徳島の民家
福永家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年5月20日指定) 徳島県鳴門市鳴門町高島字浜中1 建築年代/文政11年(1828) 用途区分/塩田農家 指定範囲/主屋・離座敷・土蔵・納屋・塩納屋・薪納屋・宅地・塩田 公開状況/非公開(外観のみ公開) 渦潮と真鯛で知られる鳴門は嘗て塩の産地としても著名であった。塩は江戸期には藍と並び称された程の阿波藩を代表する産物で、特に鳴門市高島一帯は見渡す限りに塩田が拡がる一大生産地であった。その只中に所在する当家は、江戸中期に板野郡黒崎村から来住し製塩業を営んだという由緒を持つ。当地の製塩業者としては後発組ながら幕末には藩の塩役所の値師を務めた程になったという。鳴門瀬戸に面して、現在は干潟と化した土地は嘗ての塩田跡で、その南東隅に土盛造成し、周囲を塩焼けした鳴門石の高石垣で土留めした浮島のような屋敷地に本瓦葺の主屋や煙突、釜屋などの建築群が所狭しと建ち並ぶ。瀬戸内海沿岸の旧塩田地帯には今でも塩田経営で財を成した家が少なからず残っているが、当住宅のように製塩に関わる生産施設までを残す例は他に無い。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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犬伏家住宅 | 国指定重要文化財 (令和2年12月28日指定) 徳島県板野郡藍住町東中富字大塚傍示2番地1 建築年代/昭和7年(1932) 用途区分/薬製造販売 指定範囲/主屋・座敷・応接室・書斎・離座敷・北蔵・乾蔵・味噌蔵・機械工場・五番蔵・東蔵・巽蔵・前納屋・表門・土地 公開状況/非公開 四国三郎の異名を持つ吉野川の北岸道路を脇町方面に向って車で走っていると高速徳島道の藍住ICから少しばかり西方に神社の境内を思わせる、大きな楠林を背景に土蔵や板塀で囲まれた大屋敷が目に飛び込んでくる。周囲は吉野川の氾濫原で、嘗ては藍作地帯として知られた土地柄にあり、町名も藍住町であることから、これが阿波藩財政の屋台骨を支えたと云われた藍師の屋敷かと勘違いされることも少なくないに違いない。しかし当家は、藩政期には藍作をしていたと当家所蔵の文書に記されてはいるものの、屋敷を整えた時点では犬伏古松軒製薬所の名称で「敬震丹」という薬を製造販売していた製薬家として知られる存在であった。江戸初期に遡る旧家ながら屋敷全体が昭和初期の整備となる由縁は、明治40年から実施された吉野川河川改修工事の堤防用地として旧屋敷が接収されたためである。阿波の伝統的な藍屋敷とは異なる近代和風建築の洗練された建前は、実に魅力的である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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戸田家住宅 | 国指定重要文化財 (平成28年2月9日指定) 徳島県板野郡上板町佐藤塚335 建築年代/明治19年(1886) 用途区分/藍作農家 指定範囲/主屋・東座敷・土蔵・長屋門・藍寝床・西蔵・乾蔵・灰屋 公開状況/非公開 旧吉野川への流水量確保の為に藩政期に築造された石堰が新吉野川下流の河床部に現在も残されている。「第十堰」と称し、数年前に洪水対策として可動堰方式による近代化が計画され、取り壊しの危機に晒されることもあったが、反対運動で辛うじて命脈を保っている。この藩政期最大の土木工事は暴れ川として恐れられた吉野川の氾濫との戦いの痕跡である。洪水は人家を流出の危険に晒す一方、田畑には肥沃な土壌をもたらし、禍福が縄の如く同時にやってくる難物であった。この付近には、その恩恵を受けた阿波藍作の大農家が今でも残されており、当家もその一軒である。阿波藍の隆盛は明治中期に最盛期を迎えるが、当住宅はその明治期に整備された藍屋敷としての価値が認められての指定である。屋敷地の嵩上げが低く、主屋は2階を設けるなど、江戸期建築の藍屋敷とは明らかに異なる様子を楽しみたい。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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田中家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年2月3日指定) 徳島県名西郡石井町藍畑字高畑705 建築年代/元治2年(1865) 用途区分/藍作農家 指定範囲/主屋・座敷・宝庫・表門・土蔵・藍納屋・北藍寝床・南藍寝床・味噌部屋・番屋・灰屋・宅地 公開状況/公開 「京の着倒れ、大坂の食い倒れ、阿波の建て倒れ」という俗文が全国的な云い様か否かは知れないが、少なくとも徳島県人と会話すると度々この述言を聞く。嘗て阿波藩の財政を支えたという藍作で栄えた吉野川中流域の氾濫原には、特産の青石で石垣を組み土地を嵩上げし、四周に蔵や納屋を廻らせる大規模な屋敷が今でも散見される。確かにその威容は、まさに「建て倒れ」の名に相応しく、県人が自慢に思うのも理解できる。吉野川南岸の藍畑地区はその名のとおり藍作で栄えた地域で、その只中にある当住宅は藍作農家としては中規模なものであるが、均整の取れた屋敷構えは溜息が出る程の美しさである。