文化年間(1804〜1818)に両国の川開きの日に打ち上げられたのが始まりでした。 芝居も寄席も人形浄瑠璃も、生花も茶の湯も、さらには富くじまでもが、 文政年間(1818〜1830)に最盛期を迎えていたというから、本当に楽しい時代であったのでしょう。 また、役者絵の浮世絵で最も人気のあったといわれている歌川豊国の生年は天明8年(1788)〜文政7年(1824)ですから、 まさにこの時代に活躍したということができます。

当時は、江戸の町のあちこちに芝居小屋が散らばって建てられていましたが、 天保13年〜14年(1842〜1843)頃に、 中村座、市村座、森田座 という大きな芝居小屋が浅草に集められ、 「猿若三座」となりました。 芝居はますます盛んになり、武家や町人を問わず当時の大きな娯楽であったわけです。 当然役者は大変な人気で、浮世絵にもよく描かれたのですが、 羽子板の押絵にも役者の図柄が大変好まれたことは言うまでもありません。
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