3月のアクセス解析
31日あったのに28日の2月よりも総アクセス数は少なかった。
『ウルトラセブン』の最終回の感想がランク入りしたのは、NHKのBSで再放送をしたからだろう。
私も久しぶりに見て、あらためて最終回はよくできていると思い返した。
同じ頃、NHKのBS4Kで放映された、ウルトラマンの生みの親、金城哲也と上原正三の青春ドラマ『ふたりのウルトラマン』を見逃してしまった。再放送を待っている。
さくいん:『ウルトラセブン』、NHK(テレビ)、金城哲也、上原正三
『芸術新潮』のローマ教皇特集で紹介されていた作品。
見終えてすぐには、意味がわからなかった。真面目なのか、コメディなのか。風刺なのか、皮肉なのか。人間ドラマなのか、ドキュメンタリータッチなのか。
邦題が『ローマの休日』のもじりなので似たような終わり方を想像してしまっていた。この邦題は誤解を招きやすく、あまりよくない。英語題"We Have Pope"にならい、『私たちの教皇』でもよかったのではないか。
結末についてよく考えてみて、やはり、これは真面目な作品なのだろうと考えた。そして、二つのことを考えた。
一つは、日本の上皇のこと。長い在位だった昭和天皇は重篤な期間が長かった。それだけ心の準備をする時間が長かったかもしれないし、反面、象徴天皇という職位の重圧を感じる時間でもあったのではないか。そこからのちの自ら退位を望む気持ちにつながっていたのではないか。そんなことを考えた。
もう一つは自分のこと。8年前、もう限界だったはずなのに「まだできる」「やらなければならない」という気持ちがまだ強く、それがなおさら自分を追い詰めていった。
「自分にはできない」とすべてを手放したとき、心底ほっとした。そして「いま仕事を辞めたら大変なことになる」と危惧していたけれど、結果的には、仕事を辞めても何とかなった。いまは、その「何とかなった」状態が安定して持続している。
重責を引き受けることは勇気と決断が必要ではある。でも、手放すことにも勇気と決断がいる。
8年前の私は、外圧で手放すことになったので、自ら勇気をもって決断したわけではない。それでも、「手放す」ことを受け入れられたことは正しかった、それでよかった。この作品の結末をよく考えてみて、そんな風に思った。
大岡川の桜並木
週末、母を連れて大岡川沿いの桜並木を見に行った。京急線の日ノ出町駅で降りて黄金町駅まで歩いた。
いつも電車から見下ろしているだけで、実際に歩いて見るのは初めて。
露天もたくさん出ていてバンドのライブ演奏もあったり、まるでコロナ禍が終息したかのような賑わい。
桜並木は初めてだけど、この界隈は初めてではない。
中学生の頃、映画を見に来たり、伊勢崎町の有隣堂で本を買ったり、先輩と100円ラーメンなるものを食べに来たりした。
電車で見慣れた景色、何度も歩いたことのある街並み。「横浜は私の故郷」とあらためて思い返した。
さくいん:横浜
暴力について
アカデミー賞の授賞式で俳優がプレゼンターを平手打ちするという事件が最近あった。
その後、「何があっても暴力で対抗するのはよくない」という言葉を数多く目にする。
その通りと思う。暴力はよくない。
テレビの街頭インタビューでも、怒りには同情できても暴力はよくないと返答している人が多い。少なくとも、そういう返答の方が多く放送されている。
でも、平然と、また時に感情にまかせて十代の子どもを殴りつけることが習慣となっていた学校で3年間を過ごした私は、そんな「きれいごと」を何とも思わずに、今でも平然と暴力をふるう人が、私が目にした正しい言葉よりもずっと多くいることを知っている。
おそらく私の中学時代の"恩師"たちも、自分が生徒たちにしたことが悪いことだったとは今でも露ほどにも思っていないだろう。
そういう人は、どう説得してみたところで、自らがなした行為を反省することもなければ、自分の信条を変えることもない。
以前はもっと希望を持っていた。楽観的だったこともある。でも最近は違う。
この件、つまり暴力を正当化する人がいる、ということに関して、最近の私は、どういうわけか、半ばあきらめている。あきらめてはいけない、とわかってはいる。
なぜ、悲観的になっているのか。よく考える必要がある。
さくいん:体罰
テレビドラマがとてもよかったので、原案となった著作も読んだ。劇場版も観るつもりでいたのに、結局行けずじまいだった。
今回、神戸市の健康局保健所精神保健福祉センターが期間限定で無料配信したので、在宅勤務中の合間に少しずつ見た。結末を知っているので、一気には見たくなかった。
