土曜日。二つの台風が到来する合間をぬって目白にある学習院大学へ行ってきた。辻邦生を回顧する展覧会の後期。前期展は辻の仕事と人柄がよくわかる、とてもよい展覧会だった。後期展は辻と関わりがあった人たちとの交流を回顧する。森有正との交流がどう紹介されているか、楽しみにして出かけた。
辻邦生の長編小説は『背教者ユリアヌス』しか読んでいない。その代わり、エッセイはほとんど読んできた。私のなかでは辻邦生は類い稀なエッセイストとして記憶されている。
森有正との関わりも、エッセイ集の『森有正 感覚がめざすもの』で読んだ。その感想に、森は≪私の世界≫の解体企図し、辻は≪私の世界≫を創作の出発点とした、と書いた。
森有正の特大写真に寄せた中条省平の文章も、辻は森を常に「先生」と呼んでいたけど、森を追従するだけの弟子だったのではなく、「経験」を重視する森に対して、「感覚」を重視したと、二人の違いを的確にまとめている。
辻は森の「経験」から「感覚」の重要性を抽出します。のちに辻は自分の文学世界を根底で支えるものを「情感的イデー」と命名するのですが、ここにはイデー(観念)という抽象的な存在に、感情や感覚の生々しい喜びをあたえようとする辻の根源的なモチーフを見ることができます。
哲学や文学を精神=観念の独裁から解き放ち、身体=感覚の経験によって豊かなものにすること、そこに辻邦生が森有正から得た最も肝要な教えがあったといえます。『森有正』の副題に「感覚のめざすもの」とあるのは、そのことの証しでしょう。
展示室の隅に森有正との交流について展示するコーナーがあった。辻が森について書いた著作や森の作品も展示されていた。
辻邦生から森有正宛てに書いた手紙もいくつか展示されていた。手紙は罫線のない紙に、小さな文字で丁寧に縦書きで書かれている。
森から辻宛てに書いた手紙も展示されていた。これはいったいどういう経緯で保存されていたのだろう。森の没後、辻が譲り受けて保管をしていたのだろうか。ほかにも、森有正がパイプオルガンを演奏したCDも展示されていてその場で聴くことができた。今回の展示は、辻の愛読者であっても森有正をよく知らない人にはよい案内になっているように思える。
辻が生涯にわたり書き続けた日記も展示されていた。円筒形のブースに開かれたノートが100冊展示されている。私ももっと手書きをしなければならない。そう叱咤されるような展示だった。
日記の展示の横には辻の言葉が添えられていた。
いちばん大事なことは、やはり胸のなかに書くことがいっぱいあるということです。書きたくてしようがなくて、あるいは、言わなきゃならないことがいっぱいあって、それを書く。たくさん書く。文章を書くというのは、ワープロを打っても同じですけれども、自分の体のなかからリズムになって、文章のかたちで出てくるというふうにしないといけない。そのためには絶えず書く。(ピアニストがピアノを弾くように)
大学のキャンパスにはアジサイがたくさん咲いていた。雨は好きではないけれど、アジサイだけは別。雨に濡れているほうがきれいに見える。
大学から目白駅まで戻り、高田馬場駅で降りた。今月は、日本にKFCを根づかせた、創業者と言ってもいい大河原毅が日経新聞「私の履歴書」書いている。
そこで、お酒も呑めるKFCの高田馬場店に行ってみたら、「アルコールの提供は3年ほど前にやめました」と冷たい言葉。なので、ふつうにチキンとコールスローのランチになった。雨が強まる前に帰宅してビールを呑みなおした。