愛媛の民家

愛媛は温暖な気候風土で自然災害も少なく、実に過ごしやすい土地である。そのことは人情だけでなく、民家の表情にも顕れており、淡黄色の土壁の穏やかな雰囲気に包まれた良い家がたくさんある。その中でも松山平野の只中に所在する豊島家住宅は、日本を代表する素晴らしい民家である。一般には公開されていないので内部見学の機会を得ることはなかなか難しいとは思うが、大庄屋時代の厳かな雰囲気を今に保ち続けている様子は外観だけでも一見の価値がある。町家では、櫨蝋の生産で栄えた内子を訪れると良い。重伝建地区に選定されるとともに、芳我一族の邸宅を中心に国指定文化財が3件も集中し、他に資料館として町家2棟が公開されている。時間をかけてゆっくりと訪れるとよい。 
豊島家住宅 国指定重要文化財 (昭和45年6月17日指定)
愛媛県松山市井門町421-1
建築年代/宝暦8年(1758)
用途区分/農家(代々庄屋・大庄屋)
指定範囲/主屋・表門・長屋・長屋門・米蔵・衣装蔵・中蔵
公開状況/非公開
松山市南郊の田園地帯に所在する大庄屋邸宅である。県内の殆どの農家建築が直屋であるのに対し、当家は3つの棟が鍵型に交差する独特の形状。俗に八ツ棟造と称されるもので白壁の練塀越しに覗く巨大な茅葺屋根の様子は気品に満ち溢れ、長い歴史によってのみ紡がれる旧家独特の清廉な雰囲気を醸している。屋敷構においても簡素な長屋門と小振りながらも品格溢れる表門を別に置き、主屋座敷西側には広大な庭園を設えるなど貴人の来駕を想定した造作となっている。藩政期民家の白眉である。
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渡部家住宅 国指定重要文化財 (昭和45年6月17日指定)
県指定民俗資料 (昭和44年2月18日指定)
愛媛県松山市東方町1238-1
建築年代/慶応2年(1866)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋・表門・米蔵・蔵・土地
公開状況/非公開
松山市中心部より東南10km程の田園地帯に所在する旧庄屋邸宅である。代官屋敷を思わせる大振りな長屋門に桁行23mにも及ぶ長大な瓦葺の主屋は当地方における幕末の庄屋屋敷としての完成形を示すものである。しかし此の地における当家の歴史は浅く、幕末の天保15年(1844)に松山市東郊の川内町から分家して当地に入庄屋として移り住み、万延元年(1860)には現在の主屋を起工している。移住後の短期間のうちによくもこの様に立派な屋敷を築いたものである。庄屋という地位の権勢に驚かされる。

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本芳我家住宅 国指定重要文化財  (平成2年9月11日指定) 
愛媛県喜多郡内子町内子甲1547
建築年代/明治17年(1884)主屋
用途区分/商家(製蝋業)
指定範囲/主屋・炊事場・産部屋・便所及び湯殿・土蔵・土地
公開状況/非公開
国の重伝建地区に選定される内子町八日市護国に所在する商家建築である。恐らく当住宅を初めて目にする誰しもが街道に東面して建つ総二階建主屋の随所に施された精緻な鏝絵と重厚感溢れる佇まいに度肝を抜かれることであろう。明治期の建築とはいえ、これ程までに凝った造作の町家は中々あるものではない。当家は「伊予式箱晒法」の発明により櫨蝋製造の白蝋化に成功し莫大な富を築いた芳我一族の本家筋に当たり、町内には当家以外にも大規模な分家住宅も残り、まるで芳我町の様相である。
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上芳我家住宅 国指定重要文化財 (平成2年9月11日指定) 
愛媛県喜多郡内子町内子甲1519
建築年代/明治27年(1894)
用途区分/商家(製蝋業)
指定範囲/主屋・炊事場・仕舞部屋及び便所・産部屋・離座敷・釜場・出店倉・物置・土蔵・離部屋・土地
公開状況/公開
四国地域の文化財に指定されている民家訪問の楽しさは、屋敷そのものが生産工場を兼ねた例が数多く残ることである。例えば徳島県には藍や塩を扱う商家的側面を併せ持つ生産農家が豪壮な屋敷を構えており、その姿は他ではみられないものである。当住宅も明治期に木蝋生産で栄えた内子町に所在する商家建築で、邸内には住宅部分の他に櫨蝋の生産施設が往時のままに残されている。先の伊予式箱晒法を発明した本芳我家から江戸末期に分家し、隆盛を極めた明治中頃に整備した屋敷である。
