田中家住宅
Tanaka



国指定重要文化財 (昭和51年2月3日指定)
徳島県名西郡石井町藍畑字高畑705

俗に「板東太郎、筑紫次郎、四国三郎」と称すは、日本を代表する河川を表す俚諺である。順に利根川、筑後川、吉野川を指す。そのうち四国三郎を称する吉野川は徳島県の北部地域を東西に横断する堂々たる大河である。治水土木技術が発達した現代では、両岸には堤防が築かれ、上流部のダムや堰などにより水量はコントロールされているので、例え多少の大雨が降ったとしても、その姿は何ら変わることなく穏やかな流れを見せるに過ぎないが、大正時代以前においては、当然のことながら相当暴れたらしい。古い屋敷を訪れると「氾濫した水で、ここまで浸かった」と云って柱に残る痕跡を指し示しながら教えてくれる年寄りもいた。しかし、そうした被害を及ぼす一方、広範な流域には肥沃な土壌がもたらされるという側面があったことも事実である。昔の人々は自然と共存せざるを得ない状況に対し、その恩恵を享受しつつ、時には闘わねばならないことを諦観していたのではないだろうか。
さて当住宅が所在する石井町は吉野川中下流域南岸の平坦な土地柄である。まさしく藩政期においては吉野川の氾濫原真っ只中にあったといっても差し支えない場所である。恐らくこうした場所は集落を形成するには不向きな場所であったが、一方で肥沃な広い農地は喉から手が出るほどに魅力的であったに違いない。江戸時代中期以降の流通経済の発達に伴い、換金作物が栽培されるようになってくると、阿波藩では藍作が奨励され、生産から販売までを手掛ける在郷農商家が出現し始める。彼らはこうした住まうに不利な土地に対し、豊富な資金力を以って屋敷地を土盛りし、四周を石垣で補強し「城構え」と称される豪壮な邸宅を構えることで克服していくのである。不利を有利に変えることが可能な時代がようやく到来したのである。


まだ私が民家にあまり興味を持っていなかった頃、札所へ詣でる途中たまたまこの家と出会いました。吉野川中流域の青々と広がる草むらの中に石垣を積み上げ、蔵を堂々と廻らせる、その威容に胸がドキドキしたことを今でも忘れられません。徳島に残る藍屋敷とよばれる同様の民家の中で、これほどまとまりの良い家はありません。その後、幾度となく訪れる機会がありましたが胸のときめきは今もって同じです。