先週の日曜日。実家からの帰り道、神保町で途中下車した。目的は古本まつり。
すずらん通りにはずらりと古書店が店を並べている。ところが、ひどい混みようで露店の前までたどり着けない。最近、ネットで古書を買ったばかりだったこともあり、露店を物色することはあきらめた。
もう一つ、すずらん通りに行く目的があった。それは男性ファッション誌『MEN'S CLUB』を探すこと。探すのは大学生だった80年代。当時はほぼ毎月買っていたのに、いつの間にかすべて処分していた。洋服に、それもアメリカン・トラッドに興味を持ちはじめた頃の雑誌をもう一度見てみたい。最近、新しいブレザーを買ったので、ふとそう思った。
ネットで調べると、magnifという書店がファッション関係の古雑誌を扱っているらしい。店はすずらん通りにある。そこで今回訪ねてみた。
期待どおり、70年代以降の『MEN'S CLUB』がたくさんあった。背表紙の特集名を見て、「トラッドの完璧コーディネイト・ガイド」が特集になっている1987年1月号を購入した。
何といっても最近の「MEN'S CLUB」とは違い、かなり分厚い。
いまはもうない伊勢丹オリジナル・ブランドのIVY LEAGUEや銀座にあったTEIJIN MEN'S SHOP、渋谷にあったUNIVERSITY SHOPがなつかしい。
「彼女とのドライブのためにカセットテープを編集しよう」なんて記事もある。まだプレイリストという言葉はなかったことに気づかされる。
まだクラシコ・イタリアが流行する前で、掲載されている商品も極端に高価なものはない。80年代のメンクラはそこそこ実用的だった。
当時は2月号と11月号でアイビー・ファッションを特集していた。次回はアイビー特集号を探してみる。
さくいん:80年代
新しいブレザー
今春、娘が大学院修士課程を修了して、一人暮らしをはじめた。私たち夫婦は、ひとまず子育てを終えた。
慰労を兼ねて何か記念品を買おうと妻と話し合った。
私は長年欲しかったネイビー・ブレザーを買うことにした。
ちょうどいつも服を買う店でパーソナル・オーダーのキャンペーンをしていたので、先月の中旬、注文をした。
オーダーといっても採寸からするフル・オーダーではない。基本デザインとサイズは既製服から選ぶ。注文できるのは、ポケットやボタンなどのディテール。
三つボタン中一つ掛け、パッチポケット、センターベント、シルバーのボタン。これが私のオーダー。アメリカン・トラッドの古典的なディテール。ボタンだけが王道とは違う。
ふつうならボタンは金色。今回選んだのは銀色。
金ボタンのブレザーはすでにたくさん持っている。薄手の真夏用が1着、フラノ地の冬用が1着、3シーズン用が2着、3シーズンのダブルが1着。
船旅のために買った真夏用以外はどれも20年以上前に買ったもの。一番古いものは、高校二年生のときに買ったもの。40年近く着ている。金ボタンは目立ちすぎることがあるので、今回は銀を選んだ。
ところで、妻はまだ記念品を何にするかを決めていない。時間をかけて欲しいものを探す。それも買い物の楽しみというもの。
第七部の表紙に掲げたエピグラフを、紀貫之の短歌から「Lemon」(米津玄師)の一節に変更した。
この曲が発表されてからすでに5年が経つ。知らなかったわけではないけれど、歌詞に注目して聴くようになったのはごく最近。
大切な人との死別の悲しみ、いわゆるグリーフ(悲嘆)を表現している歌と気づいた。
歌詞の言葉、一つ一つが私が抱えている悲嘆に重なる。
切り分けた果実の片方のように
今でもあなたはわたしの光
5年前に聴いても、この言葉が心に響くことはなかっただろう。私の人生に暗い影を落とす存在と思っていたから。
自分が思うよりも彼女に恋をして憧れていたということも、まさにその通りと思う。
グリーフケアのカウンセリングを受けたときに言われた。
夢枕に立つことだけがスピリチュアルではない。姉の姿を追いかけて生きてきたことも十分にスピリチュアルと言えるではないか。
確かに。私はを光を追い求めるように姉の後ろ姿を追いかけて生きてきた。彼女が通った英語学校に通い、彼女が卒業できなかった大学の大学院を修了した。