職住一体化した藍屋敷は時代が移ろう中で、用を終えた不要な建物は失われがちであるが、当住宅は藍作の生産施設を完存するという点においても阿波を代表する存在である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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武知家住宅 | 国指定重要文化財 (平成30年12月25日指定) 徳島県指定民俗文化財 (藍寝床・昭和35年9月24日指定) 徳島県名西郡石井町高川原天神133 建築年代/文久2年(1861) 用途区分/藍作農家 指定範囲/主屋・離れ・伝い・宝庫・庫蔵・通門・東藍床・西藍床・寝床・倉廩・作男部屋・下部屋 公開状況/非公開 藩政期の阿波国を支えたとされる藍作は、江戸中期以降の全国的な木綿衣料の普及によって、その染料として爆発的な需要期を迎える。吉野川中流域の氾濫原には藍草を栽培するだけでなく、自ら藍玉を製造し、販売をも手掛ける多数の大商人が勃興し、「寝床」と呼ばれる藍の製造蔵に囲まれた豪壮な藍屋敷が建ち並んだ。当家は「名西(地名)の四天王」と尊称され、徳島の長者番付中でも常に上位に名を連ねた大藍作農商家で、現在に至るまで往時の屋敷構えをそのまま維持しておられる。特に本瓦葺の入母屋造の主屋は重厚感に溢れるが、御殿建築のような軽快さを併せ持ち、そのバランス感覚は明治以降の近代建築とは似て非なるモノ。近世住宅建築の絶妙な美しさに嘆息させられる。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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長岡家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年5月20日指定) 徳島県美馬市脇町猪尻字西上野34 (移築) 旧所在地・徳島県美馬郡脇町西大谷637 建築年代/享保20年(1735) 用途区分/山村農家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 重厚な本瓦葺に卯建が上がる町並で知られる重伝建地区・脇町中心部から北東方向の小高い丘上にある八幡神社の境内脇に移築された山村農家建築である。そもそもは更に北方の阿讃山脈の山間部に所在していた。壁面の開口部が極端に小さく、庇を設けず茅屋根を下方まで葺き降す外観は、かなりの古様を感じさせてくれるが、実は江戸中期の享保年間の建築。江戸初期の建築と云われても疑わない程の風情である。内部は土間と床上2室のみから成る小規模な建前ながら、上手の部屋の背面側には床が設けられていたり、部屋の間仕切りが土壁であったりと建築史的に特異な点が散見される。その意味するところは、当住宅周辺では他所から隔絶した生活が営まれていたということなのだろうか。阿讃山脈中には香川県側の細川家住宅(国重文)にも居間に床を張らない土座住まいの古式が残されており、民家建築史においてタイムカプセル的な土地柄である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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三木家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年2月3日指定) 徳島県美馬郡木屋平村貢143 建築年代/江戸時代(17世紀前半) 用途区分/山村農家(庄屋) 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 徳島を代表する銘菓「葡萄饅頭」の製造元があることで知られる穴吹町から名峰・剣山へと続く国道492号線は延々と蛇行が続く難路である。途中で何度も運転が嫌になりながら、それでも辿り着いた急峻な山間部の尾根筋に、当住宅はひっそりと佇んでいる。江戸初期の建築と推定される県下最古級の住宅でありながら、その規模は桁行22.2m、梁間9.6mの六間取で、平野部の大型民家と比較しても遜色のない建前である。当家は中世山岳武士の系譜を引き、藩政期には庄屋を勤めたとのことであるが、このような山奥でこれほどの住宅普請が江戸初期に可能であったという事実に驚かされる。先項の長岡家住宅とは吉野川を挟んで南北に対する関係にあるが、民家建築技術の発展性においては全く真逆の現象を示すものである。単に階層の相違がもたらした結果と断ずるには拙速の感があると、私は考えている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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小采家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年2月3日指定) 徳島県三好市東祖谷菅生28 (移築) 旧所在地・徳島県三好郡東祖谷山村栗枝渡13 建築年代/江戸時代(19世紀前半) 用途区分/山村農家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 秘境と呼ばれる祖谷地方の中でも最奥部の菅生集落にある青少年旅行村内に移築保存されている山村農家建築である。そもそもは近年に重伝建地区に選定された落合集落の隣、粟枝渡集落に所在していたもので、標高650m程の急峻な山腹の斜面を切り拓いた土地に建っていた。