テレビの健康番組では「孤独感は健康を蝕む」と警告していた。その理由は私にもわからないものではなかった。でも、何か腑に落ちないところもあった。
ふと、ベッドの枕元に置いたままになっている『キリストにならいて』を開いたら、「人は孤独を恐れるべきではない、むしろ孤独を選ぶべき」、と強く勧めていた。
いったい、人は孤独を避けるべきなのか、孤独に浸るべきなのか。
『キリストにならいて』の「第10章 多言を避けるべきこと」には次のように書いてある。
- 1. できるだけ人々との集合を避けよ。あちこちの出来事nについていろいろのことを聞くのは、たといそれが純粋な動機から語られたとしても、大きな妨げになるからだ。
- 2. わたしたちはたやすく汚れ、むなしいもののとりこになりがちである。
- 3. わたしは、沈黙を守ればよかった。人中へ出なければよかった、と思うことがしばしばある。
- 4. だのに、なぜわたしたちは良心を傷づけられずに自分の孤独にかえることがまれであるにもかかわらず、互いに無駄話や雑談にふけることを好むのであろうか?
- 5. わたしたちが雑談を好むのは、人と話し合うことによって慰めを求めるからだ。
- 6. またわたしたちは自分の性に合ったことや、好きなことや、自分の最もきらいなことなどを話したがるものだ。
- 7. しかし、ああ、それはしばしば徒労に終わってしまう。
- 8. というのも、この外からの慰めは、内からの慰めの妨げとなることが少なくないからだ。
- 9. だから、わたしたちは自分の時間を無駄に過ごさぬように目を覚ましてつつしまねばならない。
これを読んで、「孤独に浸るべき」という意見に強く同意する。それは「内からの慰め」を得られる精神生活を大切にしたいと思うから。
親しい人と会って、「よかった」と思うこともないわけではない。でも少なくとも私には、そういうことは稀にしかない。人と会って後悔することのほうがずっと多い。
人と会うことを完全にやめてしまうのもよくない。会って「よかった」と思うときもあるのだから。
大切なことは、自分の精神生活を最優先にすること。人と会うならば、よかったと思えるような時間にできるよう努力すること、ではないか。
どうすれば人と会う時間を有意義にできるか。簡単ではない。どんな準備や工夫をすればいいか。もっと熟慮が必要。