宮崎県の民家
宮崎県は温暖な気候に恵まれながら台風の通過点に位置しているためであろうか、民家の残存率は極めて低い。躯体部分は残されていたとしても屋根は瓦葺に葺き替えられている場合が多く、平家の落人集落の伝説を持ち秘境として有名な椎葉村においても、古のロマンを求めて訪ねたとしても肩透かしを喰う。県内の農家建築を知りたいならば、県立博物館付属の民家園を訪問するとよい。地方色を充分に備えた様々な民家を気軽に見ることができる。⇒民家園のページへ 町家建築としては、重要伝統的建造物群指定地区になっている美々津や日向市の細島へ行くとよい。県内は藩政期には、延岡藩、飫肥藩、高鍋藩、佐土原藩などに分かれており、小城下町をそれぞれ形成していたはずであるが、飫肥以外の町においては、ほとんど往時の姿は残されていない。 |
那須家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和31年6月28日指定) 宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良1818 建築年代/江戸時代(19世紀前半) 用途区分/山村農家(名主) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 昭和30年代の秘境ブームの一翼を担った椎葉村の中心部に所在する山村農家である。平家の落人狩のために当地にやって来た源氏方の那須大八郎と平家方の血筋を引く当家の息女・鶴富姫の悲恋の物語に絡み、一般に「鶴富屋敷」と称されている。等高線に沿うように急斜面を開削し前面に石垣を積んで造成した屋敷地に桁行25mにも及ぶ長大な主屋を構える。ウチネ・ツボネ・デイ・コザと称する部屋を並列に配置する典型的な「椎葉型」の建前で、九州で最初に重文指定された県を代表する民家である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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赤木家住宅 | 国指定重要文化財 (平成16年12月10日指定) 宮崎県児湯郡都農町川北4942 建築年代/安政3年(1856) 用途区分/本陣・山林業・廻船業 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 都農は宮崎市と日向市の中間に位置する宮崎県中部の小さな町であるが、町内に鎮座する日向国一宮の都濃神社や高級国産ワインとして著名な都農ワイナリーの名で御存知の方もいるだろう。当住宅はその市街中心部に所在する旧本陣を務めた商家建築である。街道から少し控えて建つ主屋は向かって左手が居住部、右手が本陣座敷部となる。当家が本陣職を務めた歴史は浅く、幕末に至ってからのことであるが、大正年間まで旧高鍋藩主秋月種樹公が宿泊するなど、その機能は維持されたとのことである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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吉松家住宅 | 国指定重要文化財 (平成20年12月2日指定) 宮崎県串間市大字西方5509-イ 建築年代/大正10年 用途区分/山林地主・木材販売業・衆議院議員 指定範囲/主屋・内蔵・物置・外風呂・外蔵 公開状況/公開 串間は宮崎県の最南端の町である。野生馬の生息地・都井岬がある場所と云った方が判り易いかもしれない。当住宅は串間市の中心部、市役所に隣接して建つ大規模近代和風建築である。藩政期の串間は高鍋藩の飛び地で、当家はこの地の庄屋を務めたということであるが、現在の住宅はむしろ明治・大正期の山林売買による飛躍的な富の蓄積に依るところが大きい。敷地に比して建物の造作が大きく外観は窮屈な印象であるが、内部の造作は大正期住宅建築の最高峰にと云っても過言ではないだろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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安井家住宅 | 国指定史跡 (昭和54年5月22日指定) 宮崎県宮崎郡清武町加納甲3368-1 建築年代/江戸時代 用途区分/武家 公開状況/公開 【安井息軒旧宅】 宮崎市南郊の町・清武は飫肥藩の飛地で、飫肥城下から35kmも離れていたため出先機関として地頭所が置かれ、約80軒程の武家集落が形成された場所である。藩の学問所の教授であった安井滄洲の次男として当住宅で生まれた安井息軒は江戸に学び、帰郷して藩校・振徳堂の助教となったが、再び江戸に出て昌平坂学問所の教授にまで起用された儒学者である。