橋のない川、単行本、第一巻、表紙

夏休みの読書。

先月、愛読した小説リストをつくったとき、住井すゑ『橋のない川』だけ、『庭』のなかできちんと感想を書いていなかったことに気づいた。この小説は中学三年生のとき、『破戒』とともに母に強く勧められた。高校時代にかけて全六巻を読み、しばらく時を経て出版された第七巻も読んだ。

あらすじは覚えているけれど、40年以上を経てきちんと読み返したうえで感想を書きたくなり、6冊セットを「日本の古本屋」で購入した。文庫本のつもりで注文したところ、届いたのは単行本だった。しかも、全巻二段組み。

これでは読みにくいので、第六巻を文庫本で買いなおした。6冊を読み通す気力はないし、名作は「うしろ」だけを読んでもいいと斎藤美奈子に教えられたので、話に一区切りのついた第六巻だけを夏休みに読み返すことにした。

文庫本の表紙を開いてまず驚いた。装丁は牛島憲之とある。私の好きな画家の一人。彼の名前を知ったのは2002年に府中市美術館に行ったとき。そのずっと前に出会っていた。

小説を読むのは久しぶり。情景がまざまざとまぶたに浮かぶ。この感覚は快い。ふだんはエッセイを好んで読む。そうでなければグリーフケアに関する専門書か。

小説をあまり読まないのは小説が嫌いだからではない。むしろ、私は小説は好き過ぎるのかもしれない。物語に没入してしまい、現実に戻れなくなる。要するに、私は小説に弱い。だから、小説を読んでいると、早く先が知りたいような、いつまでも作品の世界に閉じ込められていたいような不思議な気持ちになる。


読みはじめた第六巻は関東大震災の直後に始まる。兄の誠太郎は大阪で婿入りしている。弟の孝二は学校を出ている。水平社もすでに創設されている。

前半は、関東大震災後の朝鮮人虐殺に対する著者の厳しい批判を織り交ぜながら、奈良の貧しい農村の暮らしぶりが細やかに描かれている。祖母のぬい、母のふで、息子の孝二、そのつましい日常が目の前でテレビドラマを見ているように描写されていて、情景描写が上手くない私はその表現力に驚きながら、次第に物語へ没入していく。


この小説には、一つ忘れられない場面がある。孝二が教室の窓から見える梅の木の花が赤か白かで恋心を打ち明ける決心をしようと思い悩む。紅白、どちらが告白する方だったかは忘れた。でも、少年の恋心はひしひしと伝わってきた。確か、中学三年生の頃で、私も初めて異性を思う気持ちに揺れていたからだろう。

今回、この場面を探してみたけど見つからなかった。AIにも調査を依頼しても、見つけることはできなかった。

もしかすると、ほんとうはそんな場面はなかったのかもしれない。孝二の恋心を描写した文章に自分の気持ちを重ねていただけかもしれない。

しかも、私はもっと重要なことを忘れていた。孝二が思いを寄せていた少女、まちえは、明治天皇の大葬の日に孝二の手を密かに握った。孝ニはそれを好意からと思っていたけど、実は彼女の被差別部落民に対する差別意識から生まれた行動だった。そんな重要な点が私の記憶からはすっかり抜け落ちていた。

当時、私はどこまでこの小説の本質をつかめていたのだろうか。『橋のない川』にしても『破戒』にしても、当時、住んでいた横浜の新興住宅地では目に見える差別がなかったので、物語の底に秘められた核心を汲み取れていたのか、はなはだ心もとない。もっとも、差別や格差はあったのに、幼くて愚かだった私が気づかなかっただけかもしれない。


本書では被差別部落への差別に対する糾弾はもちろん厳しい。貧しい暮らしのなかにあるさまざまな苦しみも、ささやかな喜びも、「だから」差別が憎い、そして悔しい。「だけど」差別はなくならない。そんな風に、すべてが差別につながる。そのうえで、差別の体系の源に天皇制があるという信念が本書には貫かれている。