彼女はいつまでも「私の光」であり続けるだろう、2月に咲く梅の花の香りとともに。その思いを込めて、エピグラフに掲げることにした。
この曲のMVが、私が結婚式を挙げた教会で撮影されたことにも縁を感じる。
さくいん:紀貫之、米津玄師、悲嘆(グリーフ)、自死遺族
『百年の愚行』という本を読んだことがある。そのときは内容に圧倒されて短い感想しか書けなかった。
本書は世界中にある人類の愚行や負の遺産を紹介する図鑑。戦地、刑務所、虐殺があった場所、大災害の起きた場所、などなど。その数の多さに驚く。
日本からは広島と長崎、沖縄の資料館のほか、大川小学校、福島原発、靖国神社と遊就館などが紹介されている。
私が行ったことのある場所は広島、長崎、沖縄のほか、南京大虐殺記念館、アルカトラズ島の刑務所跡、アンネ・フランクの家。とくに南京の記念館には、凄惨な写真が多くあったことを覚えている。
著者はウェブサイトでも、ダーク・ツーリズム(負の遺産への旅)の情報を発信している。
つい最近ではウクライナのブチャで虐殺があった。そして今、パレスチナでは国際法も人道的な道義も破られて、歴史的な蛮行が進行している。
「悲劇の記憶」が増えていくことは本当に悲しい。
さくいん:広島、長崎、中国
先週の金曜日。せっかくの3連休なので、朝早くから家を出た。毎年紅葉がきれいな公園を歩いたけれど、葉はまだ夏のように鮮やかな緑色。実際、夏日のような気温が続いている。紅葉するまでにはまだ数週間はかかるだろう。
まず、吉祥寺まで歩いてビルのなかにある美術館に入った。吉祥寺に縁のある二人の画家の展覧会。江藤は繊細で、大津は重厚な雰囲気がある。どちらも色使いはやさしい。写真は、江藤の「富士山」。
江藤が描いた1920年代の「落合風景」はまったくの田園風景。落合がこれならば吉祥寺はさらに田舎だっただろう。
吉祥寺はすっかり都会になったけれど、二人が描いている成蹊大学のけやき並木だけは今も面影をとどめている。
大津の「香春岳」という22 x 15センチという小さな作品が気に入った。
小さな画面にさまざまな色調の緑が使われていて、山のふもとの田畑から山頂までを描き分けている。
常設の浜口陽三室では、シルクスクリーンの作品を初めて見た。数の多い黒地のメゾチント作品とは違い、鮮やかな色使いがまぶしいくらい。
吉祥寺で美術館を見たあと中央線に乗り東京まで出た。ランチは、丸ビルにあるハワイのハンバーガー店、KUA 'AINA。
期間限定のメニュー、「厚切りコルビージャックチーズバーガー」とビールを頼んだ。提供されるときは開いていて、自分で完成させる。3枚目の写真は公式HPから。
パティが直焼きで香ばしい。ワンランク上のバーガーキングという感じ。おいしかった。
フライドポテトはちょっと細すぎ。
食後、新しいキーケースをさがしてウィンドーショッピングをしてから、丸の内駅舎がよく見える大きな窓のある休憩コーナーで一休み。
丸ビルを出て中通りを南に向かって歩き出した。
金曜日に外出した一番の目的はこれ。出光美術館での青磁展。
これだけ青磁ばかりを集めた展覧会も珍しい。とにかく数の多さに圧倒される。
出光美術館所蔵品以外にも根津美術館やトーハクのものも展示されている。
青磁の魅力は何といってもその色合い。青とも水色とも言えない淡い色調に魅了される。
私が好きなのは、耳付きの花瓶「青磁鳳凰耳瓶」。以前トーハクで見た。今回、2点、展示されていた。
ビアタンブラーのような形状の大内筒もよかった。根津美術館の所蔵品。
展示の最後は板谷波山が中国青磁を研究して創った現代の青磁。
前回の回顧展では展示されていなかった青磁茶碗。ふくらみのある形状も透き通った色もとてもよかった。
さくいん:出光美術館、板谷波山
先週の土曜日。母の米寿を横浜中華街で祝った。場所は萬珍楼。個室にしてもらったのでゆっくり過ごすことができた。
子も孫も転勤することなく首都圏に住んでいるので、全員が集まった。母は何度も「近くでよかった」と言っていた。自分は釧路にいた母方の祖母には、三回くらいしか会ったことがなかったらしい。
