国際基督教大学

『丸山眞男の教養思想』の感想文を書くために「森有正氏の思い出」が所収されている『丸山眞男集 第十一巻』を借りてきて読みなおした。前回読んだとき、といっても15年以上前には気づかなかったところが気になった。

丸山は森が早逝したことを嘆いて、「森さんのいちばん悲劇的なとこは、森さんは自分の哲学を体系的に示して世に問う前にたおれたという点です」と述懐している。小見出しには「ほしかった体系的な森哲学」とある。

森有正は「体系的な哲学」を目指していたのだろうか。仮に、彼がそういうものを目指していたとして、彼が長命だったらそれを世に示すことができただろうか。

「森有正の思想」はあっても「森有正の哲学」はない、と私は考える。確かに彼はパスカルやデカルトなど、フランス哲学を研究していた。けれど、パリで書き続けた一連のエッセイは体系を目指した哲学とは言い難い。もちろん、思いつきをただ書きつづったというわけではなく、ある方向を目指して書いてはいた。それは「哲学的体系」と呼べるものではない。

森自身、「私の思想」という表現は何度もしていても、「私の哲学」という言い方は私の読むかぎりしていない。


そもそも、哲学と思想はどこが違うのか。

哲学とは学という文字が入っているように一つの学問。思想とは、英語で"thought"(考えられたもの)と言うように、考えられたこと全てを指す。さらに加えて、その人の生き方そのものを思想と私は考えている。だから、哲学は誰でもが持っているものではなくても、思想は意識しようとしまいと誰でも持っている。

学問は体系的でなければならない。そうでなければ学問として成り立たない。その一方、思想は体系的であってもよいが、必ずしも体系的である必要はない。人が考え、表現することが体系的とは限らない。むしろそうでない場合の方が多いだろう。

それでも、ある指向性を有している場合、そして人がそれを自覚して思考し表現するとき、それを「思想」と呼ぶことができるのではないか。


哲学は学問であるから、教えることができる。教わることができる。思想は、人の生き方そのものだから、教えることもできないし、学ぶこともできない。そこから何かヒントを得ることはできるとしても。思想は自分で模索し、自分一人で形成しなければならない。

森有正は自身の思想の鍵となる「経験」について、自然科学のように先人が到達した場所から始めることはできない、と述べている。


確かに森有正は60歳を過ぎた1970年代半ば、生活拠点を日本に移して、自分の哲学研究の集大成を書こうとしていた。

毎日続々と表われるような博士論文をこしらえることは僕には何の意味も認めない。拵え上げることなど出来ない論文、僕自身の経験の証言としての論文。それは、例えばデカルト研究というような特殊研究ではなく、哲学の本質にかかわる部分を理論的に展開するものとなるであろう。この論文の題目は、例えば「合理性」とでもしたいと思う。書き上げるのには七、八年かかるだろう。それと同時に「バビロンの流れのほとりにて」の系列の本も書き続けよう。論文は、「経験と思想」と題する雑誌論文群の本質的な部分をなすであろう。これにオルガン演奏が加わる。哲学、文学作品の創作、音楽。この三種の活動が、残されている僕の人生を構成するであろう。
(日記。1976年6月5日、『エッセー集成 5』)

ここでは哲学とエッセイが峻別され、哲学論文を書くことを宣言している。丸山が慨嘆したようにその論文は書かれなかった。

仮に森有正が長命だったとしても、「合理性」を主題にした論文は書かれなかったのではないか。私は勝手にそう推測している。

もし「哲学の本質にかかわる論文」を書くつもりであったならば、部分的にでも草稿でも書けばよかった。森は結局、哲学には手をつけず、「文学的創作」の方に力を注いだ。

森有正はどこまでもエッセイストであり、そこに彼の思想は十分に表現された。そう私は考える。もちろん、もっと長生きしていれば、思想はさらに深化していたかもしれない。

丸山は森を学者ととらえている。だから、何かしら学問的な仕事を残してほしかったのかもしれない。丸山は森のエッセイをさほど評価をしていない。

結局森さんは、自分の哲学を周辺の部分しかのべないで終ってしまった、と思うんです。むしろある種の文学的な受けとられ方をして愛読者を持ったことで、本当の思想的影響を与えることが少なかった、とさえいえるのじゃないですか。