「生まれつき貴いといわれる皇族さんやの華族さんやのが居てるかぎり、一方には生れつき賤しいというてさげすまれる者が居てるのは一つの道理になるさかいな。だけど、こんなのは人間の欲がこしらえた片道理で、天の道理やあらへん。」

昨今、いわゆる左翼やリベラルと呼ばれる人たちは、皇室典範改正に反対するロジックとして女性天皇を是認することになり、結果として戦後の象徴天皇制を肯定する立場に身を置くようになっている。

要するに、本書のように徹頭徹尾、天皇制に対して批判的な立場をとる人は現在、あまり多くない。その点、日本社会における門地による差別の根源が天皇制にあるという言説は、効力を失っているのだろうか。言葉を換えれば、いま、『橋のない川』を読む意味は、どこにあるのか。単に歴史を学ぶだけなのか、現在を批判的に見るため批判的視座はないのか。

現代社会において差別の問題は非常に複雑になっている。門地による差別もなくなってないうえに、ジェンダーや障害者、ひとり親、外国人。差別の理由は挙げていればキリがない。

そのすべての根源に天皇制があるとは言えないだろうし、かといって、象徴天皇制が被差別部落に代表される門地による差別を解消したとも言えない。いわゆる同和問題は、解決されないまま、多くの新しい差別のなかに埋もれてしまっているのではないか。

本書を読み返して、象徴天皇制を無自覚に擁護する「ゆるい」左翼やリベラルが抱える脇の甘さを見透かされたような気がした。


この作品は差別と貧困の不条理を訴えるだけではない。それらを変革しよう、しなければならない、という強い意志を秘めている。

例えば、農民運動大演説会で冷飯草履を突っかけたある農婦が語った言葉。

「(前略)私どもは、この世に生まれてくる人の子は、人の子として一人残らず平等に勉強ができて、さうして生涯、自分の性に合うた仕事に汗を流して働くことができて、この世は生甲斐のある所だったと満足してあの世に行ける、そんな社会を築きあげたいのです。」(「生々存々」)

その情感(おもい)は「そのまま孝二たちの情感でもあった」と書かれている。解説も、本作の核心を力強さに見ている。

そこに三浦綾子『泥流地帯』との違いを見るのは間違いだろうか。『泥流地帯』の主題は、貧しさや不条理のなかにあっても、「真面目に生きるとはどういうことか」という問いかけにあると私は感想に書いた。それは、受容するとか、甘受するということではもちろんない。『泥流地帯』のほうにも、「そうか、先生に叱られても、自分で正しいと思ったことは、した方がいいんだな」という言葉が、弟の耕作の思いとして書かれている。

『泥流地帯』には、どんな境遇にあっても、「真面目に生きる」意味がある、という信念が込められている。

一方、『橋のない川』には、不条理な境遇は「変えることができる」「変えていかなければならない」という信念が込められている。

二つの作品には、信仰と社会運動という背景の違いもあるだろう。その違いは、不条理な境遇に対する信念の違いであり、安易に優劣で語れるものではない。それぞれに価値がある信念であり、それぞれに、多くの人々が通ってきた道でもある。

水平社活動に精を出す小森の人たちの姿を読みながら、白人に席を譲らなかったローザ・パークスと彼女を支援してバスの乗車ボイコットを続けた人たちを思い出したりもした。


貧困を知らずに生きてきた私が、『橋のない川』や『泥流地帯』については、そもそも語る資格がない。それでも、読んだ事実は書き残しておきたいし、読後に思ったことも書いておきたい。

貧困を知らない私も、さまざまな不条理を経験している。それは、いまは書かない。その不条理に対し、どう向き合えばいいのか。それは私が解決しなければならない問題であり、ここに書けば済むことではない。

お前の生き方はそれでいいのか

誠太郎も孝二も、ふでもぬいも、秀昭も、私にそう問いかけている。


さくいん:住井すゑ斎藤美奈子牛島憲之府中市美術館初恋奈良三浦綾子


1967年 - 1973年発行の単行本。上の写真は第一巻の表紙絵(一部)。

橋のない川、全六巻