高所寒冷の土地柄ゆえに雨風から外壁を守るため押し潰した竹で土壁を覆う様は南国の民家とは思えぬ工夫である。高知県大正町に移築保存されている竹内家住宅では土壁を茅壁で保護しており、材の相違はあるものの考え方は同じなのかもしれない。桁行5間半、梁間3間の小規模な建前で、内部は土間と竹床張りの勝手場、板張りのオモテから成る一間取となっている。この地域における一般農家層の典型的な建前とされているが、意外にしっかりとした建前である。建物前面に厠が設けられている点やコシキバラと称される段落ちした柱で梁や桁を貫通して受ける手法など、地域性が顕著に残る実に見所の多い民家でもある。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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木村家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年2月3日指定) 徳島県三好市東祖谷釣井107 建築年代/元禄12年(1699) 用途区分/山村農家 指定範囲/主屋・隠居屋・土地 公開状況/非公開 平家の落人集落と喧伝され、多くの観光客を集める祖谷地方ではあるが、民家建築の世界においては、その落人伝説たる痕跡は全く残されていない。当住宅は祖谷最古の民家と目されているが、それでも江戸中期の元禄年間の建築で、近在の今井集落にあった土居階級の福松院という寺院建物を譲り受け、江戸末期に現在地に移築したと伝えられる。当地方の多分に漏れず、山腹の斜面地を切り拓いて辛うじて確保した平坦地に主屋を構え、その斜め背後に小振りな隠居屋を並び建てる。周囲の畑は斜面地をそのままに利用しており、耕作地の確保が難しく、物成りの貧しさをも想像させてくれる土地柄ではあるが、当家の主屋建物は決して粗末なものではない。むしろ18畳敷の大座敷には南・西手に入側が廻り、更に濡れ縁を張り出す様子は半端な造作ではない。過疎化が進み往時のままを伝える民家が急激に失われつつある当地域において、御当主が住居として今なお使用される貴重な存在でもある。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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徳善家住宅 | 国指定重要文化財 (令和元年12月27日指定) 徳島県指定文化財 (平成26年2月14日指定) 徳島県三好市西祖谷山村徳善113 建築年代/慶応2年(1866) 用途区分/山村農家(名主) 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 吉野川上流部の景勝地として有名な大歩危は、両岸に急峻な山々が迫り、激しい川の流れに削られた岩礁帯は歩くことさえ危険極まりない状況ゆえに付けられた名称である。JR土讃線の大歩危駅を出てすぐのところに吉野川沿いに走る国道から山側に向かう橋が架かるが、そこから先が秘境・祖谷山となる。当住宅はこれを眼下に見下ろす険しい山中に所在する旧名主屋敷で、この地域を支配し「御屋敷」と呼ばれた八家のうちの一軒である。まるで寺の本堂のような外観で、小家が多い山村にあって規模の大きさも相俟って、ここだけが異様な雰囲気に包まれている。他の上層民家でさえも寄棟造が一般的な当地方において、当家は入母屋造の堂々たる建前。屋敷周辺に残る風情等も含めて何か伝奇的なものを感じさせてくれる民家である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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粟飯原家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年5月20日指定) 徳島県名西郡神山町下分 建築年代/宝永7年(1710) 用途区分/山村農家(庄屋分家) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 四国遍路の第12番札所として名高い焼山寺の南方に所在する山村農家建築である。徳島市内から四国の名峰・剣山を目指すには吉野川の支流・鮎喰川を遡上する道程が最も美しい。 |
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田中家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和51年5月20日指定) 徳島県勝浦郡上勝町旭的場37 建築年代/貞享2年(1685) 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 |
