武知家住宅
Takechi



その他の写真

 
国指定重要文化財 (平成30年12月25日指定)
徳島県指定民俗文化財 (藍寝床・昭和35年9月24日指定)
徳島県名西郡石井町高川原天神133
建築年代/文久2年(1861)
用途区分/農商家(藍師)
指定範囲/主屋・離れ・伝い・宝庫・庫蔵・通門・東藍床・西藍床・寝床・倉廩・作男部屋・下部屋 【附】中門及び塀・板塀・灰屋・荒神社・撥釣瓶井戸
公開状況/非公開

徳島県内を東西に横断する吉野川の存在は、広大な徳島平野が形成された根源であり、その肥沃な大地がもたらした大いなる恵みは計り知れない。現在でも徳島県は京阪神地区への食糧供給地として第一次産業が旺盛な土地柄であるが、その中身は大河川の存在から連想されるような稲作中心の大穀倉地帯ではなく、あくまでも畑作中心の園芸作物地帯である。そもそも四国三郎の異名を持つ吉野川は日本国内で最大流量を誇る暴れ川たる存在で、大正年間中を費やした中流域の岩津地区から河口部までの約40kmに及ぶ連続堤が築造されるまでは、下流域の大半はその氾濫原であり、耕地面積の約8割が砂質土で稲作に不向きな土地柄であった。吉野川という豊富な水資源を目の前にしながらも、灌漑技術の未発達という事由も手伝って当時の価値基準の指標でもあった水稲作ができないという不条理に阿波人は忸怩たる思いであったに違いない。しかし人の営みの凄さである。「米作が無理な故に藍作に賭けた」と、当時の阿波人にそこまでの先見性があったか否かは知る由もないが、そうした不利を逆手に取って始めたはずの藍作が時代の変化と共に莫大な富をもたらすに至る存在になるとは誰が想像し得たであろうか。室町時代には既に始まり上方へ積み出されていたという藍作は、江戸初期から中期にかけて庶民の日常着素材が苧麻から木綿へと移り変わった衣料革命を契機に、その染料として爆発的な需要拡大期を迎えることになるのである。藩政期の阿波藩が表嵩26万石、実高50万石と称されたのは伊達でないことは、江戸期の長者番付たる全国持丸長者鑑に幾人もの阿波商人が名を連ねた事実からも明白である。今では人口や工業出荷額で県別低位に沈む徳島県にも輝かしい時代が嘗て有ったのである。
さて、当住宅が所在する石井町高川原地区は徳島市街の西方に位置する吉野川南岸の大畑作地で、堤防近くの集落を散策していると切石を高く積み上げ築いた台座上に鎮座する高地蔵の存在が否応なく目に付く。台座を高くするのは、もちろん洪水対策の為であるが、そもそもの話として、お地蔵様の存在自体が嘗て多くの命が洪水により失われたことの裏返しでもある。大堤防による治水が行き届いた今の世に生きる我々には想像の及ばない過酷な世界が僅か100年程の昔には当たり前にあったことを肝に銘じるべきなのであろう。そして同様に人の背丈を超す高石垣を築いて屋敷地を嵩上げ造成し、四周を土蔵と練塀で取り囲む「城構え」と俗称される阿波の民家を見るとき、私は同様の心持になることを禁じ得ない。その屋敷構えの美しさは日本の民家の中にあって白眉たる存在である。しかし、その裏腹に度重なる洪水に怯えながらも、此の世、此の地で生きていくために強大な自然に抗い続けた歴史があることを決して忘れてはならない。