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大村家住宅 国指定重要文化財 (平成2年9月11日指定)
愛媛県喜多郡内子町内子甲1551
建築年代/寛政年間(1789-1801)
用途区分/商家(雑貨商・染物商)
指定範囲/主屋・裏座敷・土地
公開状況/非公開
重伝建地区に選定される内子町八日市護国の中心部に所在する商家建築である。派手な鏝絵で装飾された本芳我家住宅の南隣に位置するため白漆喰で軒裏まで塗り込め2階部には虫籠窓をも開く造作ながら地味な印象を受けがちであるが、地区内で最も古い建築年を考慮すれば十二分な造作である。また当家の価値は主屋背後に建ち並ぶ木小屋、裏座敷、藍蔵、窯場といった附属建物群の建築年が全て判明していることにもあり、内子の町が木蝋生産で栄える以前の姿を伝える住宅として貴重である。
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山中家住宅 国指定重要文化財 (昭和45年6月17日指定)
愛媛県上浮穴郡久万高原町上黒岩2番耕地722
旧所在地/愛媛県宇摩郡別子山村
建築年代/江戸時代(18世紀後半)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
松山から高知への最短路である国道33号線は山越えの道である。途中の三坂戸峠を越え旧美川村役場の手前に達すると久万川の対岸に建つ当住宅が見えてくる。元来は銅山で著名な別子山村に所在していたが文化財指定後の昭和51年に当地に移築復元された経緯がある。奥行が浅く桁方向に長い造作は山村農家の特徴で、板壁を多用し土間を持たない点なども同様である。多くの古式が残る様子から当初は18世紀初頭の建築と見立てられたが、今では山間部ゆえに古式が温存されたと解釈されている。
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真鍋家住宅 国指定重要文化財 (昭和45年6月17日指定) 
愛媛県川之江市金生町山田井2030-2
建築年代/江戸時代(17世紀末〜18世紀初)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
愛媛と香川の県境の山深い傾斜地に所在する農家建築である。当地には平家の落人伝説も残り、徳島県の祖谷地方に落ち延びた平家の落人が更に逃れてきたということだ。真偽の程は定かでないが、周辺と隔絶した山間部であることは確かである。当家は江戸時代には庄屋職を務めたこともあるという家柄らしいが、主屋の規模は決して大きなものではない。土壁を厚く塗り込め、開口部が極端に小さな造作は山間の寒冷地ゆえであろう。囲炉裏の煙に燻されて黒光りする桁梁に家人の愛着が感じられる。
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広瀬家住宅 国指定重要文化財 (平成15年5月30日指定)
愛媛県新居浜市上原2-3904-2
建築年代/明治10年(1877)
用途区分/実業家
指定範囲/主屋・新座敷・離れ・金物蔵米蔵・門番所・乾蔵・表門
公開状況/公開
江戸期から続く豪商として天下に名を知られた財閥・住友家の経済基盤は、新居浜北方の山中にある別子銅山にあったことは知る人ぞ知るところである。当住宅はその銅山支配人であるとともに、後に住友家の総理代人をも務めた広瀬宰平が明治18年頃より整備した近代和風邸宅である。市街を眺望する新居浜市北郊の高台に築かれた邸宅は往時そのままに残り、その建造物の大半は当地より北へ4km程の久保田地区にあった旧邸から移築したもの。洋式の要素も若干取り入れた素晴らしい建築である。
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臥龍山荘 愛媛県指定文化財 (昭和60年2月15日指定)
大洲市指定名勝 (昭和31年9月30日指定)
愛媛県大洲市大洲411-2