連続5回のドラマ版に比べれば、縮尺版という印象は否めない。あの場面があれば、とつい考えてしまう。その一方で、地震や精神疾患の場面が減った分、そういう描写に抵抗がある人にとっては見やすくなっている。つまり、より多くの人に安克昌という人を知るいい機会になったと思う。
誠実、という言葉はこういう生き方についていう言葉なのだろう。彼の生き方、死に方を見ていると、未熟で逃げ回っているだけの自分が恥ずかしくなってくる。
仕事に、家族に、周囲の人に、どれだけ誠実に向き合っているだろう。打ち込める仕事についている人をうらやましくも思う。でも、それにしても、天職と呼べるような職業に就けなかったのは自分の責任。きちんと将来のことを考えずに若い頃を過ごしていたから、右往左往して、結局は障害者枠の非正規雇用になってしまった。
最近、図書館で手に取った、「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子の言葉を思い出した。安克昌は、置かれた場所で見事に咲いた人だった。
さくいん:安克昌、神戸
中学時代のこと
あるツィートで中井久夫の次の言葉を見つけた。
小学校への入学は、全く別種の漢語の世界に入ることである。「第何班」「当番」「委員」「級長」「副級長」「何とか係」「集合」「朝礼」「整列」「礼」「歩調」「体操」「罰則」「賞状」などなど、学校用語は実は官庁用語的であり、また、れっきとした権力擁護である。教育は、ただ、ものを教わることだけでなく、権力体制の中に織り込まれ、その一部となることである。これが大きな変化でなくてなんであろう。
——「病棟深夜の長い叫び」『昭和を送る』
『昭和を送る』は手元にあるが感想は書き残していない。おそらく「安克昌先生と私」を読むために購入したのだろう。「昭和を送る」は簡単に感想が書ける文章ではなかった。
引用文を読んで考えた。小学校への入学は、私にとってそれほど大きな事件ではなかった。一学期だけで転校したけれど、転校先でもすんなり順応できた。私にとって「大きな変化」は中学校への入学だった。
中学校への入学は、校則と呼ばれる不条理な規則と体罰と呼ばれる感情にまかせた暴力の支配に恭順することを意味した。
反抗もせず、それどころか、委員長の美名を借り体制側の末端の小役人として暴力の支配に加担し、同級生を見下し、内申点を稼ぎ、志望校を受験する承諾を獲得した。
教員への反抗心をむき出しにした生徒は試験の成績がよくても「授業態度」がよくないとして一段下の成績をつけられた。三年生の秋に行われる保護者同伴の三者面談では志望校の受験を承諾してもらえなかった。
中学時代を思い出すのは、ほんとうに苦痛でしかない。
思い出すのが嫌なので、同窓会にはもちろん行っていないし、仲がよかった人ともほとんど縁を切ってしまった。
最近、楽しい本の感想でも中学時代の体罰のことを書いてしまった。入学式の季節だからかもしれない。
さくいん:中井久夫、体罰
含み損
株取引がうまくいっていない。
3月に二度あった売り時を逃した。その後、保有株が暴落して、一週間で含み損が全資産の一割の額にまで膨れあがった。
失敗の原因は分かっている。よく考えないで取引しているから。
計画はある。でも、いざ行動に移すときに冷静さを欠いた行動をとってしまう。
そして、間違った行動を修正するために余計なことをして、さらに損失を大きくしている。
一時出ていた収益も溶かしてしまった。頭が悪すぎる。
金策に限らない。振り返ってみると、その場その場ではよかれと思って取った行動の結果、思いもよらない事態に陥っていることが少なくない。一貫性がないことが私の半生の大きな特徴と言える。
一日中、お金のことを考えている。読みたくて図書館で借りてきた本も、落ち着いて読むことができない。テレビも見ないし、ラジオも聴かない。配信の映画も、なかなか集中して見ることができない。
お金のことで頭がいっぱいなんて、情けないとしか言いようがない。株取引は、自己責任とわかっている。誰のせいにもできない。自業自得。だから、なおさら辛い。
いずれは戻すだろう。いまは待つしかない。わかってはいても、いつかわからない日を待つのはとても苦しい。
こういうときは、こうして書くことで気を紛らわせる。言葉を外に出して、体内にはびこる毒を吐き出す。そうでなければ、毎日ジンをあおって、酒に溺れているだろう。
これが、最近の日常。恥ずかしい。
大谷翔平でも負ける日はある。私のような小物が負け込んでも、何の不思議もない。
先は長い。クサらず、あきらめず、コツコツやっていく。
さくいん:日常、ジン(マティーニ)