料理も申し分ない。奇を衒ったところはない王道の中華料理。前菜、スープ、エビとイカ、豚肉、ホタテ貝、炒飯。デザートに杏仁豆腐。どの皿もおいしかった。
お祝いと伝えてあったので桃まんじゅうが最後に出てきた。これもおいしかった。
満腹になり、店の外へ出ると観光客で大混雑。週末の中華街は吉祥寺以上の混雑だった。
脇道で出て、山下公園まで歩いた。快晴で、ベイブリッジもよく見えた。でも、この日は散歩してまわるには暑過ぎた。秋のばらが満開の頃だったけど、それもあきらめた。
バスで横浜駅へ出て解散した。
自分用の土産に、食材店でピータンを4個買った。1個70円だった。
さくいん:横浜
月曜日。急にくしゃみと鼻水が止まらなくなった。
どうやら連休中の寒暖差にやられて風邪を引いてしまったらしい。
月曜日の夜は風呂にも入らず、9時前には寝た。
たっぷり寝たので、翌朝にはだいぶ回復した。
まだのどの痛みは残っていたけど、休むほどではないので、在宅での勤務はした。
夏は熱中症にも夏風邪にもならずに乗り越えたのに、秋めいてきた途端、体調を崩した。
11月というのに記録的な暑さ。かと思えば、朝夕は秋らしい涼しさ。困る。
紅葉の見頃はいつだろう。去年は12月中旬だった。今年はもっと遅いかもしれない。
水曜日。リモートで上司と面談をした。カメラはオフにして音声だけで会話。
話の中身はほとんど業務について。体調やうつ病の症状については訊かれなかった。
上司といっても10歳くらい若い人。うつ病の中年の面倒を見るのはそれこそ面倒だろう。
会社はどう考えているのか。入社してから一年経ってから所属部門、人事部、それから就労移行支援事業所とで定着について会議をしてもらった。それ以来、人事部とのつながりは、まったくない。障害者の定着についてどう考えているのか。放置しているのが実態。
障害者枠で入社している人たちで茶話会などを開いても良さそうなのに。
年齢からいっても、いまの業務負荷の状態からみても、昇給が望めないことは十分わかっている。だからこそ、モチベーションを維持するための働きかけが必要ではないか。
私は必要としている。保護される立場が放置されているのは納得がいかない。
もっとも、放置されてありがたい面もある。「暇を持て余していないか」というツッコミも上司からはなかったし、もっと出社してくださいという指示もなかった。
さくいん:労働、うつ病
今週は睡眠が不安定。100%熟睡できたかと思えば、4時前に目が覚める日もある。
金曜日の朝、5時過ぎ。横になっていても眠れそうにないので起き上がった。
風邪気味のせいか。季節の変わり目だからか。
うつが重かったときのように、いくら寝ても眠った気がしないということはない。
あの頃は辛かった。目を閉じた途端、一睡もしないまま朝が来たような感じだった。
今は短くても深く眠れている実感がある。
その点では、だいぶ回復していると思う。
妻が起きるまで、1月のコンサートに備えて、ビリー・ジョエルを聴きながら、これまでに書いた文章を読み返しては推敲と校正をした。
誰も読まなくても構わない。私、という読者がいるかぎり、私は書き続ける。
回復はしていると実感する一方で、矛盾も感じている。矛盾を感じているのは、障害者でいつづけることについて。
土曜日。1ヶ月ぶりの診察。年末で障害者手帳の有効期限が切れるので、更新申請のために診断書を作成してもらった。
障害者であることに、ときどき不満を感じる。
もうだいぶ寛解に近づいているのではないか
6年前ならともかく、私程度の症状で障害者認定されるのだろうか
障害者枠で再就職した以上、雇用を継続してもらうためには障害者であり続けないといけない。
実質的には寛解していても、65歳までは障害者であり続けることに矛盾を感じる。
非正規の契約社員では、昇給もキャリアプランもない。モチベーションもまったくない。
S先生は、以前より回復していることは認めつつも医師という立場を崩さなかった。
いま障害者枠の外に出て、前のように働くと前のような症状が戻るかもしれない
その通り。もう30代後半の頃のようには働けない。自分が一番わかっている。