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奥村家住宅 | 徳島県指定文化財 (昭和62年4月3日指定) 徳島県板野郡藍住町徳命前須西179 建築年代/文化5年(1808) 用途区分/農家(藍作) 指定範囲/主屋・西座敷・北蔵・中蔵・南蔵・東門・大門・東寝床・西寝床・南寝床・湯殿・便所・奉公人部屋(計13棟) 公開状況/公開 (藍の館) 吉野川中流域の藍住町周辺は、嘗て木綿着の染料として一世を風靡した藍の一大生産地であった土地。現在「藍の館」の名称で藍染が体験できる施設として公開されている当住宅は、阿波国長者番付でも常に上位に名を連ねた大規模な藍作農家として著名な存在であった。そもそも藍作は収穫後の加工に多大な時間と労力を要する作物で、主屋を中心に周囲に配された土蔵群は、富の象徴であると共に、藍玉の生産に必要な作業空間でもあった。徳島の富を支えた藍作を知るには一番の施設だと思う。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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阿佐家住宅 | 徳島県指定文化財 (平成12年3月21日指定) 徳島県三好市東祖谷山村阿佐244 建築年代/江戸時代(文久3年・伝承) 用途区分/山村農家(名主) 指定範囲/主屋・屋敷林・庭園・石垣 公開状況/非公開 往時には人馬の通行も儘ならなかったであろう山間僻地に行くと、平家の落人集落の伝説を時々耳にすることがあるが、当家は山岳武士の系譜を引き、平家の赤旗を今に伝えることから、その信憑性に疑いを持ちたくはない。藩政期には祖谷山を支配した名主を務め、当地では「御屋敷」と称された存在。山間部ながら屋敷地は広く、旧街道に面する石段から主屋正面中央部に構えた式台玄関まで、真っ直ぐに至る導線路を歩いていると思わず背筋が伸びる。祖谷の里人と話をすると未だ源平で家を分ける意識がある。800年もの昔が脈々と受け継がれる様は不思議である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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芳川顕正生家 | 吉野川市指定文化財 (昭和58年12月15日指定) 徳島県吉野川市山川町川田1204 建築年代/文化6年(1809) 用途区分/医家・政治家 指定範囲/主屋・立木・宅地 公開状況/外観公開 芳川顕正は明治期の政治家である。内務・司法・逓信・文部の各大臣を歴任するとともに伯爵を叙爵し枢密院副議長をも務めた。天保12年(1841)に代々医業を営む原田家の四男として生まれた彼は徳島城下に出て漢学・医学を修め、藩費で長崎留学した際に伊藤博文ら長州閥の知遇を得たことで出世街道を驀進する。明治維新において佐幕派の姿勢を貫いた蜂須賀徳島藩は、新政府政権下においては総じてうだつがあがることはなかったが、彼だけは個人的な関係性から例外的な存在だったようである。屋敷は国道192号線と吉野川に挟まれた田園地帯に在り、榎木に覆われた平坦地に約20坪程の小規模な主屋が建つ。正面の庇を葺き伸ばして玄関を構える点は医家としての格式故であろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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吉田家住宅 | 美馬市指定文化財 (平成11年4月2日指定) 徳島県美馬市脇町字脇町53 建築年代/寛政4年(1792) 用途区分/商家(藍商) 指定範囲/主屋・質蔵・藍蔵・中蔵 公開状況/公開 昭和63年に重伝建地区に選定された脇町南町に所在する商家建築である。本瓦葺の屋根に袖卯建を備えた重厚な家並みで知られる脇町は讃岐や伊予方面に繋がる交通の要衝として発展した在郷町で、此の地で当家は寛政4年(1792)に藍玉や米麦の販売を開始して以降、享和元年(1801)には苗字帯刀御免、天保元年(1830)には郷士身分である壱領壱疋に取り立てられるなど短期間で著しい成長を遂げ脇町屈指の豪商として知られた存在であった。街道に接する主屋は東西南の三棟から成り、その裏手に藍蔵、質蔵などの土蔵群が所狭しと並ぶ。吉野川側から臨む高石垣上の土蔵群の姿もなかなかに素敵である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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真鍋家住宅 | 三好市指定文化財 (平成8年7月1日指定) 徳島県三好市池田町字マチ2465-1 建築年代/明治20年代(推定) 用途区分/商家(煙草製造販売) 指定範囲/主屋・離れ・別邸及びたばこ蔵 計4棟 公開状況/公開 (阿波池田たばこ資料館) 徳島県の北西部の中心都市・池田町の存在は、甲子園における蔦文也監督率いる池田高校の活躍でご存じの方が多いのではないかと思うが、産業的には江戸初期から葉タバコの栽培が盛んな土地で、明治中期には町の人口の半分が煙草産業に従事していたと記録されている。その隆盛は平成2年の池田たばこ工場の閉鎖に至るまで比較的長く続いたため、今でも町内各所に重厚な町家が点在している。当家は万延元年(1860)から煙草の製造販売を生業としてきた商家で、間口10間、奥行32間の広大な屋敷地に最奥には煙草の製造蔵も残る。現在は「たばこ資料館」として活用されている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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西岡家住宅 | 三好市指定文化財 (平成21年4月6日指定) 徳島県三好市西祖谷山村東西岡46 建築年代/ 用途区分/名主 指定範囲/主屋・土蔵 公開状況/公開 【平家屋敷】 |
