青森の民家

平山家住宅  国指定重要文化財 (昭和53年1月21日指定)
青森県五所川原市湊字千鳥144-1
建築年代/明和6年(1769)
用途区分/大庄屋
指定範囲/主屋・表門
公開状況/公開
五所川原市中心部の少し南に在る菊ヶ丘運動公園の脇に所在する旧大庄屋邸宅である。旧湊村が開村した正保2年(1645)以前からこの地に住み、藩政期には代々庄屋を、幕末には大庄屋職を拝命するとともに、津軽藩広田組代官所の手代を務めたという旧家である。住宅は桁行17間、梁間6間に及ぶ長大な建前で、単調になりがちな前側の面構えを切妻屋根の背高な玄関を突出させ、台所前で屋根を切り上げ高窓を開くことで変化を持たせ、美しい外観を演出している。室内については、幕末以降の他の県内民家とは異なり、大振りな部屋割で、座敷は簡素な床飾りながら威厳を感じさせてくれるものである。東北地方を代表する民家に相応しい佇まいである。
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笠石家住宅  国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
青森県十和田市奥瀬字栃久保80
建築年代/18世紀後半
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
県中央部の十和田湖に端を発し、東岸の太平洋に注ぎ込む奥入瀬川を遡った上流部の山間地に所在する農家建築である。その立地から嘗ては十和田神社に詣でる人々の参詣宿を営んでいたこともあったらしい。建物は桁行9間半、梁間5間半の中規模なもので、土間部の殆どを馬屋に割く様子は馬産が盛んな旧盛岡藩領の民家らしい特徴である。床上部は全て板敷で、正面以外に開口部は無く、他の三方は全て竪板張の板壁となっている。内部も含めて壁には土壁が無く、間仕切りも全て板戸とするため、薄暗い室内の風情は土俗的かつ根源的な風情に満ち、ある種の力強さを感じずにはおれない。良い家である。
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江渡家住宅  国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
青森県三戸郡五戸町荒町17-1
建築年代/18世紀後半
用途区分/郷士・農家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
県東部の五戸町の中心部に近い高台に所在する郷士住宅である。南部藩五戸代官所の下役を務めたという旧家で、主屋は天明年間(1781-1789)に建てられたと伝える。ほぼ北面して建つ桁行12.5間、梁間6間の大規模な茅葺寄棟造の建前で、上手には正形四間取を基本とする大小5室から成る座敷を設け、前面には式台玄関が付属する。中手には普段の生活の場となる常居や居間などが喰違に配され、全体に部屋が細分化されている。下手3間の土間については、馬産の地である盛岡藩領に在りながら馬屋が無い。建築年代を考えたとき、座敷部の意匠や造作、天井や建具など、当地方としてはかなり質の良い造作がなされており、特別な家柄であったことが想像される。
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高橋家住宅  国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
青森県黒石市中町38
建築年代/宝暦13年頃(1763)
用途区分/商家(米穀商)
指定範囲/主屋・板塀・米蔵/味噌倉・文庫蔵
公開状況/公開
重伝建地区に選定される黒石市中町の商家群は、僅かな範囲ながら雪国特有のコミセが続く国内で最も美しく印象的な町並ではないかと思う。当住宅はその中心部に所在する商家建築で、時代が下る他の町家と比較して派手さは無いが、燻銀のような渋さがある民家である。当家は、代々「理右衛門」を襲名し、屋号を「米屋」とする黒石藩御用の商家で、宝暦5年に現在の屋敷地を買入れ、13年には主屋を建築、その後の明和、寛政年間に敷地を拡げて、現在では間口39m、奥行47mの中町で最大の間口を持つに至る豪家である。主屋建物は桁行6間、奥行11間の縦長の平面で、右手に通り土間、左手を2列に分けて片側5室続きの計10室を並べる。採光に労する薄暗い室内に居ると刻限を超越する感覚に陥るから不思議である。