だから結論はいつも同じところへたどりつく。今のままが一番いい。
さくいん:うつ病、、ビリー・ジェエル、S先生
土曜日に妻と観た。
大きなアップダウンやミステリー要素もないけど、それだけ安心して見ていられるほのぼのしたストーリー。
冒頭の場面が最後の場面の伏線になっていたところが面白かった。司朗の心境の変化が、態度にも現れてくるところも面白い。
シーズン1を見始めたときには、真面目な弁護士という役柄が『ドライブ・マイ・カー』で演じた、自他に厳しい演出家とかぶっている気がしていたけれど、だんだん性格が丸くなり、劇場版では物腰柔らかなおじさんになっていた。
正直にいうと、これまで同性愛者というと不特定多数の人と交際するという偏見を持っていた。この作品を通じて、いわゆるステディな関係を大切にしている人がいることを知った。
前にも書いた通り、子どもが巣立ち、二人暮らしをしているところは私たち夫婦と同じ。相手を気遣い、楽しく暮らすヒントがたくさん詰まった作品だった。
鑑賞後、料理はもちろん、衣装やロケ地など、話が弾んだ。
これから撮りためているセカンドシーズンを二人で観る。
日曜日。前触れもなく、突然、冬がやってきた。寒い。
風邪もまだ完全に治ったわけではないので、家でおとなしくしていた。
妻は昼過ぎにスポーツジムに行く予定にしていたので、一緒に家を出た。
いつものそば屋で、熱々の鍋焼きうどんを食べた。この店に来るのは、8月のブルーベリー狩りのとき以来。
家に帰っても寒い。暖房をつけて、去年のクリスマスに妻がくれた電気毛布を膝にかけた。
10日前、中華街へ行ったときは暑かった。ほんとうにこの頃の気候はどうかしている。
治りかけの風邪がぶり返しそうな異常な気候の変化に戸惑っている。
11月12日はミヒャエル・エンデの誕生日だった。
それを伝える岩波書店のポストを引用してポストした。
『モモ』が世界で一番読まれている国が世界で一番「過労死」が多いというのは皮肉にしては悲しすぎる。
この短いツィートには意外に反応があった。10件の「いいね」と4件のRT。記録として、ここに書き残しておく。ツィートの埋め込みができなくなったので、元のツィートを掲載することはできない。
『モモ』は中学生のときに読んだ。先に『はてしない物語』を読んでよかったので、続けて同じ作家の本を手に取った。まだ日本の近代文学を濫読する前のこと。
滅多に行かない図書室で借りたのでよく覚えている。
大学時代、辞書を片手に原書を斜め読みした。日本語版は再読していない。
再読はしていないけど、この本が私に与えた影響は小さくない。後々になって、残業嫌い、会社嫌いになった遠因はこの本にあると思う。
「自分の時間を大切にする」という理想は現実の前では無力で、結局、身も心も壊してしまった。
さくいん:ミヒャエル・エンデ
更新手続き
障害者手帳を更新するために申請書と診断書を持って保健センターへ行ってきた。
こういう事務手続きが私はとても苦手。申請用紙に記入欄が多いと、それだけで胸がドキドキする。
営業職をしているときからそうだった。見積書の作成や、顧客から依頼された企業情報の調査票など、事務手続きの業務はどれも苦手だった。いつも記入漏れや数字の間違いをしてしまうから。
先週も、年末調整のための申告を妻に手伝ってもらったばかり。
係の人が書類を確認しているあいだも、不備を指摘されるかもしれないと心配だった。
申請時の持ち物も気を遣う。保険証と使用中の手帳は持っていった。マイナンバーカードは持っていかなかった。係の人に書類を渡すとき「マイナンバーカードは?」と訊かれるのではないかと思い、入口で引き返すか、しばらく考えた。
結局、マイナンバーカードはいらなかった。今回の事務手続きは、私にしては珍しく、ミスなくできた。
ホッとしたので、帰りにコンビニで菓子パンを買い、帰宅してから昼食にした。
緊張する→ホッとする→酒や甘いものを摂取する。いつものよくないパターン。
夜、寝るときにときどき聴いている教会の説教。ある日、森有正の講演集から彼の言葉が引用されていた。引用されていた言葉は「冒険」。
講演集の書名で検索したところ、ネット古書店で安く販売されていたので、さっそく購入して読んでみた。