読んで楽しい、眺めて面白い船の図鑑。断面図はやわらかい線のイラストで描かれている。
船のイラスト、というとまず柳原良平が思い浮かぶ。著者も柳原のイラストに触発されて描きはじめたという。精密さより親やすさを選んだやわらかい線と手書きの文字を見ると、彼が心の師から何を受け継いでいるのかがわかる。
乗り物の図鑑が好きで、よく図書館で借りてくる。イラストもいいし写真もいい。乗り物を見るのが好き。
乗るのも嫌いではないけれど、クルマも船も飛行機も、最近は乗る機会が少ない。最近、乗った特別な乗り物はサフィール踊り子。
本書には、これまでは知らなかった種類の船がたくさん掲載されている。流氷を観光する砕氷船、小笠原諸島へ物資を運ぶ貨物船、海底広域研究船など。
客船では、飛鳥Ⅱではなく、にっぽん丸と氷川丸が掲載されている。
著者が実際に乗り込んだことのある船だけが取り上げられている。なので、護衛艦はのっていない。取材に基づいた詳しい解説が面白い。
ふと、クルーズ会社が送ってくれたカレンダーを見たら、"Punipcruise"と書かれていた。飛鳥Ⅱ、にっぽん丸、ぱしふぃっくびいなすが並んでいる。実はずっと前に出会っていた。
さくいん:柳原良平
春のF会
長い一日だった。朝は月一度の通院。プライベートは安定しているが、仕事は新しい業務に慣れないことを相談した。
病院のあと近くの公園へ。まだがんばっている桜もある一方で、景色は確実に新緑へ変わりはじめていた。
牛丼屋で軽いランチのあと、午後は一人カラオケ。11時から3時までsinging marathon。最初は「風の詩を聴かせて」。〆はいつもの通り、"himawari"。
移動して忘年会以来のF会。まず二人でクラフト・ビールの3種、呑み比べ。それから少し歩いていつもの店へ。四人が集まり。旧交を温めた。
私たちの通った大学の近くにあるビストロ。とにかく美味しい。昨日はカキ祭り。みんなよく食べる。黒板に書いてあるオススメはすべて平らげた。
よく食べ、よく呑んだ。ビールで乾杯して、スパークリングワインを呑んだあと、ワインを何本空けたか、覚えてない。これを書いている日曜日の朝、まだおなかがいっぱい。
5時に集まり、11時に解散するまで、F先生の思い出からウクライナ侵略の報道の仕方まで語りあった。ちょっと沈んでいた気持ちがきれいさっぱり吹っ切れた。週明けから気分を一新してやっていけそうな気になってきた。
旧友とはほんとうにありがたい。気分が落ち込みそうになったら、ご馳走の写真を見て、楽しかった夜のことを思い出せば、何とかやっていけそうな気がする。
日経新聞の記事で現役の大学生が監督した作品とあり興味を持った。気になる俳優、北村匠海が主演ということもあり、劇場で見てみようと思った。ところが、年始は慌ただしく、結局、劇場では見られず、配信が始まってから自室で鑑賞した。
「等身大の若者像」。一言で言えば、そういうことになるのだろう。途中、ちょっとした起伏はあるけれど、奇を衒った作りではなく、主人公の視点でイマドキの若者の心情が描写される。
流されたり、抗ったり、素直になったり、意地を張ったり。感情の起伏が丁寧に描かれているように感じた。
オジサンにも思い当たる昔があり、「若いってこういうことなのかな」と考えさせられる。
映画ほど劇的ではないものの、恋愛があり、友人がいて、面白くはない仕事があったり、新しい道を探したり。自分の二十代を思い出させる雰囲気があった。
少し違う角度から。
「人生のマジックアワー」という言葉が出てくる。それは、何も若い時間だけのものではない。三十代でも四十代でも、「生きてる」と感じられる、尊い時間はあった。落ちぶれてしまった今でさえ、そういう瞬間がないわけではない。
良くも悪くも気持ちは十代のままでいるところが、私にはある。気が若いということとは違う。未熟で、いつまでたっても大人になれない。だから、そんな風に思うのかもしれない。
北村匠海は相変わらずフード付パーカーを着ている。彼はアメカジがよく似合う。
さくいん:北村匠海
『明け方の若者たち』のスピンオフ。「彼女」の視点から劇場版の物語を回想する。
主人公は身勝手極まりない性格。彼女の行動、どれも共感できないし、理解もできない。心が弱い私でも、一線を踏み越える前に思いとどまるだろう。むしろ、心が弱いからこんな大それたことはできない。もちろん、自分が清潔な聖人というつもりはない。
劇場版では、「僕」からみた「彼女」しか見えない。それがよかった。彼女の真意は謎のままでよかった。あえて彼女の心情を暴露する必要はない。その方が余韻が残った。