建築年代/明治38年(1905)
用途区分/実業家別荘
指定範囲/臥龍院・不老庵
公開状況/公開
大洲市内を縦断する肱川の河畔に建てられた別荘建築である。江戸時代までは歴代大洲藩主の遊賞地であった場所に、明治期に入って貿易業で成功を収めた河内寅次郎が建てたものである。敷地内には美しい庭園の中に臥龍院、不老庵、知止庵といった数寄を凝らした三棟の建物が配置され、肱川や冨士山など周囲に広がる自然景観を借景に取り込み、実に雅な空間を演出している。正直に云って雛なる地方都市で、これほどの名建築に出会うことは普通では有り得ない話である。「大洲、恐るべし」である。
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久門家住宅
(土居構跡)

愛媛県指定史跡 (昭和23年10月28日指定) 
愛媛県西条市中野甲1743
建築年代/寛文初期(1660年前後)
用途区分/庄屋
残存建物/主屋・中門・庭塀
公開状況/非公開
石鎚山を源流とする加茂川は西条平野に至る直前に大きく蛇行する。この流れの変化により形成された舌状の台地上に当住宅は所在する。そもそも当地は中世城郭の遺構で、新居宇摩二郡を支配した河野通直が築造したと伝えられる場所。一般に「土居構」と呼ばれている。当家がこの地に居を構えたのは中野村の庄屋として移住してきた江戸初期のこと。主屋は寛文初期(1660年前後)に建築されたものらしく、かなり古い遺構である。現在は赤トタン屋根で覆われているが、重厚な風格を感じさせてくれる。
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近藤篤山旧宅  愛媛県指定史跡
愛媛県西条市小松町新屋敷甲3069
建築年代/
用途区分/朱子学者
残存建物/主屋・表門
公開状況/公開




 
毛利家住宅 宇和島市指定文化財  (平成6年1月13日指定)
愛媛県宇和島市三間町是能419
建築年代/宝暦3年(1753)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋・長屋門
公開状況/公開
県南の中心都市・宇和島の北東に中世からの田園景観を残すと云われる三間盆地がある。当住宅はこの盆地の西端にある是能集落に所在する旧庄屋屋敷である。屋敷地は階段状に造成された狭い谷間の最も高い位置にあり、背後に山を背負い、正面には長大な長屋門を構える様子はまるで戦国時代の砦の体である。長屋門の背後には狭隘地であるにも関わらず広い前庭が広がり、その奥に県内では珍しい座敷部を突き出した角屋造の主屋と立派な土蔵が端座している。寂然とした風情が心地よい。
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土居家住宅 西予市指定文化財 (昭和43年10月30日旧野村町指定) 
愛媛県西予市野村町惣川1290
建築年代/文政10年(1827)
用途区分/山村農家(庄屋・酒造業)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
平成の町村合併によって誕生した西予市の中心は旧宇和町にあるが、旧野村町域の惣川集落は宇和より東へ約35km程も奥に入った高知との県境付近に所在する。延々と続く山道に何度も途中で引き返そうかと思う程の山奥である。私が当住宅を知ったのは愛媛の民家本としてはバイブル的な存在である「民家ロマンチック街道 伊予路」(犬伏武彦著)に紹介されていたことに始まる。最初に訪れた際には、著者も記したとおり茅葺の大屋根が民家の屋根とは認識できない程であった。超弩級の民家建築である。
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末光家住宅  西予市指定文化財
愛媛県西予市宇和町卯之町3-179-2
建築年代/明和7年(1770)
用途区分/商家(酒造業・醤油醸造業)
指定範囲/主屋
公開状況/公開(但し月1回程度)
大洲と宇和島の中間位置にある宇和町の中心集落・卯之町は、宇和盆地に産する物資の集散地であるとともに宇和島街道の宿駅として発展した在郷町である。特に中町周辺は江戸期の建物がよく残り、平成21年には重伝建地区に選定されている。当住宅は地区の中心部に所在する商家建築で、清澤屋の屋号で江戸中期頃から酒造業を始め、大正中期から昭和初期にかけては醤油の醸造販売業を営んだ。明治中期に屋根を本瓦から桟瓦に葺き改めたため大型の町家建築でありながら軽快な印象である。