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石場家住宅  国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
青森県弘前市亀甲町88
建築年代/18世紀前半
用途区分/商家(雑貨荒物商・肥料商)
指定範囲/主屋・板塀
公開状況/公開
弘前城亀甲門を出た外堀端の四辻の角地に所在する弘前藩御用商人の邸宅である。代々、「清兵衛」を世襲し、屋号を「マルセ」と称して主に藁工品や荒物を扱ったという。現在は酒販売業を営んでおられる。城の門前という要所に建ちながら約450坪程の敷地を有し、桁行8.5間、梁間8間の大規模な主屋を構える様子は御用商人に相応しいものである。恐らく雪国においては、蓑や藁沓、馬沓などは暖国には想像が付かないほどに大事なものであったに違いない。建物は、解体修理の際の調査から、19世紀初頭に他所から移築されたものであることが判明しており、構造手法から当初の建築は18世紀前半頃ではないかと推測されている。室内の間取りは整形ではあるものの、各々の部屋割は大きく、豪家に相応しい建前である。
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津島家住宅  国指定重要文化財 (平成16年12月10日指定)
青森県五所川原市金木町朝日山412-1
建築年代/明治40年(1907)
用途区分/地主・金融業
指定範囲/主屋・文庫蔵・中の蔵・米蔵・煉瓦塀
公開状況/公開
津軽半島の中央部に位置する旧金木町の中心地に所在する商家建築で、「斜陽館」、「太宰治の生家」と云った方が判り易いかもしれない。様々な雑誌に取り上げられ、太宰治が資産家の出自であることの証として紹介される機会も多いようであるが、実際に彼の存在を横に置いても見るべき建築であると思う。町を縦断する表通りに西面して建つ入母屋造妻入の主屋は圧巻で、建築面積193坪を誇る大建築である。室内は居室部を中心に和風を基調とするものの、店舗部や応接間、階段等は洋風意匠でまとめられている。当住宅が建築された多額納税番付で県下第4位となり、200町歩もの田畑を有した頃の威勢は、戦後の農地解放で失われたが、勘当同然で家を出た太宰の存在によって住宅だけでも今に残る結果となったのは実に皮肉なことである。
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笹森家住宅
(弘前藩諸士住宅)
国指定重要文化財 (平成28年2月9日指定)
青森県弘前市若党町72
建築年代/宝暦6年(1756)以前 
用途区分/武家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
弘前城址の北方、仲町伝統的建造物群保存地区内に所在する中下級武家住宅である。そもそもは同地区内ながら、現在地から北東の小人町に建てられていたが、現地での保存が困難であったため、平成7年に当時の所有者である小野家より寄贈を受けた弘前市が平成24年に現在地に移築復元したものである。宝暦年間作成の「御家中屋舗建屋図」に佐々森傳三郎の住家として記載されていることから、それ以前の建築であることが判明しているが、玄関や座敷なども含めて実に簡素な佇まいとなっている。弘前市内の各所に分散していた武家住宅を当伝建地区内に集めるやり方を個人的には否定したいところではあるが、地区内外に所在していた武家住居を簡便に比較できるところは有難い。
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対馬家住宅  国指定名勝 (昭和54年5月31日指定)
青森県弘前市宮舘字宮舘沢26-21
建築年代/江戸後期
用途区分/大庄屋
指定範囲/庭園・主屋
公開状況/公開
東北を代表する名峰・岩木山の東麓に所在する高杉組の旧大庄屋邸宅である。幕末から明治期にかけて旧弘前藩内で流行した大石武学流の書院庭園を有することから名勝に指定され、「瑞楽園」の名称で知られているが、屋敷内の東端に残る幕末期建築の主屋も約152坪と大型で、大庄屋職に相応しい規模のものである。内部は一時期老人ホームとして使われていたこともあり、随所に改造が成されているが、座敷周辺はそのまま残り、縁側に坐して眺める庭園は大きく力強いものである。今は故あって隣家に移築されているが、嘗ては主屋の南西に庭園に面して別棟の座敷が建てられており、そこから眺める庭園は岩木山を借景に殊更素晴らしいものであったそうである。