「僕」にしてみても、このような真実をきっと知りたくはないだろう。
「僕」にとって「彼女」は、「ちゃんと好きだったよ」と言ってくれた、「ずっと特別で、大切で」(奥華子「ガーネット」)、ずっと心の中に生き続ける存在なのだから。
最後の場面で、そういう「僕」の気持ちがよく伝わってくる。
さくいん:北村匠海、奥華子
火曜日に続いて夏日となった昨日、久しぶりに夕方に散歩した。
マスクをするのが億劫でしばらくでかけてなかった。
中央公園は春色。清掃工場を回って帰った。煙突のわきに白い月が見えた。
今日は昼休みに炭酸水を買いに出たときに、誘惑に負けてたこ焼きを食べてしまった。
散歩の途中でコンビニに立ち寄り、ロング缶も呑んでしまった。
結局、夜にはワインも空けてしまった。
弱い。
11年前の今日、Twitterを始めたらしい。朝、起きたら通知が来ていた。
『庭』では、2011年の4月23日にTwitterについて書いている。
最初はここで書いている文章の推敲メモだった。私にしかわからないメモなので、フォロワーは増えなかった。11年経った今でも、フォロワーは多くない。一時期、書いた文章へのリンクを貼っていたけど、たいした反応もないので最近はしていない。バズったこともなく、RTが100を越えたこともない。松本隆作品についてのツィートで"いいね"が250ついたのが、これまでの最高成績。
それでも、定期的に"いいね"をくれる人もいて、読まれていると思うとやはりうれしい。
Twitterは、主に情報収集のために使っている。展覧会や映画、新刊、テレビ番組、など。また、推敲メモをやめた代わりに、ツィートがここに書くことの下書きになっている。
うつが重く、精神状態が不安定な時期には、何度もアプリを消していた。でも完全削除はせずに、とぼとぼ続いてきた。
これからもゆるく続けていけば、アプリを消すようなこともしないだろう。
さくいん:松本隆、うつ
雨の日に出社
昨日、用事を頼まれたので、ほぼ2ヶ月ぶりにオフィスへ出勤した。用事というのは客先に提出する文書への事業部印の捺印。
先週、依頼されたとき、すぐには出社せず、締切のギリギリまで待ってもらった。案の定、今週、文書の差し替えと追加があった。危なく週に2回出社となるところだった。
外はあいにくの雨。気温は2月並みの寒さ。一度は仕舞った冬物の下着の上にスーツを着てレインコートもはおった。朝の電車は、隣の人と肩が触れないくらいの混み具合。この程度なら苦痛ではない。
用事はすぐに済んでしまい、ほかに依頼ごともないので、仕事をしているふりをして、ぼんやり時が過ぎるのを待った。
昼休み、サンドイッチを食べていると、会社で唯一話しかけてくれる人が出社していて声をかけてくれた。互いの家族の近況を報告しあい、他愛のない雑談をした。ほんの数分の会話でも救われた気がした。ここにも一応、居場所はある。
長居したところで意味もないので、フレックスタイムを使って早めに退勤した。
定期券はないので、途中下車して大型書店や洋服屋に立ち寄ることもできなかった。面白くない。そうかといって、いまさら毎日出勤する生活には戻れそうにない。戻りたくない。
久しぶりに都会へ出たので、駅ナカで夕飯のおかずを買って帰ってきた。
夕飯は、ハンブルクステーキとトマトのサラダ。白ワインを一本空けた。
Appleに3月23日に注文したiMac、24インチがまだ届かない。金曜日になって、ようやく納期遅延についてメールが来た。
当初の納品予定は4/3 - 4/5。今回もらった予定は5/8 - 5/18。
やはり上海のロックダウンが影響しているのだろう。新聞にもiMacやiPhoneの製造工場が操業停止に追い込まれていて、業績にも影響が出るかもしれないと書かれている。
1ヶ月以上遅れてたのにお詫びの一言もない素気ないメールには、ほとんど信者とも言えるApple製品のヘビーユーザーである私でもさすがに呆れた。
とはいえ、ここのところ、懐事情がよくないので、クレジットカードの引き落としが6月になるのは、正直ありがたい。
さくいん:Apple
辻村深月はTwitterの読書垢で人気の小説家。同じく小説家の万城目学は、日経新聞夕刊のコラム欄、プロムナードで知った。図書館でエッセイ集を見つけたので借りてきた。
二人とも人気の小説家だから小説から読めばいいのだろうけれど、小説はどういうわけか読みはじめるまでが億劫でなかなか読めない。短い文章を集めたエッセイ集は、在宅勤務のスキマ時間に読むにもちょうどいい。
内容も、身辺雑記や書評、旅行記などの方を小説よりも好んで読む。これは好みの問題。