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藤田家住宅  愛南町指定民俗文化財 (昭和50年12月5日指定)
愛媛県南宇和郡愛南町緑丙4196-1
旧所在地・愛媛県南宇和郡愛南町鹿鳴
建築年代/18世紀
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
県最南端の愛南町にある山出憩いの里温泉の敷地内に移築された桁行4間、梁間2間半の極小農家建築である。建坪は僅か11坪程で宇和島藩領における一般農家住居が残る稀有な例として貴重とされている。そもそもは現在地から北西2.5km程奥に入った鹿鳴地区にあった。室内は土間と8畳程の板間のみから構成される1室住居と呼ばれるもので、柱に手斧の痕跡が残ることから18世紀を下らぬ頃の建物と推測されているが、意外に重厚感のある材料が用いられており、庶民の家とはいえ良い家である。
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佐伯家住宅  東温市指定史跡 (平成9年4月25日指定)
愛媛県東温市河之内甲4876 (惣河内神社境内)

建築年代/江戸中期
用途区分/社家
残存建物/主屋
公開状況/非公開
広大な松山平野を形成する重信川の上流部に所在する惣河内神社の社家住宅である。当住宅の所在する河之内音田集落は、ちょうど平野部と山間部が接する境界地で、各々の産物の交易の拠点として小さな町場が形成された土地柄である。それ故であろうか、集落を庇護する当神社も結構な規模を擁しており、複雑な山裾の地形に石垣を高く積み上げて境内地と社家地を結ぶ様子は壮観である。当住宅は大正〜昭和初期に活躍した俳人・松根東洋城が当主の招きにより昭和25年頃に滞在した際、座敷脇の入側縁に起居したことから一畳庵の名で知られているが、建物自体は式台を構えた立派なものである。
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山川家住宅 登録有形文化財  (平成13年4月24日登録)
愛媛県川之江市金田町金川14
建築年代/明治10年
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/主屋・仕込蔵
公開状況/非公開
愛媛県を代表する銘酒「梅錦」の醸造元である。明治5年の創業で酒造の歴史は比較的浅いが、土佐街道と阿波街道の分岐点という好立地も手伝って明治半ばには既に県下でもトップクラスの生産量を誇っていたようである。旧街道に西面して建つ主屋は明治10年の建築で豪壮な本瓦葺の見応えのあるものである。また内部においても特徴的な造作で知られており、先祖伝来の仏壇に合わせて作られたという仏間は二階まで吹抜けの空間になっているらしい。酒造家としての貫録に溢れる佇まいである。
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篠永家住宅  登録有形文化財 (平成15年12月1日登録)
愛媛県四国中央市具定町正之森250-1
建築年代/明治19年(1886)
用途区分/商家(酒造業)
指定範囲/主屋、門、東酒蔵、南米蔵、土蔵
公開状況/非公開
旧伊予三島市の中心部より2km弱程南西の旧道沿いに所在する商家建築である。明治19年に創業し、「森之翠」という銘柄で酒造を営んでおられたが、残念ながら平成21年に廃業されたとのことである。以前に屋敷の前で写真を撮っていると声をかけていただき、蔵の中まで案内してもらったにも関わらず1本の酒をも購うことなく失礼してしまったことが悔やまれる。屋敷は創業と同時に整備されたもので、街道北側に接して主屋や酒蔵を、南側に米蔵を配置する。広い間口の大規模な住宅ながら軽快な印象である。
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八木家住宅  登録有形文化財
愛媛県今治市波止浜町