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永井家住宅 | つるぎ町指定文化財 (平成6年2月18日指定) 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字西浦37 建築年代/寛政3年(1791) 用途区分/農家(庄屋) 指定範囲/主屋・藍寝床・蔵 公開状況/公開 二層卯建が上がる町家群で有名な貞光町を縦貫する街道筋から脇道を西へ僅かばかり入ったところに所在する庄屋屋敷である。在郷町でありながらも町並のすぐ脇に村役人たる庄屋が屋敷を構えているのは、村方支配の既得権に町方が配慮せざるを得なかった歴史的経緯が町の発展の裏にあったからに相違ない。住宅は白壁の築地塀で囲まれ、谷筋の狭隘な地形にありながらも屋敷地は550坪と広い。主屋は阿波地方の民家に特有の四方蓋造で、極端な程に長大な桁行に長い庄屋としての威光を垣間見ることができる。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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村瀬家住宅 | 板野町指定史跡 (昭和30年指定) 徳島県板野郡板野町大坂字ハリ71-1 建築年代/文化12年(1815) 用途区分/番所 残存建物/主屋 公開状況/公開 嘗て阿波から讃岐に抜けるには板野町北端に在る大坂峠を越える道筋が最も一般的であった。現在の県道1号線である。藩政期の国境には当然ながら関所が設けられ、村瀬家と久次米家の両家が代々御番役に任じられた。その役儀は関所設置の正保元年(1644)から明治5年(1873)の廃止に至るまでの約230年間の長きに亘ったという。現在、関所跡には当家の家人が起居した主屋が残るばかりで、残念ながら通行人を検閲した番所建物は残されていない。しかし関所が置かれた土地の風情はそのままである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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原田家住宅 | 登録有形文化財 (平成12年4月28日登録) 徳島県徳島市かちどき橋3-43 建築年代/江戸後期(明治15年移築) 用途区分/武家 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 徳島市の南東郊外、県庁への玄関口であるJR阿波富田駅近くに所在する旧武家屋敷である。明治初期に名東県大属という高級官吏の職にあり、阿波藩の財産管理を行っていた原田一平氏が元藩主の蜂須賀茂韶候から譲り受けたという来歴を持つ建物で、徳島城下から約10年をかけて移築したとのこと。戦災で壊滅的な被害を受けた徳島城下には、武家屋敷は殆ど残されておらず貴重な存在である。住宅は上級武士の邸宅から移築したと伝えられているが詳細は不明。桁行8間、奥行6間の大規模な建物で、外観や間取りの特異な様子は、こうした逸話を裏付けるものである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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高橋家住宅 | 登録有形文化財 (平成11年9月7日登録) 徳島県徳島市南矢三町2-5-22 建築年代/寛政11年(1799) 用途区分/農家(藍作) 登録範囲/主屋・西納屋・東納屋・表門・蔵・練塀 公開状況/非公開 徳島市の北西郊外に所在する旧藍作農家である。当住宅の所在する南矢三町は鮎喰川の氾濫原であった地域で、旧徳島城下に近接しながらも近年まで農村風景が広がっていた土地柄である。 当家は元徳島藩士の家柄で、明治維新の際に当住宅を購入、以降は藍の製造販売を行ったという。藍作農家としては中規模なものではあるが、現在に至るまで藍製造に係る諸々の建物群をそのまま残す貴重な存在である。また練塀の土台となる石積みや主屋の敷石には地元では青石と称する緑片泥岩が多用されており、鮮やかな緑青色が屋敷の品格を高めてくれている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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樫野家住宅 | 登録有形文化財 (平成11年8月23日登録) 徳島県板野郡松茂町広島字北川向四ノ越29-1(移築) 旧所在地・徳島県阿南市黒津地 建築年代/大正14年(1925) 用途区分/実業家(石灰・大理石製造販売業) 登録範囲/主屋 公開状況/結婚式場施設(樫野倶楽部)として営業中 明治期に石灰・大理石の製造販売で財を成し、のちに徳島銀行の前身である富岡無尽の設立に関わり、代表を務めた樫野恒太郎が阿南市内を流れる桑野川河口付近の黒津地集落に建てた県南屈指の大規模民家である。平成6年に「金長まんじゅう」の製造元として名高いハレルヤ製菓が徳島空港近くに整備した「阿波之里」の迎賓館として譲り受け、当地に移築。