辻村の文章では藤子・F・不二雄作品への愛着が印象深い。とりわけ『パーマン』への思い入れに深く感じた。
万城目は文章が巧みでスイスイと読むことができた。文中、綾瀬はるかが歌う「飛行機雲」が二度出てくる。綾瀬はるかが歌を歌っていること自体、あまり知られていないかもしれない。たまたま、私はこの曲は知っていて、先日、カラオケで歌ったくらい気に入っている。同じモノを好きであることがわかると文章にもさらに親しみが湧く。
2冊ともとても面白かった。やっぱりエッセイは楽しい。
小説は読まないし、テレビドラマもほとんど見ない。私には物語(ストーリー)に対する忌避感があるのかもしれない。
さくいん:辻村深月、万城目学、日経新聞、綾瀬はるか
万城目学のエッセイの続き。小説でないことを確認して借りただけで、中身を知らないまま読みはじめた。内容は浪人時代から小説家としてデビューまでの青春時代を振り返る自伝的エッセイだった。
小説家になったきっかけを書いたエッセイをこれまでいくつか読んできた。その道筋は十人十色。小説家になれる性格というのも一通りではない。いろいろな人がいる。
著者の場合、突然、小説を書くという"覚醒"があり、そのあと、研鑽を積んだとはいえ、小説家になれたことは、本書の最後に出てくるエピソードを含めて、「運がよかった」という見方もできなくはない。著者も率直にそれを認めている。
印象に残ったのは京都という街の懐の広さ。学生たちはまさに自由を謳歌している。私の場合、東京の大学に自宅から通っていたし、一人暮らしもしたことがないので、地方都市での一人暮らしには、それなりの屈託はあるにせよ、うらやましく感じるところが多かった。
でも、もし一人暮らしをしていたら、きっとアルコール依存症になっていただろう。
もう一つ、印象に残ったのは、著者の「書く」理由が小説修行を続けるうちに「書きたいことを書く」から「人を喜ばせることを書く」へ変化していること。職業として小説家になるためにはこの視点がどうしても必要なのだろう。
20年近く自覚的に文章を書いている。書きたいことだけを書く「独りよがり」から脱することはないまま過ごしてきた。著者はSNS時代であったら「覚醒」は一回の投稿で終わっていただろうと回想している。もし発表する場所がなかったら、職業として書くための修練を、私も積んでいたかもしれない。
こうして誰に介入されることもなく、書いたものを公開する場がある今の環境を考えると、職業として書くことを目指す「覚醒」は、私には訪れないだろう。
さくいん:エッセイ、万城目学、京都
日曜日、ちひろ美術館まで出かけた。目当てはアメリカの絵本賞、コールデコット賞受賞作家の原画。ここへは中学三年生の秋に来て以来、定期的に来ている。
『はらぺこあおむし』の穴の開いた製本は、技術を持っていた日本の偕成社が請け負ったことを初めて知った。
展示された絵は多くはなかったけれど、好きな絵本作家の作品を見られたので満足した。なかでも、シュルヴィッツの『あめのひ』の原画を見られたのはうれしかった。原画は黒いインクで描かれていた。絵本では雰囲気を考慮して青いインクで印刷したのだろう。
今回、原画やオリジナルの絵を見ることができた作家。
子どもたちは成人してしまい、絵本を読み聞かせていた季節は遠い過去になった。最近は図書館へいっても絵本のコーナーへ行くこともない。
行きは電車に乗り、帰りはほとんどの行程を歩いた。とても疲れた。
疲れたときには、お気に入りだった絵本を読むと寛いだ気分になれるかもしれない。そう考えて、本棚の奥にしまってあったシュルヴィッツ『たからもの』を開いた。
この作品も、コールデコット賞の次席(オナー賞)を受賞している。
さくいん:いわさきちひろ、コールデコット賞
キャリア変更
携帯電話のキャリアを変更した。ドコモから楽天に。
携帯で通話することはほとんどないし、在宅勤務で終日家にいることが多いので、データ通信はWi-Fiを利用することが多い。
そこでデータ通信が1GB以下なら0円という楽天に変更した。
この手の事務手続きが苦手で二の足を踏んでいたけど、ようやく腰を上げてキャリア乗り換えを行なった。ところどころでつまづいたけど何とか完了できた。
元々、外でほとんど使っていないので、使い勝手がどうなのか、まだわからない。
とにかく、我が家の家計にとって固定費削減に寄与することは間違いない。
辻村深月と万城目学のエッセイ集を面白く読んだ。彼らの本領である小説にも挑戦したいところ、なかなか始められないので、まず小説を原作とした映画作品を観ることにした。