住宅は非常に質素なもので、安井親子の転居後、2度も移転の憂き目にあったが、息軒を顕彰するため旧地に戻され往時の風情に復された。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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児玉家住宅 | 宮崎県指定史跡 (昭和8年12月5日指定) 宮崎県延岡市北川町長井6727 建築年代/ 用途区分/農家 公開状況/公開 【西郷隆盛宿陣跡資料館】 明治10年に勃発した西南戦争において、熊本鎮台の攻防戦に敗退した薩摩軍は小林から宮崎、延岡と退転し、8月15日に延岡の和田越で政府軍に敗れることとなった。薩摩軍総大将の西郷隆盛は、北川村の当住宅に寓居し、ここで会議を開き、薩摩軍の解散を命じ、自身は九州山地突破を敢行して鹿児島に落ち延びたのである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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三輪家住宅 | 宮崎県指定史跡 (昭和11年7月17日指定) 宮崎県日向市大字細島700 建築年代/不詳 用途区分/商家(廻船問屋) 公開状況/非公開 【有栖川征討総督宮殿下御本営跡】 日向灘に面する細島は今でも重要港の位置づけであるが、藩政期においても薩摩、飫肥、佐土原など各藩の諸大名が参勤交代の折には九州からの船出地として利用するなど南九州地方の玄関口の役割を担った。明治10年の西南の役に際しても官軍総司令官であった有栖川熾仁親王殿下が薩摩軍追討のため細島に上陸、当住宅を本営とし、1ヶ月間滞在したという。当家は代々摂津屋善兵衛を名乗り、その名の通り摂津国と交易を行った回船問屋であったというが、さぞかし迷惑な話であったに違いない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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若山牧水生家 | 宮崎県指定史跡 (昭和41年9月9日指定) 宮崎県日向市東郷町坪谷字石原3 建築年代/江戸末期 用途区分/医師 残存建物/主屋 公開状況/公開 詩人・若山牧水は明治18年に医師・和歌山立蔵の長男として、当住宅で生れた。住宅は牧水の祖父・和歌山健海が建てたもので、牧水は少年時代をここで過ごした。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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河野家住宅 (河内屋) |
日向市指定文化財 (昭和56年1月20日指定) 宮崎県日向市美々津町3244 建築年代/安政2年(1855) 用途区分/商家(廻船問屋) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【日向市歴史民俗資料館】 奥椎葉を源とする耳川の河口部に形成された湊町であり、日向街道の宿駅でもあった美々津の町は藩政期には「美々津千軒」と称され大変な賑わいであったという。当住宅は八幡丸や伊勢丸などの千石船を所有し、「河内屋」の屋号で主に関西方面との交易を行い美々津の繁栄を支えた廻船問屋・河野家の住宅である。町内の標準的な商家が妻入であるのに対し、当住宅は平入とする。これは妻入の母屋に対し直角方向に表屋を構えた故で、美々津屈指の豪商に相応しい風格漂う建築である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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関本家住宅 (関本勘兵衛家) |
日向市指定文化財 (平成9年8月25日指定) 宮崎県日向市大字細島691 建築年代/明治12年(1879) 用途区分/商家(味噌・醤油製造販売) 指定範囲/主屋・附属屋2棟・土蔵 公開状況/公開 宮崎県北部地域における有数の湊町・細島に所在する商家建築である。当家は主に味噌・醤油の製造・販売を手掛け、当主は代々勘兵衛を名乗ったという。南北に細長い敷地には主屋の他、土蔵、厠、炊事場などの付属屋も残されており、主屋内部は左手に通土間を取り、右手に縦に3室設ける典型的な町家造りである。宮崎県内の町家は全体的に桟瓦葺きで軽快な建前のものが多いが、当家は大屋根のみならず庇に至るまで本瓦葺とするため重厚感に溢れ、むしろ関西地方の商家の風情である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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高鍋屋旅館 |
