江戸東京探訪シリーズ
隅田川花火大会

隅田川の花火を屋形船に乗って見物しました。今年(2011年)は、3.11東北大震災の影響で、例年より1ケ月遅れの8月27日(土)に開催されましたが、 厩橋の東のたもとから乗船し、桜橋の上流側に停船した屋形船の中から、第一会場の花火を見物しました。スカイツリーも間近かにそびえ、 優雅な気分を味わうことができました。
●第一会場 桜橋下流〜言問橋上流 9,500発(コンクール玉200発含む)
●第二会場 駒形橋下流〜厩橋上流 10,500発    合計 20,000発
隅田川の舟遊び

スカイツリー
(乗船した屋形船と同型の屋形船)
江戸に幕府が開かれて後に、隅田川で舟遊びが行われるようになりました。特に3代将軍家光の頃には、大名たちが遊女を伴って屋形船に乗り込み、 酒を酌み交わしながら涼をとることが盛んに行われるようになたと言われています。しかし、明暦3年(1657)に江戸の町の大半を焼野原と化した大火、 振紬火事 が発生し、多くの死者を出したことから、舟遊びも一時姿を消すことになりました。 その後、江戸の町はその災害を乗り越え急速に復興し、 人々の生活も次第に豪奢になっていきました。万治・寛文・延宝年間(1658-1681)頃には、大名、旗本、町人を問わず再び舟遊びが盛んに 行われるようになっていきました。

両国の川開き

江戸名所図会 両国花火 (江戸名所図会 両国の花火)
隅田川に 両国橋 が架けられたのは、万治2年(1659)明暦の大火の2年後のことです。 それまで武蔵国と下総国の境を流れる隅田川には、千住大橋以外に橋は架けられていませんでした。 そのため、大火の折には隅田川に阻まれて逃げ場を失い多くの人が死に至ったと言われています。 これを重視した幕府は、隅田川に橋を架けることを決めました。この橋は当初大橋と名付けられましたが、 2つの国をまたぐことから両国橋と呼ばれるようになり、両国橋の東側には本所や深川などの市街地も発展していきました。 両国橋が出来てからは、隅田川の納涼も一層活盛んになり、大勢の涼み客が集まるようになっていきました。 このころすでに花火もあったようですが、まだ玩具のようなものであり、それを売る舟が屋形船などの間を行き交い、 客の注文に応じて花火を上げていたようです。

享保17年(1732)西日本一帯でいなごが大発生し全国的な凶作となりました。江戸は、大飢饉に見舞われ、 市中には コロリ(コレラのこと) が大流行して多くの死者を出しました。 そのため、徳川第8代将軍吉宗は、その尉霊と悪病退散を祈願するため、 翌享保18年(1733)5月28日に隅田川において水神祭を取り行いました。 このとき、両国橋畔の料理屋が施餓鬼を行うに伴い本格的な花火の打ち上げを行いました。 これが、両国の川開きの始めとなり、その後も川開き初日に花火が打ち上げられることが恒例となりました。
江戸名所図会 両国花火
(広重 両国の花火)
『東都歳時記』 の中に「5月28日、両国橋の夕涼み、今日より始まり、 8月28日に終る。竝に茶店、看せ物、夜店の始にして、今夜より花火をともす。 逐夜貴賎群集す。」という内容が記されていますが、両国の川開きのときには、橋のたもとに茶店、見世物、露天の夜店などが立ち並び、 武士も町人も、金持ちも貧乏人も分け隔てなく、大勢の客で賑わったようです。 橋の上にも人が溢れ、隅田川の川面には屋根船や猪牙と呼ばれる猪の牙に似た小さい舟がぎっしり浮かんでいる様子が、 江戸名所図会や広重の浮世絵からもうかがえます。