内部は和風を主体としながらも洋の要素も取り入れた和洋折衷様式で、徳島県の近代和風建築の代表とも云える建物である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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大磯家住宅 | 登録有形文化財 (平成11年8月23日登録) 徳島県板野郡松茂町広島字北川向四ノ越29-1(移築) 旧所在地/徳島県名西郡石井町 建築年代/天保年間(1830-1843) 用途区分/商家(藍製造販売) 登録範囲/主屋 公開状況/結婚式場施設(樫野倶楽部)として営業中 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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近藤家住宅 | 登録有形文化財 (平成23年1月26日登録) 徳島県鳴門市大麻町板東字北条86-1 建築年代/明治中期 用途区分/商家 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 最近では海外からの観光客にも人気の四国88ヶ所の巡礼路は鳴門市東郊に所在する1番札所・霊山寺から始まる。当住宅は、その札所の玄関口となるJR高徳線の板東駅前に所在する商家建築である。旧撫養街道と霊山寺参道が交差する角地に建ち、商売をする上で頗る恵まれた立地条件にあると推察されるが、それは嘗てのお話。車社会の現代においては公共交通機関を用いる人も疎らで駅前は閑散としている。本瓦葺入母屋屋根に、軒裏まで漆喰で塗り込める重厚な外観を呈しているが、仕舞屋と化した今では、少し寂しげな様子である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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炭家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年8月4日登録) 徳島県鳴門市撫養町南浜字蛭子前東41 建築年代/大正元年(1912) 用途区分/米穀店 登録範囲/店舗兼主屋 公開状況/店舗として営業中 |
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青木家住宅 | 登録有形文化財 (平成10年10月9日登録) 徳島県美馬市美馬町字宮前225 建築年代/大正4年(1915) 用途区分/実業家(建築業) 登録範囲/主屋・倉庫・土蔵(1)(2)・納屋・門・土塀・煉瓦塀 公開状況/非公開 渦潮で名高い鳴門を起点に吉野川と並行して池田まで続く撫養街道を遡り、美馬郡と三好郡の郡境付近に差し掛かると、旧街道沿いに白壁の練塀と土蔵に囲まれた、少し周囲の屋敷とは異質な外観の屋敷に遭遇する。一際大振りな主屋が周囲を圧するかのように聳え立つ当住宅は長崎で建設業を営んだ青木伊三郎氏が引退後の棲家として妻の故郷に建てたという隠居屋敷である。 主屋は明治末から大正期にかけて阿波地方の大規模農家に典型的な建前となっているが、煉瓦塀を筆頭に土蔵等の付属建物については少し地理が異なる風合いが醸されている様である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧折目家住宅 | 登録有形文化財 (平成18年3月27日登録) 徳島県美馬郡つるぎ町貞光字町83-2 建築年代/明和9年(1772)・明治4年(1871)再建説あり。 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/主屋 公開状況/公開 讃岐琴平の金比羅宮と阿波の名峰・剣山を結ぶ国道438号線の中間位置にある貞光は吉野川南岸の在郷町で、脇町や池田町の富裕な町家に見られる袖卯建が此処では二段構になる事は知る人ぞ知るである。町の中央部に位置する当家は代々酒造業を営み、江戸末期には小高取格の郷士に取り立てられる程の豪商であった。実際、明治期の阿波国長者番付には行司役に位置づけられていることから、財力のみならず相応の由緒と家格を有していたと思われる。当然ながら主屋には二層卯建が上がっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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北室醫院 | 登録有形文化財 (令和2年8月17日登録) 徳島県美馬郡つるぎ町半田字松生183-1 建築年代/明治34年(1901) 用途区分/漢方医 登録範囲/主屋・土蔵・庭門及び内塀・土塀・石垣・診療所・病棟診療所 計7件 公開状況/外観のみ |
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鎌村家住宅 | 登録有形文化財 (平成19年12月5日登録) 徳島県美馬市美馬町坊僧231 建築年代/天保10年(1839) 用途区分/山奉行・藍商 登録範囲/主屋・蔵・納屋・風呂・便所・北井戸・東井戸etc 公開状況/非公開 吉野川中流の商業都市・脇町は往時の町並が残り、現在では重伝建地区に選定される程であるが、そもそもは阿波藩の筆頭家老・稲田家の城下町としての発展した土地柄である。その脇町から西方の旧美馬町一帯の農村部は稲田家の在郷家臣達が散住していた地域で、当家も多分に漏れず小姓役や山奉行を務めた武家であった。屋敷は吉野川の河岸段丘上の高台にあり、南面してつし2階建の主屋が両脇を蔵や納屋に挟まれて建つ。