印象に残ったのは、説教でも引用されていた「冒険と方向」という講演。「人生は冒険である」と冒頭で述べたあと、彼は「冒険」を次のように定義する。
ある出来事として、起こってこようとしている場合に、またそういうものが起こってきた場合に、その中にあえて入り込んで行くこと、また入り込んで行くことによって、実は私どもに実際にそういうものが起こってくるのだ。ただ外側かわ起こってくるのではなくて、私どもがその中に、入りこむことによってその起こっていることが私どもの心の中の事件としての意味をもってくる。こういうすべての含みを冒険という言葉は持っていると思うのです。(2 人生は一つの冒険である)
注意したいのは、何か目標を立てて、険しい道を進んで行くという主体的な意味ではなく、何かが自分に降りかかってくるという受動的な意味で、「冒険」という言葉を使っている点。これは新鮮な視点だった。
「目標を立てよ」「計画的に事を進めよ」。世の中に流布している処世訓は、そのように人をかきたてることが多い。そういう生き方が「前向き」であると、私も思っていた。
そうではない。思いがけなく起きた事件に自ら積極的に関わっていくことこそ人生の本質。これは「後ろ向き」でも消極的な生き方でもない、と私は思う。
これは、実際に「思いがけない事件」が人生のなかで起きた人にしか伝わらないことかもしれない。言葉を換えれば、「人生はままならないもの」と考えている人には、しっくりくる言葉ではないだろうか。
思いがけない事件に積極的に関わり、道を切り拓いて行く。その姿勢を「勇気」と呼ぶのではないか。「勇気」という言葉も森は頻繁に使う。
ままならない人生を主体的に生きてこなかったことを嘆いたこともあった。しかし、森の言葉を聞いて、考え方が変わった。
高い目標を立てて険しい道を歩く人生も確かに素晴らしい。それとは別に、思いがけない事件に巻き込まれても、あえてそこへ積極的に入り込み、もがきながら進む人生も尊い。
ままならない人生を生きてきたと自覚している私は、「冒険」のように生きていきたい。というよりも、そういう生き方しかできないだろう。
本書は布張りの装丁で函入り。最近、こういう上等の本を見かけなくなった。
さくいん:森有正
先日、「クローズアップ現代」(NHKテレビ)でビジネス・ケアラーの特集を見た。働きざかりの40代から50代の人が仕事と介護と子育ての掛け持ちで苦労しているという話。
介護ではないけれど、今週は緊急呼び出しがあり、ケアラーの苦労の一端を知った。
石油ファンヒーターが壊れたと週末、母から電話があった。灯油は危ないので、急いでガスヒーターをネットで購入し、配送を手配した。
週前半はエアコンでしのいでもらった。木曜日、フレックスタイムで15時に退勤して帰省した。
私の場合、業務はまったく忙しくないので、緊急呼び出しがあっても応じることができる。6年前までの営業職だったら、こうは行かないだろう。出張も多かったので、緊急事態でも、すぐには駆けつけられない場合が多くなっていたに違いない。
実家に着いて早速ガスヒーターを設置しようとしたところ、築50年の実家のガスコックは今のガスホースについているソケットが付かない。
翌日、ガス器具店へ行き、変換プラグを購入した。これで、ようやくガスヒーターが使えるようになった。
年老いた母が石油ストーブを使い続けていることはずっと心配の種だった。一つ、心配事が減った。
さくいん:NHK(テレビ)
最近、工芸品を見るのが好きになった。きっかけはNHKテレビ『日曜美術館』での特集。汐留で象嵌も見たし、日本橋三越で工芸品展も見た。
今回は、明治の工芸品と現代作家の作品の競演。写真は、「吸水」(福田亨、木工)、「電光金針水晶飾箱」(池田晃将、漆工)、「真鍮製 爪楊枝」(長谷川清吉、金工)。
どの作品も拡大してみると超絶技巧がよくわかる。写真は撮れなかったけど、小坂学のペーパークラフトと山口英紀の水墨画がとんでもない超絶技巧だった。
芸術家は皆、偏執的と言われる。いったい、何が彼らに細部の細部にまでこだわらせるのだろう。皆、細部だけでなく、鑑賞者からは見えない裏側や内部まで、こだわりを持って製作している。