神田川が隅田川に合流する地点近くに 柳橋 が架かっています。両国橋とは目と鼻の先です。 徳川幕府は、寛永7年(1630)頃、 現在の柳橋2丁目から蔵前3丁目あたりまでの地帯に、 幕府の米蔵(浅草御蔵と呼ばれていた) を作りました。 柳橋1丁目あたりの地域は武家屋敷中心で、柳橋2丁目あたりは江戸前の料亭が立ち並び、柳橋芸者で有名な花街がありました。 柳橋は、元禄10年(1697)に幕府の許可の下に架橋されましたが、その頃には隅田川で船遊びする客を相手の船宿がひしめき、 花街も大いに栄えていました。 柳橋芸者 は、いわゆる遊女と違い、唄や踊りで立つことを誇りとする格式の高い芸者でした。 もちろん両国の川開きのときには、柳橋芸者も旦那衆と共に屋形船に乗りこんで、花火を楽しんでいたことは言うまでもありません。

鍵屋と玉屋

享保18年(1733)の両国の川開きの初日に花火を打ち上げたときの花火師は 第6代目鍵屋弥兵衛 でした。 打ち上げた花火の数はおよそ20発前後だったと言われています。
広重 柳橋から両国橋を望む (広重 柳橋あたりから両国橋を望む)

鍵屋のホームページによると、万治2年(1659)に鍵屋初代弥兵衛が、奈良・篠原村より江戸へ出て、 日本橋横山町で店を開き、葦の管に火薬を練って入れた小さな玉をつくり、「火の花」「花の火」「花火」などと称して売り出したところ、 この玉は飛ぶように売れ、鍵屋は大繁盛していくことになったそうです。  この鍵屋の守護神が お稲荷さんの狐 でした。お稲荷さんの狐は2疋いますが、一疋は鍵を、もう一疋は玉をくわえていましたので、 創業の際にこの鍵の方を屋号にしたのだそうです。当初は鍵屋だけでしたが、文化5年(1808)に鍵屋7代目が番頭の清七にのれん分けすることになり、 両国吉川町に店を構えることになりました。このとき、もう一疋の狐がくわえていた玉にあやかり、清七に与えた屋号が玉屋です。 それ以降、両国の川開きの花火では、鍵屋と玉屋が競い合い、人々も「かぎやぁー」「たまやぁー」と声を張り上げるようになったのです。 しかし、天保14年(1843)、玉屋は不慮の失火により吉川町一帯を焼いた火事の火元となったため、江戸所払いとなり、 以来鍵屋だけが残ったそうです。

隅田川花火大会

両国の川開きは昭和36年(1961)まで盛大に行われていました。川添いに立ち並ぶ料亭や茶店が川岸にいくつもの舟を固定して浮かべ、 いわゆる川床のようにして客を迎え入れたそうです。しかし、その後昭和52年(1977)までの約16年間は交通事情の悪化等で中断していました。 やっと昭和53年(1978)になって 「隅田川花火大会」 として復活しました。花火技術も進歩し、花火も大型化してきました。 隅田川は全体に川幅が狭く、ビルで囲まれています。上流側の方が川幅が多少広く、危険性も軽減されることから、 打ち上げ場所は従来の両国橋あたりから厩橋―桜橋あたりに変更されました。打上会場も2ヶ所に分散されました。 また、隅田川で打ち上げ可能な花火の大きさは5号玉までに制限されています。5号玉とは、玉の直径が約15cm、重さが約1.2kg、 打ち上げた花火の直径が約200メートル程度です。ちなみに長岡などで打ち上げられる3尺玉は、玉の直径が約90cm、重さが約280kg、 打ち上げた花火の直径が約600メートルにもなります。 それに比べれば隅田川の花火の一つひとつは小さいものと言わざるをえませんが、大きさよりも数で勝負するのが、隅田川の花火の特徴です。
隅田川の花火
スカイツリー
舟から眺めた夕暮れどきのスカイツリー
打ち上げ花火1

(Windows Media Playerでの動画)
打ち上げ花火2

(Windows Media Playerでの動画)
Topへ