江戸東京探訪シリーズ
江戸の町火消し と 纏
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【参考】明暦の大火(イメージ図)
第8代将軍徳川吉宗の時に、幕府財政を立て直すため、いわゆる「享保の改革」が進められました。折しも儒学者荻生徂徠が「江戸の町を火災から守るには、 町組織による火消し組が必要」と進言し、これを受けた時の南町奉行大岡越前守忠相は、 享保3年(1718)に町火消しを作り、享保5年(1720)には隅田川の西側を受け持つ「いろは四十八組」、 東側の深川・本所を受け持つ「深川本所十六組」を編成し、本格的な町火消し制度を発足させました。 この町火消し制度は江戸の街全体を対象にした初めての消防組織で、享保の改革の一環としても重要な施策でした。 町火消しは町奉行の指揮下に置かれ、そのときにそれぞれの組に火事場での目印として 纏 を作らせました。 その後、纏は火消し組のシンボルとして欠かせないものになりました。 | |
<話題あれこれ> | ||
1. | いろは四十八組にへ組、ら組、ひ組、ん組がない理由は? |
(豊原国周の浮世絵模写1) |
「へ」は屁、「ひ」は火、「ら」は隠語、「ん」は終を表すという理由で、 「へ」は「百」、「ら」は「千」、「ひ」は「万」、「ん」は「本」に変えられました。 | ||
2. | 大岡越前守忠相が考案した纏とは? | |
い組の纏は、芥子と枡を形どったものですが、これを考案したのが大岡越前守忠相です。 | ||
3. | め組の喧嘩とは? | |
文化2年(1805)正月、芝神宮境内で勧進相撲が行なわれたが、このとき鳶人足の入場を巡って、 力士10数人とめ組の火消人足100人以上との大喧嘩に発展した。 この喧嘩は世間の話題になり、後に市村座などで芝居の題材にもなりました。 | ||
4. | 江戸の大火とはどの程度の規模だったのか? | |
たとえば、最も大規模と言われている明暦3年(1657)の「明暦の大火(振袖火事とも言われる)」では、 山の手3箇所から出火し、強風に煽られ江戸の町大半に延焼が広がり、江戸城本丸、二の丸、天守閣もこの火事で焼失してしまいました。 すでに戦国時代は遠くさり、戦のない太平の時代に天守閣は不要の長物となっていたことから、 江戸城天守閣はこれ以降再建されることはありませんでした。明暦の大火における死者数は約10万7千人と言われています。 天和2年(1682)の「八百屋お七の火事」では、駒込大円寺から出火し、焼失した武家屋敷241,寺社95,死者数約830〜3500、 元禄16年(1704)の「水戸様火事」では、小石川水戸屋敷から出火し、焼失した武家屋敷275,寺社75,町家20000,死者数は不明、 明和9年(1772)の「明和の大火」では、目黒行人坂大円寺から出火し、焼失した町数が904,死者数約14700、 文化3年(1806)の「文化の大火」では、芝車町から出火し、焼失した町数530,大名屋敷80,寺社80,死者数1200と言われています。 | ||
5. | なぜ江戸に大火が多かったのか? | |
(豊原国周の浮世絵模写2) 江戸の町は、江戸城を中心に、武家地、寺社地、町人地が取り囲んでいて、武士、僧侶、商人、職人などあらゆる人々が生活を営み、 江戸の発展と共に人口も急速に増加していきました。元禄6年(1693)には約80万、享保6年(1721)には約110万に達していたと言われていますが、 当時としては世界最大の都市でした。しかし、狭い地域に密集して家屋が建ちならび、人口密度も極めて高いものでした。 特に町人は狭い町人地に密集していたため、火災の発生の危険性が高かったと言えます。 因みに、当時の江戸における武家地は約68%、寺社地と町人地はそれぞれ15%程度を占めていました。 その上当時の建物はすべて木造でした。火災はあっという間に延焼していったのも頷けます。 【参考】 当時の武家地、寺社地、町人地はどのあたりか? なお、明暦の大火によって江戸の町の大半が焼失した後、幕府は積極的に江戸の町の復興と都市改造に力を注ぎました。たとえば、 墨東に深川、本所の町造りをしたのもこのときです。隅田川に両国橋を架け、大火で犠牲になった10万人を超す犠牲者の霊を弔うため回向院も建立しました。 | ||
6. | 当時銭湯がはやったのはなぜか? | |
当時の一般の町人には風呂を備える経済的な余裕はありませんでした。 家も狭く、これといった娯楽施設があるわけではなく、銭湯が庶民憩いの社交場だったのでしょう。また、 風呂を持つと失火の危険が高まり、世間から火元と疑われるのを避ける風潮も強かったと言われています。 徳川幕府が、火災防止のため様々な通達を行ない、火事の原因となるものを禁じたりもしました。 たとえば、承応2年(1653)には湯屋、風呂屋に対して、暮六つ(午後6時ごろ)までしか風呂を焚いてはならないとか、 翌朝まで風呂の水を抜いてはならないという令が出されました。 花火についても、慶安5年(1652)には、隅田川以外での打ち上げが禁止されたりもしました。 それ以来花火といえば隅田川となり、次第に庶民最大の娯楽となっていきました。 | ||
7. | 明暦の大火後、江戸を復興させたのは保科正之*1でした。 彼が行った主な復興政策とはどのようなものだったのでしょうか? | |
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*1 保科正之について | ||
保科正之[慶長16年(1611)5月7日〜寛文12年(1672)12月18日]は、会津藩の藩祖で、15条からなる家訓を残した名君です。
平成25年の大河ドラマ「八重の桜」でも有名な 「ならぬことはならぬものです」 は、
正之の家訓に従って会津藩士としての誇りを忘れず立派な人になるために、
会津藩士の子弟が学んだ 『什(じゅう)の掟』 (注1)の中の名言です。 正之は、慶長16年(1611)に第2代将軍秀忠と側室お静の方との間に生まれましたが、秀忠の正室お江の方の嫡男家光(竹千代)、 次男忠長(国千代)との跡目争いになるのを避けて、7歳の時に信州高遠藩保科正光の養子となり保科正之と名乗りました。 21歳で高遠藩主となり、その後最上藩の城主を経て、寛永20年(1643)に会津藩23万石の城主になりました。 正之は、第3代将軍家光の信望が厚く、家光が死に臨んで宗家(徳川家)をよろしく頼むと言われたことに感銘し、 寛文8年(1668)に 『会津家訓十五箇条』 を定め、 徳川宗家に対する忠信を誓いました。 以後、会津藩はこの遺訓を忠実に守り、徳川家への忠義を貫いてきたのです。 なお、幕末のとき最後の会津藩主松平容保は、松平春嶽にこの家訓を引き合いに京都守護職への就任を強要され、 その家訓ゆえに家臣の反対を押し切ってまで京都守護職に就任せざるをえず、 その結果戊辰戦争において新政府軍に敗れ、容保は切腹をまぬがれたものの蟄居の身となったことは、 大河ドラマ「八重の桜」でも知られるところです。 また、正之は、家光の遺命を受けて第4代将軍家綱の補佐役となり、幕府の実質的な最高実力者となりましたが、 その才覚を生かして多くの幕政の改革に取り組みました。 かって経験したことのない大災害明暦の大火に際しては、江戸の町の復興のために多くの画期的な改革に取組み、 以後200余年にわたる徳川幕府繁栄の基盤を築いたのです。 |