新潟中越地震〜親族の無事を確認できた〜

このところ揺れまくっている新潟。
震源地近くに父の兄弟が住んでいるのだ。

父が死んでからは僕の結婚式に来てくれたのと、
年賀状のやりとりぐらいの付合いしかなかったが、電話が
繋がり出してから連絡を取ってみた。

幸いなことに無事だとのこと。怪我や家の破損もない。

ただ父の長兄にあたる家が断水したままだという。情報網も
交通網も不安定な中、僕がやれることなど分かったものではないが

「何か出来ることがあれば…不足している物ありませんか」

と言ったところ

「連絡くれてありがとう。そっちも揺れたんじゃないのかい。
 Rちゃん(僕の1才の娘)は大丈夫かい」

などと逆にこちらにも気を配ってくれた。ひとまず水は自衛隊が
配給して回っているらしい。それでも給水やトイレなどは大変
だろうし、肉体的・精神的疲労は計り知れないものがあろうが、
ライフラインが仮にでも復旧しているので、ひとまずは安心して
良いだろうと思った。

「ありがとうね。ウチは大丈夫よ。電話くれて本当にありがとうね」

ひときわ感激されてしまったのが柏崎の叔母だった。父の兄弟は7人いて
その末っ子にあたる人。父は6番目だ。電話をかけただけなのに
どうしてこうも感謝されるのだろうと思っていたら、やがて実家の
母から電話があった。

「柏崎の叔母さんがね、泣きながらお礼の電話をくれたんだよ。
 お前の声が兄さん(僕の父のこと)にそっくりだったって」
 
「それはまた…。でも僕はあんな皺枯れた声じゃない!(そういう声
 だったのである)」

「そうだけどさ、叔母さん、お父さんに一番可愛がられてたから
 そう感じちゃうんだよきっと…。嬉しかったって言ってたよ」

柏崎の叔母は、兄弟の中で一番年が近い僕の父を一番慕い、
頼りにしていたという。父も妹思いで、何かと世話をしていたんだ
そうだ。父が死んだ時、感極まった叔母が

「いつでもオレを頼れ、って言ってたくせに、
 先に行っちゃったら何の意味もないじゃないの…」

そう声を絞り上げて泣いていたのを覚えている。きっと今でも
心の支えになっているであろう、僕の父を思い出してしまう
ということは、やはり心身共に相当疲れがあるのだろう。

被災地の方に心からお見舞い申し上げます。

このことを踏んで僕も覚悟すべきことである、と思ったことは、
もしこの東京がこのような被害を受けた時、僕は全力で嫁と
Rを守らなければならない、

このことであった。

世帯主とはそういうことであることよ、と災害から改めて
学んだ僕であった。

対岸のかじりん。
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