「自殺とは「自分を殺す」ことなのか?」と問いかけたとき、Twitter(現X)で勧められた本。図書館で借りたけど、とても2週間で理解できそうになかったので、去年出版された文庫本を買って読んだ。
蛍光ペンで線を引きながら読んでみたけど、哲学(古代も現代も)の素養がないので、読むには読んだものの理解できたとは言い難い。アーレントを論じた章だけは少しわかった気がした。文庫本には単行本にない小論が付されていて、これも比較的わかりやすかった。初学者は第一章を読んでくじけそうになったら、こちらを先に読むといいだろう。
以下、書き取ったメモだけを残しておく。いつか再読するために。
中動態について
- 能動隊と受動態のあいだ
- 理性と欲望のあいだ
- 意志と行為のあいだ
- 行為と責任のあいだ
- 免責と引責のあいだ
中動態と自死について
- 自殺と他殺のあいだ
- 「殺す」と「殺される」のあいだ
- (意志以前の)「選択」(プロレイアシス)としての自死
- 「自然の勢い」としての自死
- 当事者研究(自然現象)としての自死
読み終えて、自死は自殺という「行為」ととらえるよりも、ある「現象」として考えるべきなのではないか、と思った。
自死は、熟慮をして判断を下した行為とは思えない。追い詰められて、冷静に考える余裕を失い、突発的に行動した結果、ではないだろうか。少なくとも、私の身近で起きた自死は皆そういうものだった。
自殺・自死一般について考察したり論じたりするつもりはない。身近で大切な人に起きた自死についてだけ、私は考える。そのために専門書を読むことはあっても、身近に起きた自死から一般論を抽出しようとは思わない。
さくいん:自死、ハンナ・アーレント
母の91歳の誕生日を逗子のレストラン、ラ・ヴェルデで祝った。
前日昼に実家へ帰り、母を美容院へ連れていった。100歳の祖母が健在という美容師さんは高齢者にとてもやさしいので助かっている。散髪のあとは金沢文庫、すずらん通りにある海鮮居酒屋、地球食堂で夕食を済ませた。
日曜日は朝、早めに家を出て、逗子・葉山駅からバスに乗り長者ヶ崎へ。天気がいいので江ノ島がよく見えた。富士山も見られるかもと期待していたけど、まだそこまで空気は澄んでいない。もっと寒くなってからまた来る。
誕生会には孫にも集まってもらった。代わりに、元日の全員集合はしない。大勢の応接はもうできないので。最小限の人数で母を見守る。
レストランまで歩く途中で「今日はみんな集まるけど、みんなって誰だかわかる」と尋ねたところ、頭文字をヒントにしないと孫の名前が出てこなかった。
レストランでは「皆に会えてうれしい」と何度も言って喜んではいたものの、「新婚生活はどうか?」「高校は楽しいか?」といった一人一人の近況に応じた会話はできていなかった。
来年は、この会の開催も難しいかもしれない。一人暮らしももう長くはできないだろう。
この日は実家に泊まった。翌朝、母をデイサービスに送り出してから家を出た。美術館に寄り道しようかとも考えたけど、雨も降りそうで、そういう気分になれなかったのでまっすぐ帰宅した。
さくいん:HOME(家族)、逗子・葉山
4連休の最終日は府中市美術館で「ボタニカルアートとデザイン」展。
歴史がよくわかる構成だった。博物学的関心に始まり、上流階級の庭園の記録、植民地の稀有な草花のコレクションへ。そして、ウィリアム・モリスによる日常生活への導入。いま、身の周りに草花をモチーフにしたデザインが当たり前のようにある。それはモリスの革新的なデザインのおかげ。跡を継いだジョン・ヘンリー・ダールの功績も大きい。
写真が実用化される前に博物学的な関心から描かれた植物の図は、東洋文庫ミュージアムでも見たことがある。「植物画はときに写真よりも特徴をつかんで表現できる」という解説文にも納得した。
企画展とテーマを重ねた常設展もよかった。高橋由一「墨水桜花耀の景」、富田有紀子「723」、靉光「花」、そして牛島憲之「残夏」「凪ぐ」、私の好きな「白南風」。
先日、大混雑の新国立美術館でダ・ヴィンチを見たときよりも、何倍も「美」を浴びて、いい美術館浴(museum bathing)ができた気がする。
駅に戻り、いつものらいおんでみそラーメン。最近、家でも外でもラーメンを食べることはほとんどない。でも、ここだけは別。コショウの効いたスープと麺を海苔でくるんで食べるとなおおいしい。スープも飲み干した。
行きは明大前から京王線の特急に乗った。帰りはバスで武蔵小金井駅へ出て、ケーニッヒでソーセージを買って帰った。
さくいん:府中市美術館、東洋文庫ミュージアム、牛島憲之