建築年代/大正7年(1918)
用途区分/実業家本宅
登録範囲/店舗・座敷・住居棟・内蔵・離れ・表塀
公開状況/公開【八木商店本店資料館】



越智家住宅 登録有形文化財 (平成14年2月14日登録)
愛媛県東予市壬生川32-1
建築年代/江戸時代
用途区分/商家(木蝋販売)
登録範囲/店舗及び居宅・茶室・数寄屋
公開状況/非公開
今治と小松を結ぶ国道196号線沿いの壬生川町の中心部に所在する商家建築である。壬生川の町はかつては燧灘に通ずる大曲川の川湊として発展したところで、湊前に位置する当家は「枡屋」の屋号により木蝋の販売を行い、近在一の豪商とまで謳われた存在であった。現在、鰻の寝床状の南北に細長い敷地に北から表屋・主屋・茶室・座敷等の建物が建ち並ぶ典型的な表屋造の様相を呈しているが、15年程以前に国道が拡幅される以前には屋敷地は更に東に広く、多くの土蔵群が南北に建ち並んでいた。
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宮内家住宅  登録有形文化財 (平成30年5月10日登録)
愛媛県伊予市灘町123
建築年代/元文3年(1738)
用途区分/商家・町年寄
登録範囲/主屋・隠居所・古隠居・潮見堀
公開状況/公開(交流施設として活用)

 
石丸家住宅 登録有形文化財 (平成15年1月31日登録)
愛媛県上浮穴郡久万高原町下畑野川乙488(移築)
旧所在地・愛媛県上浮穴郡久万町大字上畑野川河之内
建築年代/江戸後期
用途区分/山村農家
登録範囲/主屋
公開状況/公開 【久万高原ふるさと旅行村内】
久万高原町の「ふるさと村」内に移築された山村農家建築である。当家は上浮穴郡と温泉郡の境界付近にある上畑野川集落を拓いたと伝えられる旧家で、元禄年間に藩主より親孝行により異例の褒賞を受けたり、享保の飢饉の際には救済米を供出することで名字帯刀を許された有徳の家柄である。こうした由緒を持つ家柄ながら住宅は三間取形式で座敷が床や棚などを備えぬ未発達な造作であることから江戸中期頃まで遡る建築ではないかと推測されていたが、山村住宅の特徴とみる向きもある。
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渡邊家住宅 登録有形文化財 (平成15年1月31日登録)
愛媛県上浮穴郡久万高原町下畑野川乙488(移築)
旧所在地・愛媛県上浮穴郡久万町大字直瀬中通地区
建築年代/明治12年(1879)
用途区分/農家
登録範囲/主屋
公開状況/公開 【久万高原ふるさと旅行村内】
四国に高速道路網が整備される以前は、松山から高知へ向かうには国道33号線を使うことが一般的であったが、幹線道路でありながら意外な程の山深さに驚いたものである。その途中にある「久万高原ふるさと村」内に所在する当住宅は昭和55年の開村時に付近から移築された山村農家で、山間部の住宅ながら正形四間取の座敷には床や棚を備える本格的な造作の建物である。恐らく当初の所在地が久万の町場に近く、高原ゆえに耕地にも恵まれた拓けた場所であったことと関係しているに違いない。
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佐々木家住宅 登録有形文化財 (平成16年3月2日登録)
愛媛県伊予郡砥部町総津785
建築年代/明治41年(1908)
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/主屋・煉瓦煙突
公開状況/非公開
松山市の南方30km程の山間部に所在する商家建築である。当家が所在する総津集落は平成の町村合併によって砥部町に編入される以前には旧広田村の中心地であった場所で、山間部ながら旧街道筋には町家が建ち並び在郷町の様相を呈し、役場などの公共施設も集まっていた。街道に東面して広大な屋敷を構える当家は集落の中では際立つ存在で、明治5年に創業し、現在も「八重菊」の銘柄で操業中の酒造家である。山間の町家らしく簡素な真壁造の主屋と灰色漆喰の酒蔵が印象的である。
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加藤家住宅 登録有形文化財 (平成19年7月31日登録)
愛媛県大洲市大洲字三ノ丸848-1
