子を持たない人生も幸せ、という主張がTwitter(現X)で話題になっていた。。
確かに、産むか産まないかを人当事者が主体的に選択できる部分もある。でも、授かるかどうか、わからない部分もある。
産むか産まないか、人間が完全に主体的に選択できるという考えは傲慢に思える。授かりたくて授からない人もいれば、希望はなくても授かる人もいる。
持つつもりがなくて子を授かった人が、皆、育児放棄をするわけではない。授かって覚える愛情もあるだろう。もっとも、虐待や放棄の事例も多く、それはそれで非常に悲しい。
私たちは長く子を授からなかった。覚悟して、子のない人生を想像したこともある。
だから、持つ選択をした、というよりも、幸運にも「授かった」という意識が強い。子は「天からのめぐみ」と思った。名付けをするときにも、そういう思いを込めた。
古くなった自分の自転車を処分してから、息子が高校通学に使っていた自転車を譲り受け、10年くらい乗っている。使わないときに屋根のないところに放置していたために、ほとんどサビだらけ。それでも、ずっと使ってきた。
今回、タイヤがパンクした。自転車店まで押していくのが面倒でまだ行っていない。
これまで図書館や歯医者には自転車に乗って通っていた。その自転車がこわれたので、仕方なく歩くことにした。図書館も歯医者も遠いところではない。歩いても15分もかからない。
これくらいは歩いたほうがいいだろう。自転車はいずれ処分する。乗ろうと思えば、結婚した娘が置いていった自転車もある。
自転車に乗らない理由がもう一つある。それは自動車が怖いから。近所には見通しの悪い角がいくつかあり、何度かヒヤリとしたことがある。毎回、ヘルメットをかぶるのも面倒。
何ごとにつけ、急ぐ必要はない暮らしをしている。行きたいところへは歩いていけばいい。
Twitter(現X)のタグから。
そもそもた岩波文庫も、本そのものもたくさんは持っていない。岩波文庫は両手で抱えられるくらい。
そのなかで10冊選んだ。
以前、「岩波文庫 私の三冊」で選んだときとちょっと入れ替わりがある。
さくいん:島崎藤村、八木重吉、西田幾多郎、トルストイ、オマル・ハイヤーム、中国
隙間時間に読める短文集を2冊借りてきた。両方とも膨大な数の作品に感想を書いている。とくに辻邦生の趣味は映画、美術、音楽と幅広い。私が読んだり観たりした作品は少ない。そこで自分でも読んだり観たりした作品についての文章だけを拾って読んだ。
辻邦生の文章を読んでいて心地がいいのは、大衆を見下した知的エリート臭がしないこと。むしろ、自分のなかにある大衆性にも気を配っているように見える。『ニュー・シネマ・パラダイス』の感想を読んで、そう思った。政治や社会問題に目を向けた新聞連載の時評を読んだときにも同じことを思った。
石井の本では、原口統三『二十歳のエチュード』について書いた文章が気になった。
石井は原口が生前に書いた「人生そのものを芸術にする」という自死宣言を肯定的に受け止めている。「青白い文学青年の自殺」とは違うとも書いている。原口が早熟で、秀才だったことは私も否定しない。でも私は疑問に思う。「青白い文学青年の自殺」と「人生そのものを芸術」に高めた死の線引きは可能なのだろうか。
「死にたい」という気持ちを持つことは何も異常ではない。とりわけ思春期ではよくあることだろう。でも、積極的に選択して、実行する思考は、視野狭窄ではないのだろうか。
森有正は『二十歳のエチュード』に寄せた「立ち去る者」という文章の中で「罪の意識の欠如」を厳しく指弾していた。彼の自死へのキリスト教的な理解からは、そのような見解が導かれるのだろう。
この考えにも私は共感しない。自死は、多様なストレスによってもたらされる複雑な心理が引き起こす視野狭窄が大きな原因であって、主体的な責任ある選択とは思えないから。
自殺未遂をして生存した人の多くが自分の行動が自分の意思を超えた異常なものだった、生き延びてよかったと思う、という調査結果をどこかで読んだことがある。
必要なのは、自死を美化することではない。
「死にたい」という自然な、ただし非常に視野の狭い気持ちを、「いま、急いで死ぬことはないかな」という、おおらかな肯定感に進路を変える手助けではないか。
さくいん:辻邦生、知識人、石井洋二郎、三木清、原口統三、自死、森有正
土曜日は月一回のうつ病の診察日だった。
調子がいいと症状が重かった頃のことを忘れる。そして悔やむ。