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坪田家住宅  青森県指定文化財 (平成14年11月18日指定)
青森県青森市浪岡町浪岡字岡田43
旧所在地・青森県青森市浪岡町王余魚沢字北村元4
建築年代/江戸末期
用途区分/農家・茶屋
指定範囲/主屋
公開状況/公開
浪岡町の中心部に近い「中世の館」の対面に移築・保存されている農家建築である。嘗ては現在地の東方、青森空港近くの山間部に所在していたもので、昭和40年頃に上北郡野辺地町の馬門温泉に移築されたが、平成4年に現在地に再移築されるという流浪の来歴を持つ。大豆坂街道沿いの王余魚沢に在った頃は、茶屋を営んでいたとのことで、床上部の中ノ間、前ノ間の前面に縁側を突き出し玄関と帳場を設える様子は、その特徴とされている。また前面の屋根を切り上げ、採光用の窓が開かれているのは、この部分にのみ2階が設けられているためで、雪が深く積る季節には、重要な役割を果たしたに違いない。桁行12間、梁間4間の横長の建物で、堂々たる風情が好ましい。
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岩田家住宅  青森県指定文化財 (昭和60年4月27日指定)
青森県弘前市若党町31
建築年代/寛政〜文化年間
用途区分/武家
指定範囲/主屋・藥医門
公開状況/公開
弘前城址の北側、「弘前市仲町」の名称で国の重伝建地区に選定される若党町に所在する旧武家屋敷である。東西筋の北側に屋敷を構える当住宅は、屋敷正面に薬医門を構え、その奥に「つぼ」と称する鑑賞用の庭を介して、主屋を配置する。主屋は、平面的には曲屋の間取りとなっているが、茅葺の直屋根に対して東側の土間部分を柾葺の別棟で突出させる建前となっており、外観的には曲屋に分類できるものではない。桁行7間、梁間4間の小規模な建物で、内部に座敷は設けるものの長押も打たない簡素な造作である。住宅は江戸後期の建築後、曳家や改造が繰り返されたらしく、住宅の名称となっている岩田家も明治期からの住人で当初の所有家は不明である。
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伊東家住宅  青森県指定文化財 (平成17年3月14日指定)
青森県弘前市若党町80
旧所在地・青森県弘前市元長町
建築年代/19世紀初期
用途区分/藩医
指定範囲/主屋
公開状況/公開
国の重伝建地区に選定される「弘前市仲町」内に昭和55年移築保存された医家住宅である。移築前の所在地である元長町は弘前城址を挟んで現在地からは対称位置となる城の南東角辺り、追手門に近い場所で、伊東家は代々藩医を務めた家柄であったらしい。藩医という役柄は藩によっては微禄で、重用されたというには程遠いこともあったようであるが、津軽藩においては当住宅の位置や規模から想像する限り、相応の立場で遇された様である。同地区内に残る他の武家住宅では式台玄関を上がると畳敷の広間から座敷へと続く導線が採られているが、当住宅の場合は、玄関から板の間の広間、常居、座敷と続き、少し様子が異る。格式は高くとも武家と異なる設えが興味深い。
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楠美家住宅  五所川原市指定文化財 (平成12年11月2日指定)
青森県五所川原市持子沢字隠川695-4
旧所在地・青森県五所川原市高野字北原222
建築年代/明治19年(1886)
用途区分/地主・製材業
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【狼野長根公園内】
五所川原市の東郊に所在する県内最大級を誇る巨大民家である。そもそもは現在地の西南3km程の水田地帯に所在していたが、桁行15.5間、梁間6.5間、建築面積149.5坪を誇る大建築を、善くぞ移築・保存できたものだと感心する。藩政期の当家は弘前藩飯詰代官所の手代や漆守を務め、戦前には水田56町歩を有した大地主であったらしいが、戦後は製材業を営んだという。室内については、これだけの規模を有しながらも上方の民家のように導線上に座敷間を並べて格式を演出する方法を採らず、一部を2階建とし、小振りの部屋を各所に配置する実用本位の造作となっている。外から眺める限りには、その巨大な風情に圧倒されるが、室内に入ると不思議に気が落ち着くのは、そのためであろうか。
