青空と雑木林

たぶん、著者のTwitter(現X)への投稿で知った。図書館に購入リクエストを出したら、すぐに購入してもらえて、予約の順番もすぐに来た。

若い人は身のこなしが軽やか。読み終えてまずそう思った。

声に出して語る。同じ境遇の人に積極的に会いに行く。他者の語りに耳を傾ける。経験を共有する。仲間を作る、ネットワークを広げる。社会的な活動に参加する。率先して活動をリードする。

私にはできないことばかり。

性格の違いか。私は孤独癖が強すぎる「書く」ことにこだわる人文系志向も強い。

世代の違いか。もう若くはない。死別体験からの年月も長すぎて、悲しみはメルトダウンした原発の燃料デブリのように、心の奥底の手の届かないところにこじれたまま溶け落ちている。もはや他者との共有はむずかしい。あるいは、勝手にそう決めつけている。

世の中の見方に違いがあるのか。社会を俯瞰して、広い視野のなかで、自分に固有の経験をとらえなおすことができていない。自分の「固有性」にこだわりすぎている。

そうした考え方を、自意識過剰でセルフ・スティグマが強い、と言われても反論できない。その通りだから。


印象に残った言葉を最後の鼎談から。

森本:(前略)なかなか人に話せない、話せなかったという、という辛さを抱えながらずっと、大学生とか大人になってからも生きている人たちというのがたくさんいる。でも、もしオープンにできる場があれば、そこからまたほかの人の話も聴く機会ができて、そうなると、自分一人じゃないという感覚を持てたり、他の人の考え方とか感覚に触れながら、「こういう考え方もあるんだな」と思えたり、自分の話を聴いてもらって、受け止めて、フィードバックをもらうことで、「すごくこの考え方にこだわってしまっていたんだな」とか思って、楽になることもあると思うので。

オープンにできる場を見つけられずに40年以上も経ってしまったし、もしいま、そういう場があったとしても、いまさら声に出して語りたいと思わない。声に出して語る勇気もない。実際、これまでに書いたものを人に手渡したことはあっても、言葉で語ったことはない。

そして、他人の話に耳を傾ける余裕がない。余裕ではない、そういう寛大さがない。私は、自分に向けて書くしか能がない。

よだか:自分が願うとしたら、自死遺族としての体験を打ち明けたとしても、そこにプラスとかマイナスとか、何かの価値づけが起こるのではなくて、ただ自分はそういう経験をして生きてきて、だからこそ、こういうものの考え方をして、こういう生き方を選んでいるということを、対等な立場で、ただフラットに理解してくれたら、ただそれだけでいいと思っています。

まさにこれを望んできた。でも、そういう出会いはなかった。最近では、献本をしたのに無視されたことがほんとうに辛かった。もう誰にも打ち明けまい、話すまい、という決意を新たにした。リアルな世界では秘密にしておきたい


結局のところ、自分にはできないことを軽やかにこなしている若い人たちに、私は嫉妬しているにすぎない。

当事者との「語り合い」よりも、ひとりで「読む」ことと「書く」ことにこだわるのは、私の性格のせいでもあるし、うつ病の影響も見逃せない。デジタルネイティブではない昭和生まれということも関係しているかもしれない。

そもそも、若い人たちと同じ方法が私に合うとはかぎらない。比べることが間違っているのかもしれない。私は私なりの方法で悲しみをケアするしかない。

共感と連帯は、孤独を突き抜けた、その先にある。私はそう信じている。


さくいん:自死・自死遺族悲嘆(グリーフ)孤独秘密うつ病

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