もう少し上手く立ちまわれば会社に残れたのではないか
休養した後、正社員でも働けたのではないか。
そうして、何だか自分が間違った選択をしていたような気持ちになり、元気をなくすことがある。元気になると元気をなくすという奇妙な状態になる。
そう思えるのは、いま、症状が軽いからであり、営業職を辞めた10年前には、そんな風に考える余裕はまったくなかった。それを忘れてしまう。
あなたの選択は正しかった。
S先生に諭された。障害者枠の非正規雇用という負荷の軽い職種。あのときにはその選択肢しかなかった。
診察室でボロボロ泣いたことも思い出した。これでよかった。これしかなかった。自分にあらためて言い聞かせた。
こういうの負の循環思考に陥るのは、お金について考えるとき、というのも情けないけど事実。「もっと稼げてたはず」「もっと贅沢できたはず」。根底にはそういう俗物根性がある。
さくいん:うつ病、S先生
土曜日。朝一番でS医院へ行き、そのまま横浜の実家へ向かった。久しぶりに快晴になったので、1週間分の洗濯をするように母にメッセージを送っておいた。確かに洗濯はしていた。でも、干すのを忘れていた。介護の段階が変わっていることを実感した。
午後、母を連れて京急線で逗子・葉山へ。駒井哲郎の名前は知らなかったけれど、版画を見るのは好きなので行ってみた。
抽象的な作品よりも、建物や樹木、風景を彫った作品に目を奪われた。証明写真よりひとまわり大きい程度の小さな画面に丸の内のレンガ造りの建物や樹木が彫り込んである。極細の技術に目をみはった。
パリに留学したこともあり、長谷川潔と交流が合ったらしい。長谷川の作品も「木の葉の上の魚」「狐と葡萄」の2点が展示されていた。
白い壁の広い部屋に白黒の版画作品が整然と並んでいる。観覧する人もまばら。ベンチに座り、部屋をゆっくり見まわす。美術館で過ごす、こういう空間、こういう時間が愛おしい。作品が有名かどうかよりも、どんな気分で鑑賞できるかの方が大事。
外へ出ると、一月以上ぶりの晴天で海がきれいに見えた。潮騒も心地よく聴こえた。
さくいん:逗子・葉山、パリ、長谷川潔
先月のこと。
必要があって英語で電話会議をした。久しぶりのことでとても疲れた。ぐったりした。
休肝日なのにビールを呑み、柿ピーわさびを食べてようやく気落ちが落ち着いた。
これが日常だったときもあったのに。10年以上前のことだけど。
「昔は俺だって」などと口にすると、まるで『きかんしゃやえもん』。情けない。
でも、つい考えてしまう。スキルがなかったわけではない。ただ、メンタルが弱すぎた。
横柄な態度や無理難題に接すると硬直してしまい、受け流したりできなかった。
だから激務に耐えられず、易々と心を病んでしまった。そして、違う職業人生を選んだ。
いつも、何ごとでも、最善の策を選んできたはず。過去は忘れろ。今を生きろ。
さくいん:労働、英語、日常、うつ病
昨年BSで放映して好評だったドラマ『団地のふたり』(藤野千夜原作)を毎週楽しみに見ていた。
小泉今日子と小林聡美の掛け合いは面白かった。最終回では、小泉今日子は本領を発揮、小林聡美も芸達者なところを見せた。由紀さおりや名取裕子ら、配役も豪華だった。
一つ、とても強く心に残ったこと。グリーフがモチーフの一つになっていること。
二人は小学生のときに亡くなった友人の思い出をとても大切にしている。命日には、花を持って母親を訪ねてもいる。子ども時代に亡くなった子のことをいつまでも覚えていてくれる友人がいたら、母親はうれしいに違いない。
50代になっても、子ども時代に亡くなった友だちを悼む気持ちを持ち続けている。それはとても素敵なこと。そう思った。
18歳で亡くなった姉と仲良くしてくれていた友人たちは、いまはどうしているだろう。
覚えていてくれてるかな。思い出してくれる日もあるのかな。そんなことを考えたりした。
以前、お墓の名刺入れにメッセージが入っていたことがあった。「いつも思っています」と書かれていた。ほかの人たちも覚えていてくれている。そう思いたい。
団地といえば、同じNHKのドラマ『しあわせは食べて寝て待て』も二人で見た。こちらは主人公が難病という設定だったために、すこし暗い雰囲気がありつつも、話は面白かった。設定も展開も突拍子がなくて、団地を舞台にしたファンタジーを見ているようだった。
さくいん:NHK(テレビ)、小泉今日子、悲嘆(グリーフ)、自死遺族