建築年代/大正14年(1925)
用途区分/旧藩主邸宅
登録範囲/主屋
公開状況/公開
県南部の大洲は加藤家6万石の城下町である。城址には復元ながら木造の天守閣が建ち、周辺には往時からの櫓が点在している。大洲高校の東に残る三ノ丸南隅櫓も明和3年(1766)に建築されたもので国重文に指定されている。当住宅はこの南隅櫓を屋敷内に取り込む形で外堀跡の石垣上に建つ旧藩主の邸宅で、維新後に東京に強制的に移住させられていた旧藩主家が大正14年に帰郷して自らの住宅として建てたものである。桁行12間、梁間10間の寄棟造、木造2階建。
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末永家住宅  登録有形文化財 (平成15年1月31日登録)
愛媛県大洲市長浜甲309
建築年代/明治(1884)
用途区分/商家(回漕業)
登録範囲/主屋・百帖座敷
公開状況/公開
長浜は伊予灘に面して肱川河口右岸に形成された大洲藩の外湊で肱川の水運を利用した物資の集散地として発展した町場である。日本最古の可動式道路橋として有名な長浜大橋の袂近くに所在する当家は回漕業を営むとともに明治期の当主・末永四郎平は5期にわたり町議会議員を歴任、昭和10年からは町長を務めた地元の名士である。本瓦葺切妻屋根に灰漆喰の大壁に腰壁を海鼠壁とする重厚感溢れる主屋も然ることながら、主屋北側に附属する百帖座敷は18畳敷に折上格天井の豪華なもの。
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兵藤家住宅  登録有形文化財 (平成17年7月12日登録)
愛媛県大洲市長浜町出海乙9-1
建築年代/江戸末期
用途区分/農家(庄屋)
登録範囲/主屋・土蔵・門・外塀
公開状況/非公開


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下芳我家住宅 登録有形文化財 (平成19年7月31日登録)
愛媛県喜多郡内子町内子1946
建築年代/明治時代
用途区分/商家(製蝋業・酒造業・製紙業)
登録範囲/主屋・隠居屋
公開状況/非公開
JR内子駅から重伝建地区に選定されている八日市・護国地区に向かう本町通りに沿って展開する六日市地区に所在する商家建築である。町内では最も繁華な一帯に当たるため町家の建替えも進みつつあり、当住宅の存在は貴重である。当家はその名からも判るとおり国の重文指定を受ける本芳我家から明治初期に分家したもので、本家と同様に当初は櫨蝋の製造に携わっていたが、のちには酒造、製紙に業態を転換したとのこと。間口19mに及ぶ大型町家で、東側には大正末期築の隠居屋が附属する。
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都築酒店  登録有形文化財 (平成15年1月31日登録)
愛媛県喜多郡内子町小田322

建築年代/明治20年(1887)
用途区分/商家(酒販業、嘗ては酒造業)
登録範囲/店舗及び主屋
公開状況/非公開
嘗て櫨蝋の生産で栄え、現在では重伝建地区に選定され全国的な知名度を誇る内子の町から小田川を上流へ遡った山間部に町村という小さな町がある。当集落は平成の町村合併以前には旧小田町の役場が所在していた場所で、大洲藩政時代より在町として発展してきた土地である。その町並のやや北側に所在する当住宅は、嘗ては酒造を生業とした商家建築である。真壁造で木部を露わにする軽快な建物であるが、2階部分の両端に小屋根を冠する袖卯建を上げ、これを延長する形で1階部分にまで袖壁を設える様子は、なかなかに渋い造作で、尚且つ珍しい。
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上甲家住宅  登録有形文化財 (平成14年2月14日登録)
愛媛県北宇和郡吉田町東小路甲71-1

建築年代/大正初期
用途区分/商家(酒・醤油販売業)
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