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小山内家住宅  弘前市指定文化財 (平成13年11月9日指定)
青森県弘前市清水冨田字寺沢125
旧所在地・青森県弘前市大字高杉字五反田
建築年代/文久3年(1863)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【弘前市りんご公園内】
弘前市の南西郊外にある「りんご公園」内に移築される農家建築である。元々は弘前から鯵ヶ沢へ向かう北西郊外の街道沿い、田圃と林檎畑が混在する街村集落に所在していたもので、昭和56年に15代当主から弘前市に寄贈されたというから、早くに土着した旧家であったと思われる。当住宅は大屋根の正面中央部に横長の煙出しを設け、窓には出格子を多用するなど津軽民家らしい外観を特徴とするが、内部の間取りにも更なる妙趣がある。座敷脇の最奥部に隠居部屋を設えたり、広間(常居)の奥に3畳程の寝間や納戸を並べるなど当時の農村住居としては珍しく小部屋を家の各所に設けているのである。都会育ちの小部屋住まいの身にも妙な居心地の良さを感じてしまう家である。
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鳴海家住宅  黒石市指定文化財 (平成10年4月10日指定)
青森県黒石市中町1-1
建築年代/文化3年(1806)以前
用途区分/酒造業
指定範囲/
公開状況/店舗として営業中
平成17年に国の重伝建地区に選定された黒石市中町に所在する造酒屋敷である。店前に雁木造の通路を設ける「こみせ」が連続して残る様子は雪国独特の景観で日本の道百選にも指定される程であるが、その中町で間口23間半、奥行43間半にも及ぶ町内最大規模の屋敷が当住宅である。創業は文化3年(1806)で現在も「菊乃井」の銘柄で醸造を続けておられるが、住宅のうち店舗や居宅部分は創業以前の建物と伝承されている。ちなみに屋敷背後の壮大な酒蔵群は大正期の建築である。当地区には他にも大正期建築の大規模な造酒屋敷が残されているが、近世町家建築が醸す独特の風格は他の追随を許さないものである。
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苫米地家住宅  六戸町指定文化財 (平成4年11月30日指定)
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬字後田87
旧所在地・青森県上北郡六戸町大字柳町字柳町16
建築年代/江戸末期
用途区分/不詳(与力?)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【道の駅ろくのへ内】
八戸と十和田を結ぶ国道45号線の中途に所在する「道の駅ろくのへ」内に移築保存されている農家建築である。間口11間、奥行5間の、この地域としては中規模な建前で、表に面して大戸を開く下手寄り3間は裏手まで続く広大な馬屋となっており、馬産の盛んな上北地方らしい特徴を示している。一方、上手には前後2室から成る畳敷の座敷があり、その前面に式台が設けられる様は、相応の格式を有する家柄であったことを示すものである。藩政期の青森県は南部藩と津軽藩に分かれ、民家にも各々の特徴が如実に顕れるが、当住宅は南部藩系の典型的な特徴を示す民家として興味深い。
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尾野家住宅  つがる市指定文化財 (平成6年4月28日指定)
青森県つがる市稲垣町豊川宮川145-1
旧所在地・青森県稲垣村大字穂積元神田
建築年代/明治25年(1892)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【稲穂いこいの里内】
津軽半島の西側、屏風山砂丘と岩木川に挟まれた津軽平野の北側一帯は、江戸中期以降の弘前藩による新田開発により拓かれた土地で、広大な田園地帯の中に街道に沿って帯状に集落が営まれる開拓地特有の美しい景観を今に伝えている。平成5年に整備された「稲穂いこいの里」内に移築保存される当住宅は、現在地から約1km程北東に所在していた農家建築で、明治中期の建築らしく軒高で、入母屋屋根の玄関を構え、広間や座敷に太く豪快な差鴨居を用いる様子は、近世農家建築には見られないものである。時代が新しいにも関わらず土間や居間部分の占める割合が高いのは、冬が厳しい当地域ならではの建前である。