本藩から見れば小禄の陪臣身分ではあるが玄関や座敷を構え格式を保つ造作となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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曽我部家住宅 | 登録有形文化財 (平成29年10月27日登録) 徳島県三好市井川町辻2 建築年代/明治35年(1902) 用途区分/藍染商 登録範囲/主屋及び納屋・蔵・長屋門 公開状況/非公開 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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三舩家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年10月27日登録) 徳島県三好市井川町辻183-1 建築年代/嘉永7年(1854) 用途区分/煙草製造 登録範囲/主屋・蔵 公開状況/非公開 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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山下家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年10月27日登録) 徳島県三好市井川町 建築年代/ 用途区分/ 登録範囲/ 公開状況/非公開 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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島尾家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年10月27日登録) 徳島県三好市井川町辻85-1 建築年代/明治10年(1877) 用途区分/煙草製造 登録範囲/店舗兼主屋・離れ 公開状況/非公開 「四国のへそ」と称される池田の町から国道192号線を徳島方面に車を走らせ、井川町辻の町場付近に差し掛かると白漆喰壁に海鼠壁を施した木造四階建の楼閣様の建物が一瞬見える。最上階には火頭窓の意匠を施し、雛なる地には不似合いな瀟洒な建築である。これが当住宅の離れで、そもそもは明治9年頃に刻み煙草製造で財を成した石川行之助氏が主屋裏に遊興場として建てたものである。建坪は34坪、1、2階は倉庫兼作業場、3階は座敷が6間、4階は14畳1間の遊興室となっている。明治37年に煙草専売制が施行されて以降、井川町辻の繁栄は急速に失われていくが、当時の繁栄を偲ばせる建物が辛うじて残され、今の世で文化財として認知され、次の町の歴史を紡いでいくことに繋がることは、とても大事なことだと思う。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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熊谷家住宅 | 登録有形文化財 (令和5年8月7日登録) 徳島県三好市井川町辻86 建築年代/明治3年(1870) 用途区分/乾物商 登録範囲/主屋・倉庫 公開状況/非公開 |
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向井家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年10月27日登録) 徳島県三好市井川町向坂32-1 建築年代/安政2年(1855) 用途区分/ 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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佐藤家住宅 | 登録有形文化財 (平成28年11月29日登録) 徳島県三好市池田町マチ2343 建築年代/明治29年(1896) 用途区分/呉服商 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 池田町の本町通に南面して建つ商家建築である。本瓦葺の屋根に卯建を上げる町家が連続する町並にあって間口4間半、奥行15間の屋敷規模は、決して大店に区分されるものではないが、両袖に家紋付きの鬼板を戴いた卯建を上げ、1階部分の腰壁を海鼠壁とする主屋の風情は重厚感に溢れたものである。平成7年に地元の池田町による町並建造物の調査対象となっており、それによると当家は阿波志に元禄14年に帯刀を許されたことが記録される旧家であることが判る。明治期に至り呉服商を営んだらしく、間取りは両脇の半間を除く間口全体を店の間とする商い重視の体裁となっている。座敷は2階部分に設けられており、吉野杉や屋久杉を用いた贅沢な造作であるらしい。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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宮本家住宅 | 登録有形文化財 (平成28年11月29日登録) 徳島県三好市池田町マチ2339-1 建築年代/明治後期 用途区分/刻煙草商 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 |
