宮崎民家園
宮崎県宮崎市神宮2-4-4

     
藤田家住宅 国指定重要文化財
旧所在地・宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ケ所
建築年代/天明7年(1787)
用途区分/山村農家
宮崎市の中心部に県立博物館の付属施設として移築・保存されている民家である。
外観的には小振りながら均整のとれた美しい姿をしているが、軒が深く外周に軒柱が一間等間隔に密に並ぶ姿から一見して古い民家であることが想像できる。
しかし建築時期は移築解体時に発見された間仕切柱の刻銘によって1787年と推定されており、その古びた姿から想像されるほど古いものではない。中央から遠く離れた九州の中でも鄙びた山間部に所在していた民家ゆえに後進的な造作が残されたと解釈するのが妥当なところであろうか。(当家は県内最古の民家ではある)
ところで当家は建築年代の事以外にも非常に面白い要素がある。それは驚くべきことに建物内部の空間に土間が存在しないことである。近世の民家において「土間しかない」という家はあったとしても、「土間がない」という家は聞いたことがない。確かに山間部の民家で土間が極端に狭い例は多々見受けられるところではあるが、全く無いという例は極めて珍しいのではないだろうか。内部は板床の「オモテ」「ヘンヤ」の2部屋から構成されるのみである。想像を廻らせると別棟で土間のある炊事棟が建っていたことも考えられるが、移築前の段階では確認できなかったようである。鄙びた山間部に所在しただけに、こうした姿の民家があったとしてもおかしくないと思わせる背景が混迷の度合いを深めるのである。
 
清田家住宅 宮崎県指定文化財
旧所在地・宮崎県東臼杵郡椎葉村大字不土野
建築年代/元治元年(1864)
用途区分/山村農家
当家も県立博物館の付属施設として移築・保存されている民家である。そもそもは宮崎県北西部の椎葉村に所在していたもので、冒頭で紹介している国指定の那須家住宅と比較的近い場所にあったということになる。規模の相違はあるものの基本的には並列型と呼ばれる同じ形式の住宅で、内部はオモテ側に縁を設けオク側に部屋を一列に並べるという独特の間取り形式である。
ところで宮崎県の北西部は天孫降臨の地として有名な高千穂峡などがある場所として「神々の里」などとも紹介される太古のロマン溢れる地域であるが、実際に昭和の中頃までは周囲には当家のような民家が多数残り、こうした神秘的な雰囲気に少なからず寄与していたようである。神社建築の屋根の棟に見られる千木の原形は当地域の民家の棟押えの手法にあるという説など実しやかに云われ、「神々しさ」に彩りを添える役割を果たしたこともあった。
しかし残念なことに、現在ではこうした古い民家は建替えられるか、あるいは屋根が葺き替えられるかするなど往時の面影を殆ど残してはいない。一昔前までは日本人の源を辿りたいという思いに駆られこの地を旅した方も居られたことであろうが、今やそうしたロマンは現地には既に無く、観光ツアーのパンフレットにのみ言葉が踊っているだけである。源を失くした日本人がどこへ漂流していくのかさえも考えることはない。
 
黒木家住宅 宮崎県指定文化財
旧所在地・宮崎県児湯郡西米良村竹原
建築年代/不詳
用途区分/





 

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