日向市指定文化財 (平成8年4月1日指定) 日向市指定史跡 (平成8年4月1日指定・高鍋藩御仮屋跡) 宮崎県日向市大字細島803-1 建築年代/大正10年 用途区分/商家 公開状況/公開 【細島みなと資料館】 県北の湊町・細島は江戸期においては天領地で、それゆえ九州各地の諸大名が参勤交代の際に上方への船出の地として頻繁に利用した。古い家並みに忽然と現れる木造三階建の当住宅は大正年間に建てられた旅館建築で、その主である三輪家は代々高鍋藩秋月家の御用商人であるとともに本陣を務めた。主屋の背後には昭和20年頃まで御仮屋が残っていたらしい。当住宅は唐破風の玄関が印象的な外観であるが、内部も各階に独立した客室が3部屋ずつ設けられるなど近代的な造作となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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伊東家住宅 (豫章館) |
日南市指定文化財 (昭和58年10月1日指定) 宮崎県日南市飫肥9-1-1 建築年代/明治初年 用途区分/武家(家老・600石)のちに旧藩主住居 公開状況/公開 伊東家51080石の城下町として発展した飫肥は、飫肥城の大手門付近を中心に今もなお往時の武家屋敷街の風情を色濃く感じさせてくれる場所である。当住宅は飫肥城の大手門を出たすぐ西側に所在する上級武家屋敷である。藩政期には藩主と姻戚関係にあった御三家の家老・伊東主水家が住まいし、廃藩後は城を出た藩主の別邸として利用された由緒ある住宅である。明治初年に建てられたものではあるが、主屋、門塀に至るまで全てにおいて高い格式を誇る造作となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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伊東家住宅 (伊東伝左衛門家) |
日南市指定文化財 (昭和62年11月3日指定) 宮崎県日南市飫肥4-4-1 建築年代/安政3年(1856)推定 用途区分/武家(家老分家・150石) 公開状況/公開 重伝建地区に選定される城下町・飫肥に所在する上級武家住宅である。飫肥城の大手門から西に伸びる横馬場と田ノ上八幡宮から南へ伸びる八幡馬場が交差する北西角の要衝の地に石垣を2m程の高さにまで積み上げ堅固な風情を呈する屋敷が当住宅である。当家は家老を務めた伊東祐周の次男・伝左衛門が知行100石で分家したことに始まるというが、相応の階層の武家屋敷ながら入口に表門を構えた痕跡が無いなど不思議な点もある。また主屋についても至って簡素で小規模な建築である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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山本家住宅 (山本五平家) |
日南市指定文化財 (昭和58年10月1日指定) 宮崎県日南市飫肥8-1-9(移築) 旧所在地・日南市飫肥本町4152-3 建築年代/明治3年(1870) 用途区分/山林地主 公開状況/公開 【商家資料館】 九州地区で最初に重伝建地区に選定された飫肥城下に所在する商家建築である。飫肥には数多くの武家屋敷は残るが、商家の残存率は極めて悪い。これは町の中心を通る国道の拡幅工事による影響で、当家も現在地とは反対の道路南側に所在し、解体の憂き目に遭うところであったが、辛うじて移築保存された。堂々たる土蔵造の妻入りの建物で、土間上の桁梁は巨大な飫肥杉による架構。その上に組まれた小屋束、小屋貫の巧みな意匠は、まるで北陸地方のアズマダチを想わせるものである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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山本家住宅 (山本猪平家) |