二作品ともファンタジーと呼ばれるジャンルの作品。どちらもよかった。どちらも俳優陣が素晴らしく、突拍子もない設定であるにもかかわらず、演技の力で物語に引き込まれた。
『プリンセス』は『翔んで埼玉』の大阪版のノリ。エッセイにも書かれていた原作者の深い郷土愛が感じられる作品だった。
大阪を知らない人にはピンと来ないだろう。出張や旅行で馴染みがあるので、私は面白く鑑賞できた。
『ツナグ』は死者と生者の関わりを描く、テーマとしては重い作品。描きようによっては、単なる御涙頂戴になりかねないところを、こちらも俳優陣の演技力で強く引っ張っていく。テーマは「残された者の悲しみと死者の思い」といってもいいだろう。
松坂桃李演じる主人公が、ツナグの役割について迷うところがリアリティを高めている。
生者が会っているい相手がほんとうに死者なのか、生者の生み出した妄想なのか、確かにツナグには見えているが、よくわからない。
死者と会って、訊きたかったことを問いただしても、結局のところ、死者の言葉をどう受け止めるかは生者自身の心の問題。本作のテーマを私はそうとらえた。
本作のようなスピリチュアルな体験をする人もいれば、そういうものがなかったとしても、故人の思い出から自分へのメッセージを受け取る人もいるだろう。スピリチュアルな体験をしても、馬耳東風で真剣に受け止めない人もいるに違いない。
松坂桃李は本作で日本アカデミー賞の新人賞を取ったという。なるほど、それはわかる。
松坂桃李を見ていたら、『蜜蜂と遠雷』や『キセキ』を思い出した。彼は私の記憶によく残る役者らしい。彼の演技を見直したくて『蜜蜂と遠雷』を再見した。
さくいん:万城目学、辻村深月、大阪、綾瀬はるか、松坂桃李、悲しみ(悲嘆)
実写映画を観て、原作を読んだ作品。アニメ版があることを知り、観てみることにした。
長編の原作から上手にエッセンスを取り出していた。実写版では高校生が悩む進路にかなり重きを置いていた。原作は4人の恋模様と細やかな心理描写に特長があった。
アニメ版は、由奈の成長と家族の大切さに比重が傾いていた。実写版とあえて違う展開は観ていて飽きなかった。声優のキャスティングにも違和感はない。
由奈がどんどん成長する一方で、朱里の不器用な性格が強調されている。だからどうしても由奈に目がいってしまうけど、大人の視点から見ると、朱里の意地っ張りなところや家族を思う気持ちや、少しずつ由奈や和臣に心を開いていく過程をそっと見守りたい気持ちになる。
朱里の不器用な性格は家庭環境が不安定だったことに原因がある。恋愛だけでなく、その問題も解決する展開だったので安堵した。
原作は全12巻の長編。そこから映画化すると引き算になってしまうのは仕方ない。本作は原作の雰囲気をほどよく残しながら、上手にまとめたと思う。映画は将来の選択、アニメは家族。恋愛以外のテーマを絞ったことも奏功している。
ネットでの感想を見ると、登場人物が好きな相手を変えていくことに違和感を持った人が少なくない。高校生なら、身近な人に次々、思いを寄せてしまうのは別に不思議なことではない。
それは、大人の心変わりや浮気とは違う。毎日、どんどん成長しているから、毎日、人を見る目が変わっていく。だから、思いを寄せる人も変わっていく。その方が自然ではないか。むしろ、多感な十代の頃に一人の人を何年も思い続ける方が、理央の台詞にもあるように、「好き」というよりも自分の思いへの身勝手な「執着」ではないだろうか。
アニメ版を見てから実写版を見直した。由奈の告白の場面と理央の告白の場面。ここでの福本莉子はとてもいい表情をしている。
アニメ版も実写版も、もちろん原作も、それぞれに魅力がある。どれが一番と言えない。私は相当、この作品に心奪われている。
ところで本作には実写版に出演した4人がカメオ出演しているらしい。わからなかった。
さくいん:咲坂伊織、初恋、HOME(家族)
北條民雄の名前は知っていた。「いのちの初夜」という作品名も知っていた。でも、読んだことはなかった。本書は図書館の新刊棚で見つけた。
「いのちの初夜」を読み、頭をこん棒で叩かれたような強い衝撃を受けた。これは手元に置いておかなければならない。そう思い、購入した。
ハンセン病のことを何も知らなかったわけではない。全生園にある資料館へ行ったこともあるし、『ハンセン病文学全集』で患者の随筆や日記を読んだこともある。
それでも、本書を読んだ衝撃はなお激しいものだった。
一言で言えば、「絶望の文学」と呼ぶべき種類の作品だろう。随筆「発病」には、何度も自死を試みたことが書かれている。「いのちの初夜」にも自死を試みる場面がある。