丸山には体系的で学問的な仕事を高く評価する一方で、文学的で思想的な作品をそれほど高くは評価しない傾向がある。文学的な受けとられ方をされたから「本当の思想的影響」は少なかった、という分析は、文学として、より正確に書けば文学的表現の思想として森有正を読んだ人たちを見下しているようにさえ見える。

森有正は哲学と文学的創作とオルガン演奏の三つの活動を等価のものとしてみている。


森有正は「体系的な哲学」を提示することはなかった。だからといって彼の仕事に大きな欠如があったとは思われない。むしろ森有正の「思想」の魅力は、旅と読書と思索と表現を重ねて、次々と「変貌」していく動的な過程にあると思う。

森有正でなくても、思想家が存命のあいだはその思想を体系的にとらえることは難しい。思想を築くということはあらかじめ設計図があって家を建てるようなものではない。思想は設計図を書くところからはじまるものであり、しかも思索者自身が右往左往、行きつ戻りつしながら、打ち立てていくもの。だから、身近にいる人ほど、思想の体系的な全体像を俯瞰することは難しい

体系的な思想は、当人が亡くなり、著作の評価が定着し、日記や備忘録などが公開されるようになってから徐々に見えてくるものかもしれない。

もちろん、当人が自ら「体系的思想」として持論を披露することもあるだろう。それでも、当人が健在で思索を続けるかぎり、思想は動的な形態をとると思われる。


ここまで書いてきて、少し違う考えが思い浮かんだ。思索が深まっていけば、自然とそれはある体系を帯びてくるのではないか。そしてそれは森有正についても言えるのではないか。

言葉を換えれば、森有正には十分に体系的と言えるような思想が、生前からあったのではないだろうか。

   "促し"(原文傍点。以下同じ)から"冒険"を通して真の"経験"へ、これが今の私には"思想"に到る唯一の道であるように思われる。
「遥かなノートルダム」『エッセー集成 3』

この文章は1966年、渡欧して16年経てから書かれている。この一文はすでに一つの体系を示してはいないだろうか。「促し」「冒険」「経験」は、いずれも森思想を支える基本概念であり、ここでは詳述はしないが、いずれも長い時間をかけて吟味され「定義」されている。

いま、ごく簡単に書いておけば、森の思想は次のような「体系」を持っている。

感覚→体験→促し→出発→冒険→表現→経験→命名→定義→思想→経験→感覚に戻る

森有正の思想を体系としてとらえることは不可能ではないのかもしれない。ただし、それが哲学と呼べるものなのか、哲学を客観的に伝えることのできる「学問」ととらえるならば、そこには疑問が残る。森有正が積み重ねたものは、思想であり、哲学ではない。


最後にもう一点、指摘しておきたい。

文学的な表現だから「本当の思想的影響」を残さなかったとは言えない。没後、40年以上経っても森有正は読まれているし、そこに体系を見出そうと試みる新しい研究斬新な論考も現れている。

森有正がフランス哲学の研究者でありながら、哲学研究の論文を残さなかったことを批判する人がいることは知っている。その批判は的を射ている。

学術論文を最後に残さなかったという事実を含めて、また東京大学の助教授を勝手に辞めてパリに留まったことも含めて、もちろん彼の著作を併せて、その全体が森有正の思想というもの。私はそう考える。

実際、森は「思想とは人間そのもの」「人間全体」といったことを繰り返し書いている。

「本当の」ものなのかどうかはわからないけれど、読後に「大きな」影響を受けた読者の一人として丸山眞男には反論しておきたい。


注記。森は日記(1957年3月25日)に次のような図式を書いている。

知覚(感覚)→経験→(客体化)→思想(定義を下すこと)

ここではまだ「促し」や「冒険」という概念は見られない。


さくいん:森有正丸山眞男エッセイ