佐伯家住宅



愛媛県南部出身の俳誌「渋柿」の創始者・松根東洋城が、昭和25年8月から1年3ヶ月間住んだ惣河内神社の社務所である。ここで人間修業としての俳句の境地を説き、門下を育成。部屋には当時の机などが置かれ、境内には句碑がある。〜JAFの雑誌記事を一部改編

惣河内神社は松山平野の東側最奥部に位置する東温市の山間に所在する神社で、霊峰・石鎚山へと続く面河へと続く街道筋となるため広く周辺住民の尊崇を集めた。佐伯家住宅は一畳庵の名前で知られるため、粗末な隠遁家屋を想像するが、実際は有力神社の社家住宅だけあって相応に立派な建物。俳人・松根東洋城に師事した佐伯家の当主・惟揚氏が東洋城を招き、当家で起居した空間が、座敷脇の一畳であったことに、その名は由来する。東洋城は俳句を「俳句は社交に非ず、慰安の具に非ず、遊楽喜遊の法でもない。東洋文化の持つ精神の流露発揚、人としての完成のための内部工作すなわち修業の道である」と説いた。今の時代感覚からすると、相当に面倒な男のようである。
写真でも判るとおり、当住宅は山間の傾斜地に石垣を築き建てられている。敷地には高低があり、無理に平地を確保している様が魅力を高めている。建物は入母屋造の四間取平面である。

【町史より抜粋、一部改編】
一畳庵は、河之内惣河内神社の社務所である。俳人松根東洋城が、昭和25年8月から翌年の3月までと、その年の8月から翌年2月まで前後15ヶ月を仮寓した所である。俳誌渋柿に「一畳庵の記」を掲載してから「一畳庵」の名で呼ばれるようになった。
建物の屋根は茅葺入母屋造りで、昔からこの地方にあった一般的民家であるが、この家は、社家として建てられたもので、通常の出入口の左に間口一間半の玄関式台を設けている。屋根の小屋組が非常に堅牢な造りであること、柱・鴨居・框などが手斧仕上げとなっているのが特徴である。
ここは、県道黒森峠への道中、金毘羅寺と隣り合って神木ウラジロガシのあるところ。鳥居を潜ると見事に苔むした石垣がある。正面石段を登ると神社の本殿、左へ自然石の高い石垣に沿って石段を上がると、山を背に手入れの届いた植込みの奥に、重厚な茅葺の一畳庵がある。松根東洋城は、この座敷の外廊畳一枚を占めて「一畳庵」と称して起居、俳諧の指導にあたった。
 山屏風 春の炬燵に こもるかな
この句碑が昭和31年初秋に鳥居の奥に建てられている。また、庭の桜の下にも碑があり、
 春秋冬 冬を百日 桜かな
と刻まれている。東洋城がこの山峡の地に仮寓したことは、宮司で門下の宗匠佐伯巨星塔と関係が深い。東洋城は、初め正岡子規の句に心を寄せたが、その後芭蕉の句境を慕い、次第にこれに傾倒して、河東碧梧桐等、子規門の芭蕉調という新傾向派とは対立するようになった。晩年、「俳句は芭蕉にかえれ」と徹底した指導をされ、一人一人、一字一句に至るまで何度も繰り返して納得のいくまで指導された。その厳しい指導は、人を感得させる鋭さがあった。町内には直接、師の指導を受けた人も多い。彼はこの一畳庵で俳誌「渋柿」を偏し、門下生を指導する傍ら、「歌仙独吟」の草稿を作り、佳吟百余首を残している。昭和28年芸術院会員となったが、師が巨星塔宗匠の求めに応じて書かれた「球心機動」の額は、もと三内中学校の講堂に掲げられていたが、中学校の統合によって今は川内中学校体育館にあり、今なお郷土の後進指導の指標として活かされている。
 一畳庵 ひたきくるかと 便りかな
庭前には佐伯巨星塔の句碑が巨星塔門下生によって建立され、一畳庵は本町俳句のメッカである。



 

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