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増田家住宅  つがる市指定文化財 (平成8年6月17日指定)
青森県つがる市森田町床舞稚桜4
旧所在地・青森県つがる市森田町大字上相野字小中野
建築年代/明治中期
用途区分/農家・地主
指定範囲/主屋
公開状況/公開(そば処案山子として営業中)
五所川原から鯵ヶ沢方面に伸びる国道101号線沿いの「道の駅もりた」内の芝生広場に移築保存される農家建築である。そもそもは現在地から5km程東方の五所川原寄りの田園地帯に所在しており、当家は近世に小中野村の開発や屏風山の植林に尽力し、旧森田村の村長を務めたことで知られる地主家であった。建ちが高く、座敷部を除く平面上部に設けられた2階部分は広く充実しており、出格子窓を多用し、白漆喰の真壁造とする外観は、青森の近代農家建築らしい風情である。現在は蕎麦屋として営業中なので、じっくり家を見学したい方は、昼時を少し外すと良いだろう。
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旧西沢家住宅  登録有形文化財 (平成20年3月7日登録)
青森県五所川原市金木町朝日山411-5
建築年代/昭和11年(1936)
用途区分/農家
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
国の重要文化財に指定され、「斜陽館」の名称で知られる太宰治の生家「津島家住宅」の2階北縁から外を眺めると、庭園越しに赤く錆びた鉄板瓦棒葺の洒脱な民家が否応無しに目に付くはずである。金融業を営んだ津島家と同様に目抜き通りに面してはいるものの、商家の様ではなく、実業家の邸宅の風情である。それが当住宅で、当家は礼文島出身で鰊漁で財を成した後、大正期に金木に移住し農業を営んだとのことである。しかし、住宅の建前からは、実際には不在地主的な存在だったのではないかとと推測される。昭和25年頃から旅館として使用され、現在は公有化されたものの、老朽化のため観覧もできない状態。五所川原市には何とか文化財として保存・公開の英断を是非に果たしてもらいたい。
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九戸家住宅  登録有形文化財 (平成18年10月18日登録)
青森県黒石市甲大工町10-1
建築年代/江戸後期(文化年間)
用地区分/武家
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
弘前市東方の黒石は、商家の店先に雁木造の通路「こみせ」が連続して残る町並で知られているが、そもそもは江戸初期に弘前津軽家の分家が封置され、陣屋を構えた城下町であった。旧市街の南方辺りは嘗ての武家町であったところで、陣屋址の西側に位置する当住宅も、市内に唯一残る武家住宅とされている。この住宅は津軽黒石家14代・津軽承捷氏の生家としても知られるらしいが、間口6間、奥行5間半の小規模な建物である。正面に式台玄関を構え、広間の右奥に12畳の縦長な座敷を設え、格式の高さを窺わせてくれるものの、部屋数は僅か4室のみの質素な建前となっている。支藩における武家の有り様が窺える建物である。
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坂本家住宅  登録有形文化財 (平成19年12月5日登録)
青森県三戸郡新郷村西越字日向15
建築年代/江戸後期・平成16年改修
用途区分/山村農家
登録範囲/主屋
公開状況/非公開 
県南地方で最も茅葺民家が残る集落として知られる新郷村西越地区は浅水川の上流部に位置する山間集落である。新郷村は旧戸来村と旧西越村の合併により出来た村で、旧西越村の中心集落である西越に当住宅は所在している。屋根の大棟を草で押さえた芝棟を特徴とする桁行9間、梁間5間の中型民家で、室内は冬場に建物内での作業を余儀なくされる環境を意識した間取りとなっており、幅狭な土間の両側に板敷の作業空間を配し、その上手に広間的な空間となる出居が設けられる。この出居の周囲に寝間や座敷などの小部屋を配するのは、冬場の冷気を遮断するための工夫であろう。現在は無住で、農業体験施設のような使われ方をされているらしい。