彼らは「アスリートのように自分に過剰とも思えるほどの負荷をかけて唯一無二の表現を目指している」と『日曜美術館』で学芸員が話していた。この言葉には納得した。
今回見た超絶技巧に比べれば、行末を文節で揃えるという私の文章へのこだわりは児戯の域を出ない。まだまだ、こだわっていいし、もっともっと、こだわっていい。そういう激励をもらった気がした。
美術館を見てから、隣りの日本橋三越へ行き、母とランチを食べた。昼からワインを一本開けてもらい、「米寿のお祝いなんです」と伝えたところ、給仕の人がバースデープレートをデザートにつけてくれた。
地下の食品売り場で焼き鳥を買い、夜は二人で日本酒を呑んだ。
告知。今年の開園記念日に紙の本を上梓する。
その見本が届いた。やはり見本をつくってもらってよかった。
期待通りでないところがいくつも見つかる。
最終稿のつもりで見本を作り、校正をはじめた。
印刷してみると、誤字脱字、変換ミスがまだみつかる。途方に暮れる。
今まで何度も読み返した文章で、電子書籍でも発行した文章なのに。
原稿となるPDFを両開きで余白設定をしなければならないことも気づいていなかった。
本を作ることがこれほど大変なこととは知らなかった。
ほんとに完成できるのか。少し不安になってきた。
日曜日。クリスマスソングを聴きながら、一日中、校正を続けた。
月曜日。いつまで読み返していてもキリがないので入稿。もう後戻りはできない。だからもう原稿は見ない。
最終稿を入稿したあと、思いのほか手続きが早く完了して、予約販売が開始された。
上のポストをアカウントの最上位に固定した。今のところ、反響はほとんどない。
本を作ったことは、妻には知らせていない。そもそも『庭』についてもX(旧Twitter)のアカウントについても興味を示さない。これはある意味、ありがたい。
私が書いている文章を知らせたら、「まだ姉のことを気にしている」「うつ病もまだ治っていない」と思い、きっとすごく心配するだろう。私だけの秘密をそっと放置しておいてくれるのはうれしい。
リアルな世界の私は、文章世界の私よりもずっと元気で朗らかに暮らしている。
子どもたちにも、もちろん知らせない。彼らは叔母にあたる人がいたことは知っていても、その人がどんな人だったかは伝えていない。ふだんは滅多に話題にしないから何か訳ありであることは勘づいているだろう。訊かれるまでこちらからは何も話さない。
リアルな知人で、あえて本について知らせる人は5人もいないだろう。
さくいん:秘密
ふと思いついて、森有正を読みなおしている。
森は日記(1957年3月25日)(『エッセー集成1』)に次のような図式を書いている。
知覚(感覚)→経験→(客体化)→思想(定義を下すこと)
私は少し前に、「思想は体系的でなければならないか——森有正についての一考察」という文章で次のような図式を描いた。
感覚→体験→促し→出発→冒険→表現→経験→思想→経験→感覚に戻る
私の図式はあながち間違いではなかった。
「促し」という言葉が頻出するのは『砂漠に向かって』のなかで1963年以降の文章。森の思想は1957年の図式から徐々に深まり、ほかの概念が定義されるとともにより複雑になっていったと言えるだろう。
いまの私は、上記の図式に「命名」「定義」という概念を加えて下のようにしたい。
感覚→体験→促し→出発→冒険→表現→経験→命名→定義→思想→経験
「思想」と「経験」のあいだに「生活」(これもまた森有正には重要な言葉)を入れてもいいかもしれない。
来年は森有正を再読する年にしようか。それも、いいかもしれない。
さくいん:森有正
今月11日、病院の帰りに吉祥駅へ戻ると、「武蔵野の空襲に関する写真パネル展」を開催していた。大きなパネル写真だったので撮影した。
武蔵野市には戦時中、飛行機のエンジンを製造する巨大工場、中島飛行機、武蔵製作所があった。そのため、昭和19年11月24日から終戦までに9回もの空襲を受けた。工場の労働者だけでなく、周辺の住民にも大きな被害が出た。