閑話休題、ところで武知家住宅である。屋敷は先述の高川原地区を横断する旧伊予街道に南接する形で所在しており、東西約45m、南北約55mにも及ぶ大規模なものである。明治初頭に屋敷地の東方と北方に拡張した作業場まで含めると、鬼門の方角を大きく切り欠きはするものの東西約70m、南北約80mにも及んでいる。周囲は平坦な砂質の畑地が拡がるばかりの何の変哲もない土地柄であるが、その只中に石垣を築いて屋敷地全体を嵩上げし、西・南・北の三方を二階建の軒高な土蔵群で取り囲む様子は、まさに「城構え」の名のとおり威容を誇るものである。嘗ては天神村と称した一帯は、藍作の中心地であり、今でも細々とではあるが葉藍を育てている様子を見てとることができるが、当然ながらに当家も藍作により財を成した家柄である。享保11年(1726)に初代・元兵衛が分家して独立、天満屋元兵衛を名乗ったことから、屋号を「天元」と称したという。藍の製造だけでなく自ら販売をも手掛ける半農半商的な存在を地元では「藍師」と呼ぶが、当家の場合は伊予売りを中心に、紀伊、讃岐、備前、備中、備後と瀬戸内地方を中心に次第に販路を拡大し、江戸末期には材木商や酒屋を営むなど多角化を図ることで単なる藍師たる存在の枠を超え、天保9年()1838)には藩より郷士格である「小高取」の身分を得るに至っている。明治16年発行の「阿波国繁栄見立鏡」、明治19年発行の「阿波国市郷一般繫栄見立鏡」のいずれにおいても当家は東前頭2枚目に位置付けられており、「名西(地名)の四天王」と尊称される存在であった。住宅に関しては、云うまでもなく大藍作農家建築として、その美しさは比類なきものである。藍作は藍葉の栽培から始まり、その収穫後には藍葉を刻み、茎葉を選別して俵詰めにして保管、後に「寝床」と称する土蔵内で発酵を繰り返して、ようやく染料としての藍玉が完成する。その一連の工程をこなすための製造施設を備えた住宅を藍屋敷と称するが、当住宅は現在でも往時の施設をそのままに残している。明治30年代にドイツで合成藍と呼ばれる化学染料が開発され、国内輸入されることになると伝統的な藍作は急速に衰退していくことになるのだが、以来130年程の年月を経てもなお、建築当時の状態で多くの建物群を維持してこられたことに、唯々頭が下がるばかりである。また多くの建物群のうち屋敷南側に連なる西藍床、東藍床の二棟の藍の発酵蔵は昭和35年には徳島県の民俗文化財に指定されているが、当時は周辺の藍屋敷にも同様の建物が数多く残されていた時分で、当住宅の寝床がわざわざ選ばれ、指定された理由はやはりその美しさにあるのではないかと思う。色鮮やかな緑青色した阿波の名産・青石を人の背丈程の高さにまで積んだ石垣上に、本瓦葺二階建の重厚感と規模感を備えつつ、風雨に晒されて褐色に寂びた風情を醸す簓子下見板張で外観を整える様子は、豪農商家として不動の地位を築いた当家だからこそ可能な普請で、比類無きものである。更に屋敷東方に開かれた長屋門形式の通門から敷地内に歩を進めたときに眼前に拡がる前庭と主屋の絶妙な取り合わせは、時が経つのを忘れる程である。特に主屋については本瓦葺の入母屋屋根建築で、四周に下屋を廻らせ南面中央部に入母屋造の式台玄関を突出させる建前は江戸期の農村部の建物としては破格の建築である。近世における住宅普請には厳格な身分制度に基づく分限というものが強く求められたが、藍の製造という実用に徹しながらも、その範疇で精一杯の家格的な演出を試みる意図を強く感じさせてくれる住宅である。大正期に民芸活動で活躍した柳宗悦が「用の美」という思想を唱えたが、私は当住宅を訪れると、いつも強くそれを感じる。明治以降の近代住宅建築とは似て非なる近世住宅建築の妙に嘆息せざるを得ない。(2021.4.25記)

【参考文献】
阿波の民家 徳島県民家緊急調査報告書 徳島県教育委員会
月刊 文化財 平成31年1月号 第一法規株式会社
図説 徳島県の歴史  河出書房新社
四国の民家 建築家の青春賦 日本建築学会四国支部
藍の豪商 経営戦略と盛衰 徳島新聞社  
徳島市民双書阿波の民俗3 すまいとくらし 徳島市立図書館 

一覧のページに戻る