病苦、偏見、差別、隔離。そのような絶望の極みに置かれても、なお生きることに対する希望を捨てずにいることに驚きを禁じ得ない。
きっと生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜路があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう。
——「いのちの初夜」
この文章を読んだときの衝撃を言い表す言葉は、今の私は持ち合わせていない。
文学への思いが、彼に生きる希望を与えたのだろうか。絶望の淵にいると私が自分自身について考えたとき、こんな強さは持ち合わせていなかった。ただ、私にとっても、書くことは慰めにはなっていたかもしれない。文学は北條民雄にとって、慰め以上のものだっただろう。希望を書くことで、病める自分を奮い立たせていたのかもしれない。
私が感じていた絶望など、北條が対峙した絶望とは比較にはならない。欲深な俗物根性が世間の壁を前にして破れ、自己崩壊しただけなのだから。北條は絶望の淵にありながらも、希望を持って最後まで強く生き続けた。そこが弱さを引きずったまま「邪にただ生きてる」(Mr.Children「himawari」)だけの私とは大きく違うところ。
読みながら、こういう文体が私の好みであることを再認識した。理知的で透徹した文章。そういう文体にとても憧れる。
私の趣味はかなり古いかもしれない。文庫本が今年出版されていることから見ても、私のように古い文体を好む人は、ほかにも多勢いるのだろう。
北條民雄の言葉は、森有正や石原吉郎と同じように、これから先いつも携えているものになるだろう。
さくいん:ハンセン病、自死、Mr.Children、森有正、石原吉郎
補聴器とお好み焼き
昭和10年生まれ、86歳の母にとって今一番大きな悩みは膝の痛みと耳が遠いこと。
子どもの頃に野山で鍛えられたので、昔はいくら歩いても平気だった。最近は少し遠出をしても痛みがあるらしく、昔ほど遠出できなくなったし、ときどき杖も使うようになった。手術という手もあるけど、数週間、入院したらボケるのではないかと心配して二の足を踏んでいる。
耳の方もだんだん深刻になってきた。しばらく前、テレビを大音量で見ていたので手元に置ける無線スピーカーを買った。テレビの音はそれで聴こえるからまだよい。困るのは、孫が集まったときや、騒がしいところにいるとき、ほとんど聴こえていないこと。
何度か補聴器を勧めたものの、面倒がって耳鼻科にもきちんと相談していない様子だった。
ところが、先週の木曜日、補聴器のショールームに誘ったところ、断らなかったので連れて行った。まず聴力検査をしたところ、結果が思ったより悪くて気落ちしていた。次に試しに補聴器を付けてみたところ、今度は思っていたよりずっと聴こえがよくなったらしく、表情も明るくなった。
検査と補聴器選びで1時間半、お店に滞在した。同席しているだけの私もちょっと疲れた。
百貨店のレストランで生ビールで乾杯して、広島風お好み焼きを二人で分けて食べた。
安い買い物ではなかったけど、生活が豊かになるのならありがたい。認知症の予防になることも期待している。
さくいん:広島
先週末、木曜の午後から有給休暇をとって久しぶりにメトロポリタン美術館の大型展覧会へ行った。
母が86歳なので、一人で住んでいる横浜から六本木まで来てもらうのは少し心配がある。そこで木曜日に前泊して、金曜日に二人で六本木まで出かけた。現地で妻も合流して、3人で美術展を見た。
運よく、私たちが入場した時間帯は空いていた。鑑賞を終えて出ると、入場口には長い列ができていた。
展覧会の会場内も混み具合はほどほど。ポスターに使われている作品の前には人だかりができている一方、誰も立ち止まっていない作品もあり、渋滞を避ければ効率よくゆったりした気分で鑑賞することができた。
「西洋絵画の500年」という看板に偽りはない。宗教画時代から印象派まで、有名な画家の作品ばかりで美術史をたどることができる。
気に入った作品。最近は宗教画に関心が高まっていることに気づいた。宗教画から印象派までの歴史は「形式から個性へ」と言い換えることもできる。ただしそれは進歩とは違う。短歌や俳句のように定型詩のなかにも自由と創造性がある。同じように様式や小物に規則のある中世の宗教画にも創造性はあるし、個性は他人と違わなければならないという強迫的な呪縛ともなりえる。様式美の整った宗教画に最近はとても魅力を感じる。
また、形式的な宗教画から写実画に移行する時代、ラ・トゥールやスルバランの活躍した時代の作品にもとても惹かれる。