戦後、工場跡地は接収され、米軍住宅になった。そのあと住宅公団が団地を建て、現在のUR、緑町パークタウンになっている。上の写真には現在のパークタウンが写っている。
2002年の夏に武蔵野市のUR住宅に転居した。武蔵製作所の跡地。そのとき、武蔵野市の空襲について知り、中島飛行機に関する本をたくさん読んだ。住みはじめた場所がかつては軍需工場で、空襲により多くの犠牲者が出たところと知ったのは大きな衝撃だった。
戦争は世界の各地でいまも起きている。とりわけパレスチナでは互いに人道法に違反するような激しい戦闘が起きている。1日でも早い停戦を願う。
平和教育は重要。でも「戦争はダメ」というだけでは話が大きすぎる。「暴力はダメ」。暴力についての教育が必要と思う。大きな暴力は小さな暴力から拡大していくものだから。
他民族や外国人への理由なき憎悪。異なる文化や属性を持つ人への暴行(いじめとは言わない)。体罰として正当化される教員やスポーツ指導者による暴力。
そういう小さな暴力を許容していては、戦争という大きな暴力を止めることはできない。
さくいん:中島飛行機、体罰
勤労感謝の日。祝日に久しぶりに府中市美術館へ行った。2019年7月以来。
今回、府中へ行くきっかけになったのはテレビ番組『アド街ック天国』(テレビ東京)の特集。この街で働いていたときに通っていたラーメン屋が紹介されたので、行きたくなった。
2001年の夏から2006年の末まで、府中で働いていた。『庭』でいうと「烏兎以前」から第三部の終わりまで。「成功する」という野心を抱えて転職したけれど、結局、この会社は倒産で終わった。だからといって悪い思い出ばかりではない。小林秀雄やバッハ、辻邦生、『クオ・ヴァディス』。皆、府中の図書館で出会った。
駅を降りて、まずラーメン屋。開店の少し前に並んだところ、開店時には長蛇の列。
いつも頼んでいた、“みそらいおん”+味付け玉子を注文。この店の特徴はスープが濃くて、胡椒が効いていること。なつかしい味。変わらずにおいしい。
美術館までは20分かけて歩いた。企画展の「インド細密画」は混雑しているので駆け足で見た。この日のめあては昔、よく来た常設展。この美術館は収蔵品のレベルが高い。あまり知られていないのか、混雑していた企画展とは打って変わって常設展では人はまばら。
「カフェの入口」(長谷川利行)、ラッパ卒(清水登之)、「ビルの横」(松本竣介)、「ダリア」(靉光)、「真昼」(瑛九)、「ある日」(牛島憲之)。
なかでも牛島憲之がいい。ふんわりした樹木の上に細長い時計台。空は青一色ではなく、白やピンクにも見える複雑な色彩。小さな雲と小さな人。いつまで見ても飽きることのない独特な世界。
誰もいない大きな部屋ででお気に入りの作品を凝視する。贅沢なひとたきを過ごした。
牛島徳之記念館の展示が牛島作品以外もあり残念だった。そこで帰る前に図書室で牛島の画集を眺めた。常設展の展示は頻繁に変わるらしい。次回は時間を空けずに来る。
帰りに、明大前駅のホームでおからドーナツを買って帰った。
さくいん:府中市美術館、小林秀雄、バッハ、辻邦生、『クオ・ヴァディス』、長谷川利行、松本竣介、清水登之、牛島憲之
出版にGoをかけた原稿に致命的な編集ミスを見つけた。
熟読しなければ気づかないことだけど、作った者としては見逃すことはできない。
大変な作業になると思い、一時は放置も考えた。
でも、冷静に考えれば最小限の作業で修正できることがわかった。慌てていた。
有給休暇取得推奨日だった24日。結局、一日中、校正の作業をして過ごした。
何とか発売前に変更が反映された。
電子版の方は修正したうえで、紙の本にさらに加筆した。
土曜日。長い一日だった。朝、眼科で緑内障の検査をした。投薬はまだ必要ないが予備軍なので2ヶ月に一度要検査とのこと。午後は百貨店で親戚と食事をした。
夜は、離れて暮らしている子どもたちを誘ってライブハウスへ行った。
家族4人でプチ・パーティ。
楽しかった。
ステージから「今日は家族でいらっしゃい」と声をかけてもらえたのもうれしかった。
30年。子どもを授かる前から二人で通っている店。ほんとうに長い付き合い。
