ノスタル自慰

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。

我が街も然り。街に浮かぶ泡沫は我々であり、かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし。

「トニーの弁当屋」という長く駅前にあったホカ弁屋が閉店してしまった。泡沫のひとつがまた消えた。店主がどこの国の人だか分からないがアラブ風な人で、彼がトニーという名前なのである。

この店を最初に教えてくれたのは、隣のゲーセンに勤めていた美少女Rちゃんであった。

「ここの焼肉弁当がおいしいんだよ!」

と言う当時17才だったこの美少女を僕は大好きであった。ふたりで弁当を買い、

「ほんとだ、おいしいね」

アラビアンな店主が作る弁当はトレビアンであることよ、と一緒に食べた幾度の思い出は、中学生のデートだってもっとマシなことしているだろうに、なんとも甘酸っぱいものである。

「僕についてくればもっとええもん食べさせたるで」

僕のいつものオヤジ口調の冗談でさえRちゃんに切り出せなかったのは、僕には彼女がいて、何よりもRちゃんもベタ惚れの彼氏がいて、僕がどうこうしてもどうにもならないのは明らかだったからである。

やがて年月が過ぎ、Rちゃんはこの街を去って行った。やがて連絡も取れなくなった。やはり僕はその程度の存在だったのだろう。一方で僕の彼女だった人は嫁と名を変えて今は隣の部屋で子供達と眠っているわけだが。

Rちゃんがいなくなっても僕はトニーの焼肉弁当をたまに買った。日曜日などに嫁が昼飯を作らなくていい?と言った時にはここぞとばかりに買って来て

「これはRちゃんとの思い出の味なんだよ」

と上述のメモリーを語りながら食べたこともあった。Rちゃんへの想いが冷めぬまま、彼女の名前をそのまんま付けた娘・Rにも食べさせたりした。尤も嫁にしてみれば中身ごとゴミ箱に捨てたかったかもしれない。

僕はこのようにRちゃんとの思い出にすがり付くようにこの街に暮らしている。思い出があり過ぎて離れられないのである。僕にとってトニーの弁当屋はその記念碑のようなものである。それがまたひとつ減ってしまった。Rちゃんと過ごした日々が遠くなったことを実感し、こんな寂しいことはない。

しかし分かっていることである。去って行った人との思い出は増えることはない。それよりもずっと付いてきてくれた嫁と、あの当時では考えられなかった愛すべき娘・R(2才)と息子・タク(8ヶ月)達との思い出が今まさに作られている時であり、そのことに気付くべきだ、ということを。後ろばかり向いている夫もしくは父なぞ僕だったらいらん。

思い出は浸るものではない。作るものである。

ただ今夜だけは、寂しさに揺れる今夜だけは思い出に浸ることを許して欲しい。今いるこの部屋にもRちゃんの思い出は沢山あるのだ。デジカメで撮った写真や動画、1年間交換し続けた手紙…。

本棚を漁ったら、奥に最早存在すら忘れていた、カバーもない文庫本があった。

「絶対面白いから!」

とRちゃんが無理矢理貸してくれて、そのままろくに読まずに返しそびれた本だと思い出した。今夜このひとときだけは、甘酸っぱいノスタルジーの海に身をたゆたわせておくれ…と文庫本を開いてみた。

「もっと、オレを感じて。オレも真吾を感じたいよ…あああっ」

…ホモ小説だった。

Rちゃん…これは思い出さないほうが良かったよ…。


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