いま住んでいる戸建てに住む前はURの団地に7年住んでいた。2002年の夏に住みはじめ、2009年の冬に戸建てに越した。
団地に住んでいた時期はちょうど子どもたちの成長期だった。娘は一輪車を覚え、息子は自転車やキャッチボールを覚えた。子ども向けの行事もあって暮らしはそこそこ楽しかった。二人ともここで小学校に入学した。団地にはいい思い出が多い。
ただ、2LDKの部屋は狭かった。北側の部屋はほぼ納戸になってしまい、リビングと寝室の二部屋で暮らしていた。はじめは四人で川の字になって寝ていた。そのうち、私が仕事で遅くなることが増えて、夜、リビングを片付けて布団を敷いて寝ていた。
リビングにはテレビと食卓とソファのほかに子どもの勉強机が二つあったので、親が寛ぐ場所はなかった。あの頃は、残業も読書も『庭』を書くのも、食卓でするしかなかった。
転居したのは、娘が小学六年、息子が四年の冬。結果的に、このタイミングはよかった。中学に入ってからでは、家に娘の居場所がなくなっていただろう。新居ではそれぞれに部屋を持てた。でも娘は中学時代は楽しくなかったと嘆く。一方、息子はいまも交際が続く親友を見つけられた。人生設計はむずかしい。転勤の多い家族はもっと苦労が多いに違いない。
私たちが住んでいた部屋は、今は保育施設になっている。1階の角部屋で遊具のある広場に面している。保育施設としても最高の環境だろう。
さくいん:HOME(家族)
横浜そごうの紀伊国屋書店で見つけて、図書館で借りてきた。上下に分かれているけど、横浜市の中心である中区と西区、私の地元である金沢区が掲載されている上巻だけを借りてきた。
私の実家付近の地図もある。昭和30年でもまったく開発されていない野山。昭和60年には完全に宅地になっている。この30年間で景観が大きく変わったことがわかる。
昭和60年の地図には祠のある小山が残っている。宅地が造成されてからあとも長く残っていた。私たち子どもは、張り付けられた大きな看板からその山を「安全第一の山」と呼んでいた。その小山も切り崩されていまは宅地になった。しばらく鳥居が残されていたけれど、それもいまはなくなり、跡にアパートが建っている。
知らない人はそこに小山があったことも、その前には小山の頂上の高さまで野山が広がっていたことも想像できないに違いない。
横浜の現代史は海についても山についても、大規模開発と自然破壊の歴史と言い換えて差し支えないだろう。そういう場所で、私は育った。ここでも、私は「暴力の受益者」だった。それを忘れてはいけないし、許してもいけない。私はどう罪を償えばいいだろう。
横浜はよく神戸と比較される。古い港町で海と丘があり、洋館や中華街があるなど確かに共通点は多い。私は横浜育ちだけど、神戸のほうが趣があるような気がする。
山が海岸の際まで近づいていて豪快な景色が神戸にはある。街が小さいということは裏を返せばコンパクトということ。
横浜にもいいところはたくさんあるけど、あまりにも大きくなりすぎてしまった。大正、戦前、戦後の地図を見比べるとそれがよくわかる。
馬車道、みなとみらい、山下公園、中華街、元町、山手。これだけを廻るためには1日では足りないだろう。神戸ならもっと手短に街を見てまわれるはず。
個人的にも、神戸での仕事にはいい思い出がある。
さくいん:横浜、神戸
東京では9月のあいだずっと雨だった。きれいに晴れたのは銀座へ行った日くらい。10月に入り、ようやく秋晴れの日が増えてきた。そんな好天に恵まれた連休の中日に妻を誘って神代植物公園へ出かけた。
バラフェスタが開催中で混雑は予想していた。そこで、いつもと順序を変えて、昼前にまずそば屋、多聞へ行った。10時半に到着したのにすでに列ができていて入店まで30分以上待たされた。店内でのサービスは迅速でゆっくり昼食を楽しめた。
多聞を出て深大寺の参道を歩いて植物公園の深大寺門から入った。どの店の前にも長蛇の列ができていて、最近の深大寺人気を感じさせた。
バラ園では、秋晴れの下、色とりどりのバラが咲いていた。写真は、ジャニナ、タマンゴ、ホワイトマジック。最後の写真は大温室にあるベゴニアの花手水。
お昼にビールを呑んだせいで、いつものように帰りのバスでぐっすり眠ってしまった。
妻は週末、ジムに行くか家で平日に食べる常備菜作りで忙しくしている。久しぶりに二人で休日を楽しむことができてよかった。
さくいん:神代植物公園