桜満開

卒業式の季節になるとM先生のことを思い出す。M先生は小学五年生と六年生のとき、受け持ちだった女性教諭。

まず出会いが突拍子もないものだった。クラス替えの後に聞いた最初の言葉。

あなたは私がお願いしてO先生からもらったんだから必ず学級委員をやってちょうだいね

この頃、生徒が急増していて5年生の途中で3学級が4学級になった。五年生の初めの担任がO先生だった。

「もらった」「学級委員」「必ずやって」と畳み込まれてびっくりした。あの頃、私はまだ従順だったので、逆らうこともせず学級委員になり、学年代表も勤めた。

本当は学級委員などやってる場合ではないほど不安定な状態だった。家庭は通っていた水泳教室を辞めたくなるほど困った状況になっていたし、学校でも本音を打ち明けられる友人はいなかった。だから、何度もM先生に「学校がつまらない」と愚痴をこぼした。

彼女は私が情緒不安定になっている理由を知らないので、私もまた打ち明けなかったので、私がぼんやりしたり、ふてくされているといつも「あなたらしくない」と叱られた。「あなたらしくない」は何度聞いたかわからない。

六年生の秋から冬。私は自分ではどうすることもできない問題を抱えていて、とても感傷的だった


六年生の冬。突然、姉が亡くなった。亡くなったのは突然のことだったけれど、亡くなるかもしれないという予兆はあった。

M先生は「ごめんなさい、何もわかっていなくて」と何度も謝っていた。「もっとあなたを抱きしめてあげればよかった」。そうも言っていた。

今から思えば、M先生に泣きついてもよかった。でも、従順ではあっても、教員に泣きつくほど私はもう純粋ではなかった。M先生の方がずっと純情だった。

情緒不安定ながらも学校では平静を装っていたから、M先生は私の家庭や私の心理がどんな状況にあったのか、知らないのも無理はなかった。私の方でも相談するつもりはなかった。相談する、という発想がなかった。私の家の中だけの問題、と思っていたのかもしれない。

姉が亡くなってから、卒業式までのあいだ、どんな風に学校で過ごしていたのか、まったく記憶にない。卒業式の記憶もあいまい

一日忌引きで休んで登校した時、「みんな、ちゃんとわかってるから」と慰めてくれたのもM先生だった。


M先生からは他にも不思議な言葉をもらった。

一つ目は、六年生の最後の通信簿に書かれた言葉。

この1年間、自分との戦いでしたね

今になってみれば、こう書かれた意味も想像できる。そのときには何を言われているのか、わからなかった。

二つ目は、高校の合格を報告に行ったときのこと。

あなたの考えていることを理解してくれる人とあなたの心を癒してくれる人は同じ人ではないかもしれないわね

この言葉には半分驚き、半分納得した。「よく人を見ているなあ」という実感もあった。

それにしても餞の言葉にしてはちょっと不思議な言葉だった。

この言葉はずっと心のなかにあって、何度も考えなおした。というのも、実際、私の考えていることを理解してくれる人も、心を慰めてくれる人も、そのあとずっと現れなかったから。

今も、こうして文章を書きながら、私の考えていることが誰かに伝わっている実感はあまりない。病気になってその気持ちはますます強くなった

幸いにして私の心を慰めて、また和ませてくれる人は見つかり、いまもそばにいる。でも、私の考えていること、たとえば、『庭』に書いていることを理解してくれる人はいまだに見つからないまま。


M先生がいま、どうしているかはわからない。高校に入学してからは、小学校へ戻ることはなかった。大学入学も、就職も、結婚も報告していない。

謎めいた言葉をくれたあとで、彼女はもう一つ、記憶に残ることを言った。

高校に入ったら彼女ができるといいわね、そう、あの子がいいわ、お似合いよ

M先生は六年生のクラスにいた一人の女生徒の名前を口にした。それは、中学三年生の春、私がフラれた子の名前だった。M先生にはお似合いに見えていたのだろうか。

M先生とはいろんな雑談もした。あるとき、どんな音楽が好きか、訊かれて「ガロの「学生街の喫茶店」」と答えたら、「あなたって古い音楽が好きなのね」と返された。

確かに「あの頃」、さだまさしやオフコースからさかのぼって日本のフォークソングをよく聴いていた。それは姉の影響だった。

M先生は、出会いから別れまで、私のことをよく見ていてくれていた。不思議な言葉はそれなりに私の性格や気持ちを言い当てていた。不思議な人だったけれど、いい先生だった。

だから、卒業式が近づくと、毎年、M先生のことを思い出す。

小学校の卒業式は3月20日だった。


さくいん:70年代自死遺族