日南市指定文化財 (平成11年8月19日指定) 宮崎県日南市飫肥5-2-26 建築年代/明治40年(1907) 用途区分/商家(廻船業・山産物輸出業) 公開状況/公開 飫肥城の大手門筋の旧武家地に廻船業や山産物の輸出業で財を成した山本猪平が明治期に建てた商家建築である。商家でありながら町家型ではなく邸宅型の屋敷構えとするのは、店頭販売というスタイルを取らない商売柄ゆえであろうか。しかし何故に内陸部である飫肥城下に本宅を構えたのか不思議なところではある。住宅は純和風の建築ながら玄関や通路に洋風の意匠タイルを貼り付け、新しい時代の息吹を感じさせてくれる建物である。邸内には主屋の他、離れ屋、台所、浴室等の建物が残存している。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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海田家住宅 | 日南市指定文化財 (平成6年11月21日指定) 宮崎県日南市北郷町河原谷 建築年代/明治初期 用途区分/農家 指定範囲/ 公開状況/非公開 宮崎自動車道の田野ICから県道28号線を15kmばかり南へ下った山間部に所在する農家建築である。梅之木山、木曽山、大野山といった標高780m前後の山々に三方を囲まれ、周囲とは完全に隔絶した隠れ里のような趣である。住宅は集落の入口に近い位置にあり、町道から伸びる畦道の先に前庭を囲むように主屋と馬屋、納屋の3棟がコの字型に配される。東面する主屋は山村農家らしく壁面に板を多用し、チャノマ前に小振りながら玄関を附属させる。こうした造作は当地域に限定してみられる建前である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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黒水家住宅 | 高鍋町指定文化財 宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1390 建築年代/江戸時代(文化・文政年間) 用途区分/武家(140石・家老) 指定範囲/ 公開状況/公開 宮崎市の北方に位置する秋月家27000石の城下町・高鍋に所在する上級武家住宅である。旧城跡である舞鶴公園の北側に屋敷を構えるが、この場所は熊本県人吉へ通じる米良街道の起点となる城下における要地であった。当家は代々兵法家の家柄で140石程の知行ながら、幕末には家老職を務めたこともあったという。嘗ては主屋に別棟の台所が附属していたらしいが明治末年に取り壊されてしまったため、現在では座敷など表向きの空間が大半を占める。玄関から座敷に至る風情は実に厳かである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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阪本家住宅 | 宮崎市指定文化財 (平成12年5月23日指定) 宮崎県宮崎市佐土原町大字上田島1601-2 建築年代/明治38年 用途区分/商家(味噌・醤油醸造販売) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【商家資料館】 宮崎市の北郊・佐土原は薩摩藩・島津家の分家が支配した僅か27070石の小藩の城下町である。維新直後の明治3年に居城を5km離れた広瀬に移したため、旧城下の武家住区は早くに廃れたが、本町・新町などの商人町は宮崎町に県庁が置かれた後も県中部最大の町場として賑わい続けたという。当住宅は味噌・醤油醸造業を営んだという商家建築である。3軒分の間口を持つ大店の町家とされているが、建ちが高く、真壁造の軽快な印象の建物である。ニ階の四周に廊下を廻らせる造作は珍しい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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清水家住宅 | 綾町指定文化財 (平成4年5月19日指定) 宮崎県東諸県郡綾町大字南俣1800-19(酒仙の杜内) 旧所在地・宮崎県東諸県郡高岡町高岡本町 建築年代/江戸時代(文化・文政年間1804-1830) 用途区分/商家(焼酎醸造・販売) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【酒仙の杜内】 綾町の「酒仙の杜」という焼酎醸造元の観光施設内に所在する当住宅は、元々は隣町である高岡町の中心部に所在した商家建築である。旧屋敷は旧国道10号線沿いに約3000uの広大な敷地を有し、桁行16.7m、梁間17.9mの県下で最大規模を誇る主屋で焼酎の醸造を行っていたという。残念ながら道路の拡幅工事により現地での維持が困難となり、平成元年に当地に移築されることとなった。4間幅の通り土間や島津候を迎えたこともあるという座敷など内部も圧巻の造作であり、県下を代表する町家と云える。