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更上閣  登録有形文化財 (平成15年10月17日登録)
森県八戸市本徒士町5-4
建築年代/明治30年(1897)頃
用途区分/実業家(呉服商・醤油醸造業・銀行業)
登録範囲/主屋・門
公開状況/公開
馬淵川の河岸段丘上に築かれた八戸旧市街の段丘端部の絶景の地に所在する実業家邸宅址である。当住宅は幕末の呉服商に始まり、明治期には醤油醸造や銀行業で財を成し、県下のみならず東北を代表する財閥に伸長を遂げた泉山家の第5代・吉兵衛氏が建てたもので、主屋は大きく玄関棟と座敷棟から構成される純和風の近代数寄屋建築となっている。昭和19年に泉山家の手を離れた後は市長公舎や結婚式場として使用され、現在は集会施設として用いられているが、式台玄関や座敷廻りの造作は手堅く、文化財として一級のものである。地域の宝として大事にして欲しいものである。
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梅田家住宅 無指定・公開
青森県弘前市若党町81
旧所在地・青森県弘前市在府町
建築年代/嘉永年間(1848-1854)
用途区分/武家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
重伝建地区に選定される弘前城下の若党町に移築保存されている旧武家住宅である。そもそもは弘前城の西濠端の五十石町に建てられたものらしいが、その後の明治5年に城址南方の在府町へ移築、更に昭和57年、当時の所有者であった梅田家から弘前市に寄贈され、現在地に再移築されている。桁行6間、梁間4間半の小規模な建物で、間取りも正四間取を基本とする単純なものである。室内に残されていた調度品の墨書きから、建築当初の住人は100石取の森家であったことが判明しており、相応の上士身分の住居であったはずであるが、座敷にさえも天井は張られておらず、小屋組も至って単純ななもので、その生活振りはかなり質素なものであったことが窺える。
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川村家住宅  無指定・公開
青森県北津軽郡鶴田町廻堰字大沢81-80
旧所在地・青森県北津軽郡水元村大字下藤代49
建築年代/(1874)
用途区分/農家
残存建物/主屋
公開状況/公開 【鶴の里ふるさと館】
五所川原市南西郊外の鶴田町にある津軽富士見湖畔に移築保存される上層農家建築である。長大な桁行の主屋正面に疑似唐破風屋根の玄関や出格子窓を設える様子は青森県と秋田県の民家にのみ見られる特徴的な造作で、非常に美しい。順序が逆だとは思うが、こうした造作は北海道の西側沿岸部に残る鰊御殿と共通性があり、何となく異国情緒を感じてしまうから不思議なものである。室内についても間取りは複雑で、上層農家ながら座敷は大勢をもてなす続き間とせず、各々の部屋が独立してそれぞれに意味を持つ設えとなっている。藩政期の農家としての分限を弁えた結果なのであろう。
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大久保家住宅 無指定・公開
青森県三戸郡五戸町倉石又重字上川原110-2
旧所在地・青森県三戸郡倉石村大字中市字大久保
建築年代/文政年間
用途区分/農家
残存範囲/主屋
公開状況/公開(隣接する温泉施設に申し出る)
八戸市と十和田湖を結ぶ国道454号線の中途にある五戸町は、嘗て馬産の地として知られ、当住宅が嘗て所在した地域は「又重野」と称する南部藩営の牧場があった土地柄である。しかし鎌倉期から昭和初期に至るまでの長きに亘って紡がれたはずの文化は、現代の著しい産業構造の変化により、いとも簡単に失われ、僅かな痕跡さえも残されてはいない。当住宅は嘗ての過酷な労働から解放された現代人が浸る温泉施設の脇に移築された江戸後期の農家建築で、「人馬が共に暮らしていた当時の生活を伝える貴重な遺産」と解説されるものの、周辺整備が過ぎてどうも実感に乏しい。
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