生死についてと妻子について。

お通夜から帰った夜、

「嫁ー。塩撒いてたもー」

既に寝ていた嫁を玄関先から呼ぶと、
嫁は水戸泉並みの勢いでばっさばっさと撒いてくれた。

仕事上の義理で行った通夜なので、はっきり言って
涙が出るほど悲しくもないのだが、それでも人の生死について
ふと考えたくなる機会ではある。

斎場で圧し掛かっていた「死」の重圧を祓うには…
塩よりも、新しくて出来立ての「生」を見ればよい。

娘・R(9ヶ月)が「ぷしゅー」と寝息を立てているのだ。
なんと瑞々しい。可愛い。ぷにぷにしたい。
(でもぷにぷにすると起きてしまうので我慢する)

人間は「死」には勝てないが新しい「生」を作ることが出来る。
僕は僕の「生」の一部を嫁に提供し、Rが産まれた。
「死」が重い分、「生」はもっと輝かしくて重い。
父親になってそれが分かった。そして僕はもっと「生」に囲まれたく思う。

で、囲まれつついずれ死ぬる。それがいい。

だから死ぬるまでに僕はもっと「生」であり「精」を
嫁に注ぎ込む。それが死すべき生ける者としての証なのだ。

生死について考えることは精子について考えることであった。
(単なる「種まき本能」とか言わないこと)

そう考えがまとまったところで、では、早速嫁に…。

「嫁ー。潮吹いてたもー」

「はあ?何言ってるの?」

やはり不謹慎であったようである。
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