公園の散歩道

『自然のものはただ育つ』を読みながら、自分の死別体験とどうしても比べずにはいられなかった。これは同じ、これは違う。そういうことをつい考えながら読んでいたので、本そのものの感想がなかなか書けなかった。なので本の感想とは別に、読後に考えたことを書いておくことにする。

まず、同じだな、と思ったこと。

一つ目。希死念慮の描写に共感した。未遂こそしていないけど、うつ病が重かった頃には、布団のなかで雪深い山奥で冷たくなる夢を何度も見ていた。

  自死未遂または自死をした人たちは、必ずしも自分を殺したいわけではない。むしろその苦痛が、肉体の存在を消すことでした終わらせることができないようなものなのだ。(20 生きる価値があることと、生きる力があること)

この言葉はよくわかる。「死にたい」のではない。「消えたい」、あるいはもっと他動的に「都会の闇に消えそう」(小田和正「君住む街へ」)な心理。私の希死念慮は、そういうものだった。

長男を亡くしたあと、残された弟も自死してしまうのではないかという不安を著者は抱えていた。そして、その不安は不幸にも現実のものになった。

私の場合、残された弟が自分だったから、十代のあいだ、とりわけ姉が亡くなった18歳の前後には、自分も自死を選んでしまうのではないかという不安から逃れられずにいた。幸い、私は姉と同じ道をたどらなかった。

次に、子が自死するかもしれないという不安。子どもたちには秘密にしていても、家族に自死した者がいて、自分も心の病にかかっているので、子どもたちも同じようになってしまうのではないか、という不安は、彼らが思春期のあいだにはとくに強かった。

それから、大切な人を亡くして感じる、時間が止まったという感覚。リーは「いま」しかない、と書いている。この心理もわかる気がした。ただ、私はこの感覚を悪いものとは思っていない

家族を自死で亡くしたあと、周囲が驚くほど冷静で、それまで通りの暮らしを送る。この心理についても身に覚えがあった。亡くなったのが2月6日の金曜日。土曜日に通夜、そして日曜日に葬式。月曜日だけは学校を休んだものの、その後は休まず登校した。

3月の卒業式には、卒業生代表として「歓喜の歌」を独唱した。音楽科の教員が申し訳なさそうに提案した申し出を私はよく考えずに承諾した。いまから思えば誘う方も誘う方だし、受ける方もどうかしていた。私の場合、事実を受け入れないようにしていたのかもしれない。

死別の事実と向き合い、心の整理をはじめるまでには20年近くかかった。そして、それを自分のなかで一段落させるまでに、さらに20年かかった。そのあいだ、死別体験当時よりも苦しい気持ち、悲しい気持ちになるときがあった。

だから、私は密かに心配している。いまは冷静を装っていても、著者の心の底に蓄積されていく悲しみが後々、彼女を襲うのではないかと。本を読むかぎり、非常に精神力が強い人ということはわかる。それだけに反動もあるのではないかと思わずにいられない。もっとも、そう思うところに私の弱さが露呈しているかもしれない。

悲しみは、終わらせたり、霧消させたりするものではない、というリーの考え方にも強く共感する。ひょっとすると彼女はグリーフケアという言葉が嫌いかもしれない。

  私の悲哀に終わりはいらない。子どもの死は熱波でも吹雪でもなく、急いで駆け抜けて勝つべき障害物競走でも、治すべき急性や慢性の病気でもない。(11 奈落の底が住処に)

悲嘆とともに生きる。この姿勢には学ぶところが大いにある。

では、本を読みながら、違うな、と思ったこと。

まず、大きな違いがある。子を亡くした親と、兄姉を亡くした弟では受け止め方がまったく違う。親は大人なので、大切な人を亡くす前にも人生がある。だから死別はこれまでと違う新しい体験といえる。一方で、幼い頃に親や兄弟を亡くした人は、人生の初期から喪失感を抱えている。あるいは、喪失感のなかに人生があるという言うべきか。「人生には自分の力でままならないことがある」という制御不能感も強い。

リーは「苦しみ」とは書いても、「悲しみ」とはほとんど書かない。「悲しみ」は省略化であり、単純化であるとさえ書いている。私は「悲しみ」に埋没してしまう傾向がある。三木清は否定的にとらえた「感傷」という感情も、嫌いではなく、むしろつい惹かれてしまう。

彼女には人的資源、すなわち友人が豊富。本書のなかにも、著者を慰めたり、励ましたりしてくれる人がたくさん登場する。その点はとてもうらやましい。私の場合、死別体験の当座には誰も慰めてはくれなかったし、それ以降、いまでも、理解ある言葉をかけてくれる人はほとんどいない。これは社交性の欠如という私の性格によるところも大きい。その性格は、誰もが知るところとなったリーの場合と異なり、死別体験をずっと秘密にしてきたことに由来すると自分では思っている。本書を読んだことも家族には話さない。また一つ、秘密が増えてしまった。

うつ病で精神科に通っている。医師はうつ病に関してはとても細かく配慮してくれるけど、生活史として伝えた死別体験についてはほとんど助けになってくれない。そのことに触れずにいることがうつ病の回復に有効と思っているようにも見える。それはそれで、正しい見方かもしれない。だから、ふだんかかっている医師とは別にグリーフケアを目的にカウンセリングを受けた。これはこれで、とても有益だった。

一口に自死遺族といっても、それぞれの経験は異なり、受け止め方も違う。それは当たり前のこと。だからといって比較は無意味ではない。比較してみわかることもある。

こうして、イーユン・リーと自分を比較してみてわかったことがある。それは私の性格が、内向的で、おセンチで、孤独癖が強く、そして、弱い、ということ。

同じようなテーマでありながら、私が書いた本が、リーが書いた本のように多くの人には読まれていない理由も、そのあたりにあるような気がする。

私の性格には自虐的なところがある、ということも蛇足を承知で書いておく。


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