先週の日曜日、8月の初めに受けたグリーフ・ケアを目的としたカウンセリングの2回目を受けた。
1回目の面談は、とても有益な90分間だった。『親と死別した子どもたちへ』に始まった死別体験の再解釈は大きく前進した。
前回の気づきを基にして、今回、聞きたいことを事前にカウンセラーにメールしておいた。
- 1. 適切な「ケア」を受けられなかった「子ども」時代の自分をどう扱えばよいか
- 2. 今の不遇(障害者と非正規雇用)の原因を過去に求めてしまう思考の癖はどうすれば改善できるか(「なんでこんなことになっちゃったのかな」と自問する癖)
- 3. スピリチュアルな体験に対しては期待と抵抗がある。スピリチュアルなものとの付き合い方のヒントがほしい
面談(セッションとも呼ぶ)で得た上記の問いへの回答。
- 1. 自分の中の「子ども」の声を聴く。そして親になったつもりで「子ども」を慰める
- 2. 故人との楽しかった思い出を努めて思い出す(アンカリング・イメージ法)。それを起点に将来に対してもポジティブなイメージを持つ
- 3. スピリチュアルは特別なものではない。振り返れば、これまでの人生全てが故人との関わりで進んできた。すなわち全てがスピリチュアルな体験と言える
上記の内容を詳述する。
1.
姉が亡くなったとき、一緒に泣いてくれる人はいなかった。慰めてくれる人もいなかった。もっと思い切り泣きたかった。先生や仲のよい友だちには慰めてもらいたかった。
だから、もし私が「子どもだった私」を前にしたら伝えたい。
悲しいよね。泣いていいんだよ。落ち着くまで学校へも行かなくてもいいよ。
映画『君の膵臓をたべたい』を観て激しく動揺したのは、「泣きたかった子どもの私」が刺激されたからかもしれない。
2.
カウンセラーのアドバイス。
亡くなったときの苦しんでいる姉ではなく、元気だったときには楽しい思い出もあるはず。それを思い出す訓練をして習慣化するとよい。そうすることで、やがて過去は明るい記憶になり、また未来の展望もポジティブなものになっていく。
楽しいことを思い出すときには親指の爪の生えぎわを押しもみする。これをスイッチにして楽しいことを想起する。これをアンカリング・イメージ法という。
楽しかったこと以外にもイメージするとよいものがある。私の回答も添えておく。
- 1. うれしかったこと:庭で水やりをしながら遊んだこと
- 2. 感謝できる資質、環境:英語への道を示してくれたこと
- 3. 感動した体験:神奈川県民ホールで一緒に観たさだまさしのフィルム・コンサート。一緒に明日香村を歩いたこと
- 4. 人に言われてうれしかったこと:フィルム・コンサートが楽しかったと日記に書いていたこと
- 5. 好きな音楽:"The Stranger", "52nd Street"を出した頃のBilly Joel、 FMラジオで一緒にスタジオライブを聴いたオフコース、さだまさし
- 6. 好きな場所:姉が通った大学、私が通った大学院のチャペルと芝生と梅の木
- 7. 癒しの場所:お墓とそのあとで眺める鎌倉の海
- 8. 将来の夢:いつか姉について、エッセイを書きたい
大切なことは、思考ではなく感情を前向きにすること。思考と感情とイメージの比率は、2:5:3。感情が前向きになれば思考は自然についてくる。
3.
カウンセラーは私の自己肯定感が低いことを察知して、次のように問い返してきた。
第一志望の大学に入学できたこと、大学院でも学んだこと、英語力を武器にして昇給する転職を重ねたこと、スタートアップの企業で成功したこと。この実績について、もっと自分を褒めてもいいのではないか。
夢枕に立つことばかりがスピリチュアルな体験ではない。
姉が卒業できなかった大学の大学院を修了し、姉が通った英語学校へ行き、英語力を身につけ、職業上、一度は成功を収めた。この道程は姉が伴走していたとも言えるのではないか。言葉を換えれば、これまでの人生、すべての節目で姉の存在がよい影響を与えてきた。それはもう十分にスピリチュアルな体験と言ってもいいのではないか。
この見方はとても新鮮だった。自分の人生が姉から影響を受けていることは感じていた。でも、それはネガティブな影響と思い込んでいた。
そうではない。客観的な立場からカウンセラーは新しい見方を提示してくれた。
姉がいてくれたから、今の私がある。そのことについては、胸を張り、誇りにしていい。
これまでの私と姉の関係は両義的なものだった。心理学の言葉では「とらわれ」とも言われるような関係。一方では優秀な年上の女性に憧れ慕いながら、他方で、自死という「公認されない」死別体験がゆえに姉を拒絶してもいた。
この関係は、いびつで矛盾している。よくない「執着」と言ってもいいかもしれない。放置していいものではない。安定した関係にする必要がある。
記憶の再構成により愛着を安定させることが必要で、またそれは可能なことだろう。
よい思い出や、絆から得た人生の収穫を探すことが具体的な作業になる。やるべきことも明確になった。
カウンセラーはやはり聴き上手だった。私が質問を出したためにそれに答える形で面談は始まった。でも、回答が一方的に提示されるわけではなかった。カウンセラーの問いかけに対してとりとめなく私が返す断片的な言葉をホワイトボードに書き出していく。まるで二人でブレインストーミングをしているような感じ。
カウンセラーは「気づき」を促している。色の違うペンで書いた断片的な言葉から新しい見方に気づかされる。
そんな見方もあったのか。そういうとらえ方はしたことがなかった。
そんな反応が自分の中でふつふつとわきあがってくる。少し大袈裟に言えば、新しい自分になったような気さえする。
そういえば、一連の死別体験の再解釈のはじまりだった『親と死別した子どもたちへ』の副題は「悲嘆と向き合い新しい自分になる」だった。
前回同様、1時間を過ぎても面談は続いた。ここまで来れば、ここから先は自分の心の作業だろう。作業そのものを手伝ってもらう必要はなさそう。私はお礼を告げて面談を終わりにした。
歩いて行けるところにいいカウンセラーがいて運がよかった。もしかすると、これもまた、スピリチュアルな体験かもしれない。いずれにしろ、起きた出来事を幸運にとらえることは悪いことではない。むしろ、グリーフケアにも有益な、健康的なことだろう。
結論。
迷いもあったけれど、思い切ってカウンセリングを受けてよかった。姉に対する思いは、悲しみだけではなく、親しみや懐かしさが増すようになった。
あとは上記の項目を実践するのみ。
故人に感謝し、楽しいことを思い出す習慣を身につけ、過去を明るい色で塗り直して、前を向いて生きる。いや、正確に言えば、後ろを向いたまま、後退りするように前に進んでいく。過去を見つめながら現在を生き、未来へ進む。森有正の言う「過去相に生きる」とはきっとそういうことだろう。
その習慣が身についたら、いつか、笑顔で再会できるかもしれない。
さくいん:悲嘆、自死遺族、『君の膵臓をたべたい』、餃子、英語、ビリー・ジョエル、オフコース、さだまさし、鎌倉、森有正