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内田家住宅 | 登録有形文化財 (平成28年11月29日登録) 徳島県三好市池田町サラダ1731-1 建築年代/明治33年(1900) 用途区分/刻み煙草製造 登録範囲/主屋・蔵 公開状況/非公開 池田町の旧市街を東西に横断する本町通に直交する戎子通に西面して建つ刻み煙草の製造販売を生業とした商家建築である。明治33年に当住宅を造営した内田岸太郎氏は安政5年(1858)に池田町で生まれ、明治23年(1892)に煙草刻み業に従事するや明治26年(1895)には水車動力の機械式刻み機を発案して自らの工場に導入、明治29年(1898)には石油発動機に動力源を切り換え、生産量の飛躍的な向上を図り家業を伸長させた事業家である。屋敷地は町中にありながらも街道筋から外れているため330坪と広く、主屋の北側に2階建の蔵を置き、屋敷裏手に煙草刻み工場を配して、池田町が阿波煙草の大生産地として隆盛を誇った往時のままの姿を留めている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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亀長家住宅 | 登録有形文化財 (平成28年11月29日登録) 徳島県三好市池田町マチ2266-2 建築年代/明治40年(1907) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・蔵 公開状況/非公開 池田町を東西に横断する伊予街道は本町通と称され、今でも豪壮な町家建築が数多く残り町並の中核を成すが、その南側の中通にも規模の面では引けを取らない町家が残る |
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中村家住宅 | 登録有形文化財 徳島県三好市池田町マチ2265 建築年代/明治24年(1891) 用途区分/刻み煙草製造・酒造業 登録範囲/主屋・刻み煙草工場 公開状況/非公開 「四国のへそ」を自称する池田町の歴史は古く、鎌倉幕府により阿波国守護に任じられた小笠原家が城を築き、守護所を置いたことに始まる。藩政期においても蜂須賀家入部後は池田城番が置かれ藩西の郷町として重要視された土地柄であったが、現在に残る町並は、むしろ近代に形成されたもので、その盛衰は煙草産業と共に有ったと云っても過言ではない。中町筋に南面して主屋を構える当家は、屋号を札場と称し、藩政期には判金と藩札の引換役を務めた家柄であったが、寛政の頃より刻煙草業に進出、享和2年(1802)には池田で初めて刻煙草工場を作ったことで知られる。住宅は当家が北海道への販路開拓に努め家業を伸長させつつあった明治24年の建築で、桟瓦葺切妻屋根に対し両袖には本瓦葺の卯建を上げる。明治37年に煙草専売法が施行され、煙草の製造販売が官営となった以降は酒造業に転身し、「今小町」の銘柄で今も醸造を続けておられるが、少し離れた場所に立地する、その醸造施設群も中和商店の商号で当住宅と同時に文化財登録されている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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森本家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年3月26日登録) 徳島県勝浦郡勝浦町坂本字生実32 建築年代/江戸末期 用途区分/山村農家(庄屋) 登録範囲/主屋・離れ・納屋・古蔵・新蔵・表門 計6棟 公開状況/非公開 |
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喜多家住宅 | 無指定・公開 徳島県三好市東祖谷大枝43 (移築) 旧所在地・徳島県三好市東祖谷大枝203 建築年代/宝暦13年(1763) 用途区分/名主(土居) 残存建物/主屋 公開状況/公開 西日本第二の高峰・剣山の西麓に位置する祖谷地方は、祖谷川が刻む渓谷沿いの山村集落である。急峻な山々に囲まれ、辛うじて人が住める程度の平地を確保するのさえも精一杯の土地柄に中世より人々は住み着いたというから驚きである。さて当家は藩政期の祖谷地方を支配した「土居」と称する名主層の家柄で、蜂須賀家入部の際に反抗的であった在地の土豪一揆勢を鎮定した功により政所支配を許された喜多源内家の一族となる。主屋は祖谷地方でも最大規模を誇るもので、元来は現在地よりも同集落の低い位置にあり、牛小屋や持仏堂と一列に並ぶ様に建っていた。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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長岡家住宅 | 無指定・公開 徳島県三好市東祖谷落合89-1 建築年代/明治34年(1901) 用途区分/山村農家 残存建物/主屋 (隣接して隠居屋が残るが他家が在住) 公開状況/公開 平成17年に重伝建地区に選定された東祖谷落合集落に所在する山村農家である。祖谷川を挟んだ対岸の中上集落にある展望所から落合集落を臨むと山の南斜面の中腹よりやや下方に他より少しばかり大きな茅葺の屋根を見つけることができる。当住宅は昭和に入って大工職にあった長岡氏が物置小屋として購入したとのことであるが、嘗ては大枝集落の名主であった喜多家の分家住宅で、その位置から「西土居」と称されていた。間取りや厠の位置等が祖谷地方の一般民家とは異なる点が興味深い。 ▼個別解説ページへ(制作中) |