中予・南予の境界となる法華津峠を越えて長い下り坂を終えた辺りが伊達宇和島藩の支藩・吉田藩の城下町・吉田である。僅か3万石の小藩ながら町の規模と整然とした町割りに驚かされる。また本町通沿いに残る豪商家の重厚さにも目を瞠るものがある。当住宅は通りに面して建つ切妻平入屋根土蔵造の典型的な商家建築であるが、所在する東小路は藩政期には家老屋敷があった場所。当家は明治末期に北郊の立間村から来住し、大正〜昭和30年代まで酒や醤油の醸造販売を行ったという。本来の商人町に残る藩政期の大店建築とは異なり、軽快な建前を特徴とする。
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明星草庵 登録有形文化財 (平成24年8月13日登録)
愛媛県宇和郡鬼北町下鍵山432
旧所在地・愛媛県宇和郡鬼北町上鍵山字高皿
建築年代/大正時代(平成2年移築)
用途区分/農家
登録範囲/主屋
公開状況/公開
県南山間部にある鬼北町中心部に所在する歴史民俗資料館などの文化施設を集めた明星ヶ丘に移築されている農家建築である。大正期の建築ながら江戸期の古材を転用したと伝えられ、柱や梁の煤けた風情が落ち着いた雰囲気を醸している。内部は10畳の座敷に12畳の広間の2室と土間に張り出した板間のみの簡素な構成で、単純な間取りに対して座敷部書院の設えや土間境の見事な欅材の大黒柱などから、恐らく一般農家が普段使いするような住宅ではなかったのではないかと思われる。
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細川家住宅 四国中央市指定保存建造物 (平成2年7月1日指定)
愛媛県四国中央市富郷町津根山352
旧所在地・愛媛県四国中央市富郷町寺野
建築年代/明治15年(1882)
用途区分/山村農家・旅籠
指定範囲/主屋
公開状況/公開
瀬戸内海に面する四国中央市に林立する製紙工場の生命線は法皇山脈から給される豊富な水資源である。この険しい山脈の裏側に集落が存在していたなど露とも思ったことはなかったが、昭和62年に富郷ダムが建設される以前には相応の人家が在ったらしい。当住宅はダム建設により水没した旧寺野地区より平成2年に現在の「てらの湖畔広場」内に移築された山村農家建築である。農業の傍ら旅館業も営んだことから、山村部の民家ながら座敷が整い、約36坪の建坪を有する規模の大きな建物である。
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米岡家住宅  無指定・公開 (現在は内子町の所有)
愛媛県喜多郡内子町内子3023
建築年代/寛政5年(1793)
用途区分/商家(薬屋・小間物屋等)
残存建物/主屋・
公開状況/公開 【内子町立町家資料館】
昭和57年に県内で最初に重伝建地区に選定された内子町八日市護国地区の南端、坂町に所在する商家建築である。伝建地区を代表する櫨蝋製造で富を築いた芳我一族の豪壮な邸宅とは対照的に間口4間半程の一般的な規模の建物であるが、重文指定の大村家に次いで古い民家建築として貴重である。左官業を営んだ旧所有者の米岡家が当住宅を購入したのが大正5年のことで、明治期には小間物屋や薬屋として用いられていたらしい。2階前面の虫籠窓は小さく、明らかに明治期の町家と様相が異なる。
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高橋家住宅 無指定・公開
愛媛県喜多郡内子町内子2403
建築年代/不詳
用途区分/庄屋分家・酒造業・実業家
公開状況/公開
内子町の八日市・護国の重伝建地区東側の地区外に所在する近代和風建築である。通り沿いに町家が居並ぶ一画から路地裏に抜けると石垣上に練塀を廻らした当住宅が現れる。当家は大洲藩領五百木村の庄屋から分家して酒造業を営むとともに大洲藩の御厩小頭を務めた家柄とあるが、住宅の価値としては戦前にアサヒビール・サッポロビールの前身である大日本麦酒の社長を務め、戦後は日本商工会議所会頭、通産大臣等を歴任した高橋龍太郎の生家であることに力点が置かれているようである。
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高月家住宅
(法華津屋)
無指定・公開
愛媛県宇和島市吉田町鶴間1503
建築年代/安政6年(1859)
用途区分/商家(問屋業・町年寄)
残存建物/店舗棟
公開状況/公開 【国安の郷】