ムリーリョの作品は有名な「無限罪の御宿り」のような幻想的な雰囲気ではなく、写実的だった。シスレーは、私の好きなモチーフである水、空、橋が描かれていた気に入った。
鑑賞を終えて、東京ミッドタウンまで歩き、とらやであんみつを食べた。天気もよく、心地よい一日を過ごした。
メトロポリタン美術館へは大学一年生の春休み、初めて海外でアメリカ東海岸を旅行したときに訪れている。古代の大きな神殿とルノワールの巨大な家族肖像画だけは覚えている。
今回の展覧会は、現地で改修工事を行っているために、長期の貸し出しが可能になったという。コロナ禍で海外旅行はしづらいなかで、気持ちだけはニューヨークへ飛んだ。
さくいん:ニューヨーク、ルノワール
1/48の世界。どれも見ていて楽しい。たくさん展示されているなかから気に入った6枚の作品を掲載する。イタリア料理店、串揚げ屋、京町屋敷、飲み屋街、書店、怪盗の隠れ家。
怪盗の隠れ家はフィアット500があることから『ルパン三世』を意識しているのだろう。
超絶技巧から作っている人たちの熱意が伝わり、楽しんで作っている姿が目に浮かぶ。これほど趣味にしている人が多く、裾野の広い趣味であるとは知らなかった。
好きなことにハマっている人はとても幸せということがよくわかる。
私も好きなことにどんどんハマって行こう。
不器用なのでプラモデルさえ完成させたことがない。でも、模型やミニチュア、ジオラマを見るのは大好き。鑑賞しているあいだ、理由もなくワクワクした気分で過ごした。
ドールハウスを見ていたら、熱心にシルバニアファミリーで遊んでいた幼いころの娘の姿を思い出した。娘は今週、25歳になった。まだ扶養家族だけど、来春には独り立ちする。
さくいん:『ルパン三世』
週末の寛いだ時間に見るのにちょうどよい、ほのぼのしたドラマだった。
南極の昭和基地からさらに1000Kmも奥の高地にある測候所。食事を軸に越冬隊員たちの人間ドラマが展開する。
大きな事件はない。小さな事件が次々起きることで、極地で小さな測光所に閉じ込まれた隊員たちの苦労がよくわかる。料理が主役の映画なので、どの料理も、とても美味しそうに映っている。食事は隊員たちの安らぎであり、モチベーションでもある。
堺雅人が『半沢直樹』のギトギトした性格とは違う、飄々とした料理人を好演している。
料理人は直接、観測や研究には関わらない。だから、ある意味、部外者として隊員たちのあいだのかすがいになっている。組織にはこういう半歩外に出ている人がいるのがいいのかもしれない。
ふと考えたこと。出身地によって違う味噌汁の具や出汁の違いで争いにはならないのか。
これが多民族国家の隊員たちだったら食事は安らぎではなく争いの元になってしまうかもしれない。それくらい、食事は極限の地では隊員たちの士気を左右する。
極限の地でなくても、ありきたりな毎日でも、食事はとても大切なもの。月並みだけど、そのことに気づかせてくれる作品だった。
失恋記念日
今日は失恋記念日。
5年間、片想いしてフラれた日。
思春期に憧れの気持ちを抱いて見つめていた偶像。
遠い昔の話。あの気持ちを初恋と呼ぶのだろうか。
あの日、聴いた音楽は今でも覚えている。
どんな運命が愛を遠ざけたの
輝きは戻らない
私がいま死んでも
——荒井由実「翳りゆく部屋」
二人のあいだに輝きがあったのかはわからない。でも、それくらい私は思い詰めていた。
5年間という長い時間は、私の気持ちを思慕から執着へと変えた。彼女への思いは、言葉を換えれば偶像崇拝だった。
偶像化とは、その人の実在性を無視して、自分のなかで理想化した姿を愛すること。
『草の花』(福永武彦)で汐見茂思が藤木兄妹に抱いていた感情と同じ。
『思い、思われ、ふり、ふられ』(咲坂伊織)で理央が朱里に抱いていた感情とも同じ。
思慕は相手に向けられているのではなく、自己の内にある理想像に向けられている。その意味では私の初恋は自己愛だった。それを頼りに生きていた。だから思いが募るではなく、偶像に執着していたとも言うことができる。
偶像は一切悪というわけではない。5年のあいだ私は危機的な状況にあった。だから、その姿を遠くから見ているだけでも心の支えになり、偶然、すれ違うときに見せる笑顔に生きる望みを得ていたことも事実。祈るように抱きしめていたからこそ、その姿は偶像だった。
今となってみれば、なつかしい思い出。
そっとそこにそのままで静かに輝くべきもの
けっしてもう一度この手で触れてはいけないもの
——オフコース「夏の終り」
もう顔も忘れてしまった。
さくいん:初恋、荒井由実、福永武彦、咲坂伊織、オフコース、偶像