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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二見家住宅 | 宮崎市指定文化財 (平成16年10月13日指定) 宮崎県宮崎市高岡町内山3627 建築年代/安政2年(1855) 用途区分/武士(関所御定番) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 鹿児島と佐土原を結ぶ旧薩摩街道東目筋の藩境に所在した去川関所の御定番役を代々務めたという武家住宅である。屋敷は国道10号線から外れた谷筋のやや奥まった場所にあるが、実は当地から境川沿いに田野へ抜ける当家前の道が旧薩摩街道であったらしい。建物は安政2年築の座敷棟と明治28年築の居室棟から成り、分棟型に分類される。座敷は破風付の式台玄関に床を高く上げて上段とする三の間、次の間、本座敷が矩折れ状に配置される。鄙びた場所にありながら驚く程に格式高い住宅である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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後藤家住宅 | 都城市指定史跡 登録有形文化財 (平成19年7月31日登録) 宮崎県都城市高城町高城2857> 建築年代/明治33年(1900) 用途区分/商家(生糸・醤油醸造販売) 登録範囲/本館・石塀 公開状況/公開 【高城旧後藤家商家交流資料館】 高城町は都城市中心部から国道10号線を宮崎方面に12kmほど北上した郊外に所在する町である。藩政期には薩摩街道の宿駅であるとともに薩摩藩の外城が置かれた場所でもあった。当住宅は町の中心部に所在し、かつては薩摩街道であった旧国道10号線に北面して建つ商家建築である。当家は日向の山林王とも称された後藤本家の分家筋に当り、自身も大地主であるとともに養蚕や醤油醸造等も手掛けた。近在に稀に見る大型の町家建築で1、2階とも部屋の四周に縁側を廻らす特異な間取りである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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河野家住宅 | 登録有形文化財 宮崎県日南市油津1-9-3 江戸時代、宮崎県南部一帯は飫肥藩の統治下にあり、城下は内陸に入った山間部にあった。江戸時代も半ばを過ぎてようやく商品経済の波がこの辺境の地にも訪れることとなり、後に藩財政を支えた重要産品である飫肥杉などの船積基地として栄えたのが外海に面し交易に便利な油津の町であった。飫肥とは城下を横切る広渡川により結ばれた位置にあり明治時代に至るまで宮崎南部地域最大の湊町として重要な役割を果たすこととなった。 現代に至り国内産の杉が住宅建築用材としてあまり省みられなくなると、当然のことながら油津の港としての機能は寂れ、今や過去の町として静かに横たわっている。 当家は往時の油津の中心地に所在し、代表的な町家として文化財に登録された。屋敷の背面には大正期に建設された赤煉瓦造りの水運倉庫が残されており、こちらも登録されている。 建物は主に居室棟・座敷棟・炊事棟の3棟から構成されており、後から増築された二階建ての座敷棟のおかげで瀟洒な雰囲気を醸している。 ただ主をなくした現在は、地理的条件から風雨の被害を受け、屋根には雨漏り防止のためのビニールシートが被さられ何年も放置されたままである。訪れるたびに建物の朽ち様はひどくなっているようだ。何のために文化財登録制度があるのであろうか。 |
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杉村家住宅 | 登録有形文化財 (平成10年10月9日登録) 宮崎県日南市油津1-6-12 建築年代/昭和7年(1932) 用途区分/商家(金物販売) 登録範囲/主屋・倉庫 公開状況/非公開(店舗として営業中) 藩政期における県南の中心地は伊東家51080石の城下町・飫肥であったが、藩の経済を支えた飫肥杉の積出湊として栄えた町が城下と河川で繋がる油津であった。当住宅は油津港の手前に拡がる旧市街地に所在する商家建築で、明治25年に創業し、主に船具や漁具を扱ったという老舗金物店である。木造三階建の主屋は外壁を銅板張りとし縦窓を配する特徴的な意匠で、町を縦貫する大通り沿いにあるためランドマーク的な存在となっている。主屋の西側には大正9年(1920)築の煉瓦造倉庫が附属する。