その1.
その2.
その3.
その4.
その5.
その6.
その7.
その8.
その9.
30代の主婦、Aさんが、「この何週間か過食が止まっています、こんなことは、はじめてです」といいます。
過食がはじまったのは、17歳のときです。
当時、両親の仲が険悪で、別れ話も持ち上がっていました。母親が家を出て行ったらどうしよう、父親と二人になったらどうしよう、と悩んでいました。そういう折に、甘い物が無性に欲しくなりました。そして、甘いものを口にすると、そのあいだは不安を忘れていられるのです。過食は、そのときからの問題です。
Aさんは、過食をしなくなった後の心を、次のように説明してくれました。
前々から、寂しさ、悲しみ、孤独感、虚しさ・・・という感情に悩まされ、そういう心があるのは、十分すぎるくらい分かっているつもりでした。 でも、いまにして思うのですが、それは頭だけの理解でした。
喩えていえば、冷たい水に手を入れて「冷たい」と感じていたけれど、それはビニール手袋をした手で、「冷たい」と感じていたのに似ていたと思います。いまは、素手で冷たさをじかに感じることができています。そのように実感するようになってから、自分がいとおしく、抱きしめてやりたい気持ちになるのです。また、それと共に、いままでは治療者にずいぶん頼っていたのが分かってきました。そんなふうに考えているつもりはなかったけれど、無意識のうちに、「治してください」という気持ちだったと、いまは分かります。そして、それはおかしい、これは自分の問題で、解決をはかる主体は自分ではないかと、いまは思えるようになっています。いまでも、甘い物が欲しくなります。でも、それを我慢することができます。できてしまえば当たり前のことと思うのですが、過食をやめられなかったころを思えば、不思議な気がします。
こういうふうに、心に重大な変化が起こってから、自分が、何だか、私自身の母親であるように感じています。そして、過食をしていたころの私は、自分に対してひどいことをする母親だったのかと、改めて思います。そう思うのは、何故ともなく、次のようなイメージが浮かんでくるからです。
心に地下室があって、そこに何か大切なものを、自分でも気づかずに閉じ込めてしまっているというイメージです。
その部屋の内情をうすうす感じていたのですが、それを知るのが怖いので、見て見ぬふりをしていたように思います。その理不尽さに、恐怖と後ろめたさがあり、それを知りたくないと無意識的に思っていたような気がしています。さきほど、ビニールの手袋をはめた手で触れた、冷たい水の感触のようなといったのは、地下室の扉ごしに感じていた感情のことだったのかもしれません。そして、扉が開き、直接、そこに閉じ込めていた感情たちに触れることができたような感じです。
私が扉を開けたつもりはないのですが、私以外にそれをできる人はないですよね。誰か助けてくださいと思っているあいだは、私は哀れな被害者の気分でいたのが、自分を助けることができるのは私自身なのだと気がついたときに、扉を開ける勇気が出たのかもしれません。そのように連想が働いて、結局、地下室に閉じ込めていたのも、それを解放したのも私なんだと得心ができます。そして、そういうことをした私が親で、地下室に閉じ込めてしまっていた感情たちは、私の子ということになるのでしょうか。そう考えると、その子たちを救い出していとおしく思っているのも、納得がいくのです。閉じ込めて、いってみればネグレクトしていたのも、救い出して抱きしめてやりたくなったのも、おなじ私なんですね。そう考えてみて一応の納得はできたのですが、何のために可哀想な子供たちを地下室に閉じ込めるようなことをしたのか、何のために自分で自分を苦しめるようなことをしてきたのか、それが分かりません。宝物のような子供たちをひどい目に遭わせて、それをよしとしていた私って、何なのだろうと不思議に思います。