宇和島の北方に位置する吉田町の郊外にある「国安の郷」に移築された商家建築である。当家は伊達支藩3万石の陣屋町である旧吉田町の魚棚1丁目で酒や紙を扱う問屋業を営んでいた豪商で、屋号は法華津屋と称したが、家印に丸に三引を用いていたため三引高月家と称された。当主は代々甚十郎を襲名し、町年寄も務めたとのことである。桁行12間、梁間8.5間で床面積130坪に及ぶ大規模な建物ながら実は店舗部分だけの移築で、棟続きの居住部分は今でも旧所在地にそのまま残されている。
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旧太田家住宅  無指定・公開
愛媛県西予市城川町下相568
旧所在地・愛媛県西予市城川町古市字伏越
建築年代/江戸末期(明治初期説も有り)
用途区分/山村農家
残存建物/主屋
公開状況/公開 【城川町歴史民俗資料館】
大洲市の南東30km程の山間部で高知との県境付近に所在した農家建築である。現在は旧所在地から2km程離れた旧城川町の歴史民俗資料館内に移築保存されている。内部は喰違い四間取り平面で上手奥に設えられた座敷は長押が廻り、床や書院を備えた本格的な造作となっている。また下手の土間も広く、表から奥まで続いており、まるで平野部の農家を見ている様な錯覚に陥る。山間部民家の特徴は土間内の梁に吊るされた楮の蒸し桶と広間の囲炉裏の存在ぐらいであろうか。
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井手家住宅  無指定・外観公開
愛媛県越智郡大西町新町
建築年代/明治4年
用途区分/大庄屋
公開状況/外観公開
大西町は愛媛県北部の小さな町で、瓦の生産地として有名な菊間町と造船とタオル産業で全国区の知名度を誇る今治市とのちょうど中間に位置している。しかし当町には格別な特産品もなく、残念ながら知名度も極めて低い町である。そんな大西町ではあるが、私は付近を通る際には必ずと云ってよいほどに立ち寄ることとしている。それは当家の魅力につい引き寄せられるからに他ならない。当家は町を南北に貫く街道沿いのほぼ集落の中心に、長い板塀を巡らして屋敷を構えている。邸内には大きな楠の大木が周囲を覆い、長い歴史を紡いできた家であることを無言で知らしめてくれる。江戸時代には大庄屋職を務めたという由緒に相応しく、主屋は重厚な本瓦葺に唐破風の玄関を構える。また特筆すべきは、屋根の上に載る天水瓶である。これは、現代住宅では全く想像もつかないことであるが、一般に防火用として水を張った甕を屋根の棟に載せたものである。実際には大して役に立つ事もないと思われるが、格式を象徴するものとして特別の家にだけ許されたということである。天水瓶について残存例を正確に確認をしたことはないが、私の知る限り、殆ど残されていないのではないかと思う。数多くの建築を見てきたが高野山の金剛峰寺で見かけた程度で、民家建築としては唯一の例ではなかろうか。 
高橋家住宅  無指定・非公開 
愛媛県西条市氷見乙1793
藩政時代の四国地方は比較的大藩が多く、江戸初期から明治維新に至るまで国替えもなく安定的な政治支配が行われた地域である。それゆえか人々の性質は比較的温和でゆったりとしていると云われている。しかし例外的に愛媛県の東予地方だけは小藩が乱立し、廃藩となった例も多々あり、人情の面においても異質と云ってもよいほどに荒い。風土というものの成り立ちを考えるときにとても興味深い話である。
さて、当住宅が所在する氷見は江戸期においては一柳家1万石の小藩に属した土地である。当家は藩政時代には周辺19ヶ村の大庄屋を務めた旧家であるが、そもそもは戦国期に氷見の高尾城主であったという由緒を持つ。穏便な在地支配のために、旧来の土豪層を支配体制に組み込んでいった典型的な事例であると云えよう。藩主・一柳家は気の荒い領民の慰撫にさぞやご苦労なされたことであろう。
当住宅の主屋はこの地域には珍しく妻入りの建物である。大きな屋根上には、まるで望楼のような立派な煙出しが設けられている。これらは恐らく当家のただならぬ家格を示すための演出であろう。また街道に面する表門の上品な雰囲気もなかなかのモノである。 

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