青木家住宅 Aoki その他の写真 |
登録有形文化財 (平成10年10月9日登録) 徳島県美馬市美馬町字宮前225 建築年代/大正4年(1915) 用途区分/実業家(建築業) 登録範囲/主屋・倉庫・土蔵(1)(2)・納屋・門・土塀・煉瓦塀 公開状況/非公開 渦潮で名高い鳴門を起点とする撫養街道を、嘗ては葉煙草の産地として全国に名を馳せた池田へと向かう途中、美馬郡と三好郡の郡境付近に所在する近代和風建築である。屋敷は旧街道に面して白壁の練塀を巡らせ土蔵が連なる一瞥して素封家の邸宅と判る大規模なもの。 長崎で建設業を営んだ青木伊三郎氏が、大正4年(1915)に引退後の棲家として妻・コキク氏の故郷に建てた隠居屋敷である。そもそもは藍作農家であったらしく、北面する街道に向かって小門を開きはするものの、あくまでも勝手側の扱いで屋敷裏手に該当し、吉野川に向かって田畑が続く南側を正面とするのは、そうした来歴があってのことかもしれない。主屋は間口11間、奥行6間の堂々たる建築で、本瓦葺の入母屋屋根は重厚感に満ちたものである。明治・大正期における徳島県の近代和風建築は、その豊かさの割に他県のモノと比較して御殿建築的な建前を志向せず、あくまでも伝統的な農家建築の延長線上にありながら大規模化していった様である。非常に保守的、封建的な土地柄であるが、実利を生まない華美な贅沢を嫌い、生業に基づく工場兼住居的な質実を旨とする邸宅建築を旨としたように思われる。 徳島には、明治末から大正期にかけての民家が比較的よく残されている。恐らくその頃が、この県の一番良いときであったのだろうと思う。私の印象では、この時期の吉野川流域においては、やたらと母屋の大きさを競うようなところがあったのではないかと思う。屋敷を構成する他の建物と比較してやたら母屋だけが立派なのである。青木家は、その代表選手みたいな存在である。 一際大振りな主屋が周囲を圧するかのよう聳え立つ当住宅。 主屋は明治末から大正期にかけて阿波地方の大規模農家に典型的な建前となっているが、煉瓦塀を筆頭に土蔵等の付属建物については少し地理が異なる風合いが醸されている様である。 敷地は3590u。 隠居用の建物といっても土蔵が建ち並ぶ様子は風雅とは縁遠く、主屋の造作も周辺に在る一般的な住家と何ら変わりは無く、全く隠居家風なところは見られない。屋敷前面に廻らされた煉瓦塀は徳島県内では珍しく、九州北部の大正期の屋敷には多用されていることから、長崎における建築業時代との関連が窺われる。 |