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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高橋家住宅 | 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録) 宮崎県日南市飫肥5-4077 建築年代/明治中期 用途区分/実業家・貴族院議員 登録範囲/主屋・西蔵・東蔵・納屋・離れ及び台所 公開状況/公開 重伝建地区に選定される飫肥城下に所在する商家建築である。町を東西に横断する本町通に面する当住宅は商家でありながら門塀を構える邸宅型の屋敷の様相を呈しており、訝しく思う方も多いに違いない。これは昭和50年代の道路拡幅工事により屋敷前面部を失ってしまった故で、主屋の東南にあった店屋や玄関前の腕木門は取り除かれ、町家らしさを完全に失うことになってしまった。しかし現存する主屋の非常に丁寧な造作を見ていると、この建物だけでも残されて良かったと心底思う次第である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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伊東家別邸 | 登録有形文化財 (平成18年3月27日登録) 宮崎県日南市風田3585 建築年代/元治元年(1864) 用途区分/武家 公開状況/福祉施設建物として使用中 戦前は飫肥杉の積出港として、戦後はまぐろ漁港として活況を呈した油津の町から国道220号線を3km程北上した国道脇に「つよし学園」という福祉施設がある。当建物はその施設の敷地内に所在する武家住宅である。そもそもは第13代飫肥藩主であった伊東祐相が幕末に建てた別荘建築で、明治年間に豪商・川越家が譲り受け移築、さらに昭和42年に現在地に再移築されたということである。内部は施設の食堂として利用しているため若干の改造もみられるが、二間続きの座敷は旧態を留めている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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都城島津家住宅 | 都城市指定文化財 登録有形文化財 (平成20年4月18日登録) 宮崎県都城市早鈴町4104-2 建築年代/昭和10年(1935) 用途区分/旧領主本宅 指定範囲/主屋・石蔵・内蔵・離れ・外蔵・社・御門・剣道場 公開状況/公開 都城市の市役所に東方に所在する旧領主の邸宅である。現在、宮崎県に属する都城市は、江戸期においては薩摩藩領であり、藩最大の私領地として都城島津家(北郷家)35650石の支配下にあった。まさに大名並の所領を有していたわけで、維新以後においても領主家はは島津家の家臣ながら男爵に叙されている。住宅は昭和10年の建築で、以後も昭和天皇の御来駕もあったため度々改築されている。民家としての価値よりも天皇陛下を私邸に迎えるということが、どれほど大変な事であったかに興味する。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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矢野家住宅 | 無指定・公開 宮崎県日向市美々津町3328 建築年代/明治17年頃 用途区分/商家(味噌・醤油醸造業) 公開状況/公開 【美々津軒】 |
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近藤家住宅 | 無指定・公開 宮崎県日向市美々津町3331 建築年代/ 用途区分/商家(呉服問屋) 公開状況/公開 【まちなみセンター】 |
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小村寿太郎生家 | 無指定・公開 宮崎県日南市飫肥4-8259-1 建築年代/ 用途区分/武家 残存建物/主屋 公開状況/公開 明治時代を代表する外交官・小村寿太郎の生家である。寿太郎は幕末の徳川政権時代に欧米各国と締結した不平等条約の改正に尽力した人物として知られるが、小村家は飫肥藩の僅か18石取りの下級武士で、飫肥城下の商人町・本町に屋敷を構え、町の庄屋職に相当する町別当職を務めた家柄である。寿太郎は現在の東京大学である大学南校に進学、第1回文部省留学生としてハーバード大学法学部に留学、帰国後は外務省に入省。外務次官、駐米公使、駐露公使、駐清公使、外務大臣を歴任。寿太郎が外務省の一職員であった明治19年(1886)に小村家は破産し、当生家は藩校・振徳堂の裏に移築されていたが、大正10年(1921)に現在地に再移築され、現在に至る。平成16年に空き家となり老朽化が進んだため、日南市が改修整備し公開に至ったものである。 |