岡部ともみちゃんは、唯一無二の「名前を呼んでくれるアイドル」。
選曲にも満足。子どもたちも楽しんだ様子でよかった。
セットリストの一部
- Change the World, Eric Clapton
- It`s Too Late, Carole King
- Rosana, TOTO
- 夏の終わりのハーモニー、井上陽水&玉置浩二
- Good Luck and Goodbye、荒井由実
- Tsunami、サザンオールスターズ
- The Rose, Bette Midler
- 思い出の渚、ザ・ワイルドワンズ
- お家へ帰ろう、竹内まりや
- Boogie Wonderland, Earth, Wind & Fire
- 気分爽快、森高千里
「思い出の渚」を観客が一緒に歌えたのはコロナ禍以降、初めて。
司さんの観客を乗せるコールを思い出した。ここに来れば、いつでも会える。
ここでも「最も悲しいときに最も幸せなとき」を感じる。
開けて日曜日。
前日の疲れと急激な寒さに負けて終日在宅。朝食のあと、寒いので布団に入ったら、そのまま昼過ぎまで眠っていた。
夕飯がおでんと日本酒だったので、ほろ酔い気分で夜も早く寝た。熟睡度100%だった。
さくいん:HOME(家族)、ケネディハウス銀座、Eric Clapton、荒井由実、サザンオールスターズ、TOTO、Earth, Wind & Fire、森高千里
4月にKindle版を出版した初著作『自死遺族であるということ』。今日、『烏兎の庭』開園21周年を記念してPOD版を出版することにした。
今回もセルフ・プロデュース。編集、校正から表紙デザインまで自分で行った。
残念ながら、装丁(表紙の材料)や紙の質までは選べなかった。
内容は同じもの。ただし、推敲と校正をあらためて行った。また、A5判に合わせて行末も揃えなおした。
Kindle版を制作したときに念入りに校正したつもりだったのに、今回読み直してみると、文意が伝わりにくいところや単純な誤字脱字もまだ見つかった。
改版作業は10月の終わりから始めた。PODサービスはパブファンセルフを利用した。
本を作ることは長年の夢だった。自費出版は費用がかなりかかるのでほとんどあきらめていたところ、PODサービスのサイトを見つけて、初期費用をほとんどかけずに、長年の夢をかなえてしまった。
ページ数が多いので、価格は高くなってしまった。売れることはまったく期待していない。自分の手元に一冊あればいい。
一つ、心残りは何度も参照している森有正について書いた文章を収録できなかったこと。
これは、次の、かなえそうにない夢にしておく。
ところで、本書の分類はエッセイにした。あとがきにもそう書いた。
ブクログに自分の著作が表示された。とてもうれしい。
さくいん:自死遺族、森有正、エッセイ
今回出版した紙の本には著者略歴を入れた。以下、今回書いた略歴。
障害者枠(精神障害者3級、うつ病)契約社員
1968年東京生まれ、横浜育ち。
1981年、7歳上の姉、敦子を自死で失くす。
1996年、日系メーカー、塾経営と大学院修士課程を経て、米系メーカーに就職。
ヘッドハンティング、倒産、整理解雇を経験しながら転職を重ねる。
2002年、自作ウェブサイト、『烏兎の庭』を開始。
2007年、うつ病を発症。
2009年、米系スタートアップ企業の日本支社に転職。
2014年、うつ病が悪化し退職。1年の休養後、就労移行支援事業所へ通所。
2016年、障害者枠で外資系メーカーに再就職。
さくいん:自死遺族
三つの契機
今回、一度、電子書籍にまとめた著作を、あらためて紙の本にもしようと思い立つに至るまでには、三つの重要な契機があったように思う。
第一の契機 『親と死別した子どもたちへ』  2.7.21
第二の契機 映画『君の膵臓をたべたい』  5.9.21
第三の契機 グリーフケアのカウンセリング  10.10.21
この三つの「出会い」のおかげで、私の悲しみへの向き合い方は大きく変わりはじめた。
私は、ようやく悲しみと正面から向き合えるようになった。
グリーフケアはまだ始まったばかり。
さくいん:悲嘆、自死遺族、『君の膵臓をたべたい』