6周年ありがとうございます企画部屋

長政さまが 市に ささげる(ばさら)


「長政様」


妻は書き物をしていた夫の背後に音もなく近寄り、その名を呼んだ。その表情は普段になく真剣で、足取りも何処か重かったのが鈍さ極まりない夫はそれに気がつかなかった。



「何だ、市!下らんことならあとでにしろ!」

「長政様、市の話、聞いて」

「だから、私は聞く気はないと」

「話、聞いて…!」

「わ、わかった。わかったからそいつらには元の居場所にお帰りいただけ!」



よかった、長政様がこっちを見てくれたと彼女は薄っすらと満足げな微笑を浮かべた。暗い深いこの世ではないところからやってきた数々の腕に囲まれて不気味にぼんやりと浮かぶその表情は彼女を崇拝する浅井軍の兵たちでさえうわあと仰け反るほどおっかないものであったのだが、夫にしてみれば見慣れたもの、ええい鬱陶しい早く用件を言えと嫌そうに顔をしかめるだけに留まった。彼としてもこの全く持って下らない言い合いには終止符を叩きつけ、書き物に集中したいのである。下らぬ話で時間を潰されるなど悪以外のなにものでもない、と彼の偏りまくった正義を燃え盛らせていると、ようやくお友達にお帰りいただいた妻はぺたりと床に座り込んだまま夫を見上げた。



「長政様…市ははっきりさせたいと思うの…」

「その前に貴様が喋り方をはっきりしろ」

「それはむり」

「諦めるな!諦めるのは悪だ!」

「…じゃああきらめない」

「その心意気はよし!なんだ!」

「長政様は、市に何をして欲しいの…?」

「なに?」

「長政様はいつもいつも自分のことは自分でしてしまうし…つまはおっとをたてるべき、っていつもいつもおっしゃるのに、市にはなにもさせてくれないでしょう…」



だって朝一番に起きてすぐに着替えてご飯を用意して食べて鍛錬してお仕事して、お昼ご飯を食べてお仕事して、帰ってきてやっぱりお仕事して、鎧と刀を磨いてお休みになっちゃうでしょう。その間市は長政様の後ろにいるだけでなにもしていないわ。ご飯も着替えも長政様が用意しちゃうしお茶を入れようとしたらまずいからって嫌がるしお仕事お手伝いしようとしても邪魔だっておっしゃるし、戦のときもついてくるなとどなられるし、市はどうすればいいの。

淡々と目だけが恨みがましいじっとりとした視線を送りながら訴える妻に、夫は思わず言葉を失った。何だ、何がいけないのか。

幼いころからの姫様暮らしで働いたことなどないだろう妻に比べ、幸い自分は何でも自分でやらなくては気がすまない性分であるから働き続けることに抵抗はない。怠惰は罪、勤勉は正義である。つまり、なんだかんだ言いつつ彼は妻を愛しているのである(それを自覚しないのは本人とその妻だけである)。


彼は彼女に苦労がないようやってきたつもりであった。食べるものも着るものも自分で決定すべきであり、茶などよりこの季節水のほうがうまいのであり、自分の仕事を人に押し付けるなど人として悪であり

なにより戦のときに彼女がつまらない怪我をするなど彼の矜持が許さない。




夫はしばらくなんと言っていいものか悩んだが、途中で馬鹿らしくなって思考を止めた。何をして欲しいだと?馬鹿な、決まっているではないか。
夫は突然立ち上がり、妻に向かって宣言した。


「貴様がしたいようにしればいいではないか!人に何を言われても自分が信じる道を進むのが正義である!私に何を言われても自分のしたいことを貫き通して見せろ!」










偶然城に遊びに来ていた自称愛と友情と喧嘩の風雲児前田慶次にことの次第をぽつりとこぼしたところ、あっははははお市ちゃんそれはなんだよそれあんたたちどれだけお似合いなのいやあ熱いねにくいねいやあ結構結構大変結構とにやにや笑った。
それはねえお市ちゃん、愛だよ愛。愛されまくっちゃってるのよ、うん、それは俺が保障する。と胸を力強く叩かれるまでに至り、彼女はそういうものなのかしら、と小首をかしげた。その後やりたいようにやれといわれたのでとりあえずお茶を出したら余計なことをするだのなんだのやっぱり叱られたんだけど。あとで湯飲みだけ片付けにいったら中はからっぽだったけど。
市の呟きに、慶次は今度こそにやにや笑いどころか爆笑を抑えることができなかった。なんて素直じゃないのあいつってば!





ツンデレのきわみ長政氏とにぶさ炸裂市のとんでも夫婦でした(笑)
市は前田夫婦のことを勉強と称して観察すればいいです(笑)。

あだしっちさん
リクエストありがとうございました!

もどる

Dramatic Irony