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過食の問題

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過食の問題−その8 2007年6月29日

前の項で述べたAさんの場合、問題の中心にあるのは、自己否定感に囚われていることです。自分が自分を否定するというのは、心の内部に「他者の眼」があることを意味します。というのは、何かについての評価が成立するためには、評価するものと、されるものとが必要で、評価をするのは「他なるもの」であるからです。

それらの関係は、既に述べた客我と主我の関係に他なりません。

心の執行権は主我にあります。客我は主我に対して、社会的なこと、対人的なこと、人生のことなどについて標準的な意向を伝え、主我はその上に立って行為し(執行権を行使する)、そして改めて客我がそれを評価することになります。客我は、「客観的な観点」から意向を伝え、かつその観点から評価を加えるのですが、その「客観的な観点」には、人さまざまに主観が入ります。この「客観的な観点」は、帰属する集団の文化や民族性などによって異なります。国民性、国や地方の文化、職場の特性、学校の校風、それぞれの家庭の内情などによって「客観的な観点」は異なるので、集団への新参者は適応力が問われることになります。人生の新参者である赤ん坊は、生まれた家庭の家風に適応しなければなりません。家風は、良かれ悪しかれ家長を中心に醸し出されます。

家長は、具体的には父親ということになります。関白型の父親、影のうすい父親、恐妻家の父親、妻の尻に敷かれる夫、仕事人間の父親等々、父親はさまざまに、意識的、無意識的に家風を演出します。

そのように、それぞれの家庭の状況の下に赤ん坊が誕生するのですが、それ以前に、赤ん坊の誕生は何に拠っているのかという問題があります。赤ん坊を生んだのは母親であるにしても、母親が赤ん坊を創り出したわけではありません。では、赤ん坊は、何に拠って創り出されたのでしょうか?この問題に、「科学的に」答えることは不可能です。卵子と精子の合体があったのは紛れもなく、それは「科学的な」事実です。しかし、赤ん坊が創出された理由が、それにとどまるわけもありません。

無数の卵子が生まれ、無数の精子が誕生し、その中のA卵子とB精子が、偶然に合体するに至った、という問題、この卵子、この精子の最初の萌芽があり、やがて一つひとつが成熟して完成へと至るプロセスの問題、そうしたあれやこれやの複雑極まりないプロセスが何に拠って導かれているのか、といった類いの疑問は果てしなく起こります。これらの疑問に「科学的に」回答するのは不可能というしかありませんが、敢えていうのであれば、「無数の偶然が積み重なった結果である」とでもいうことになるのでしょうか。しかし、それは大雑把過ぎる投げやりないい方で、回答といったものではありません。「何がなんだか分からない理由で・・・」というのと五十歩百歩です。

つまり、「赤ん坊が創出された」のは、分かり得ない理由に拠っている、それを合理的に説明するのは不可能である、というしかないのが実態です。それは言葉を換えると、赤ん坊の誕生は無限性のものに由来しているということになります。逆にいえば、科学的に解明可能なのは、対象が限定され、有限化されているときだけということです。例えばバラの研究家は、一本のバラの木を相手に、一生を送ることができます。

というより、一生をかけてもバラの木を解明し尽くすことはできません。仮にバラの木の全体が科学的に解明されれば、バラの木という生命体を、人間が合成することができることになります。それが不可能なのは、錬金術とおなじことです。つまり、生命体は無限性の性格を持っています。ましてや、「人間を合成する」わけにはいかず、人間が作れるのはせいぜいロボットです。

以上のように、「赤ん坊の創出」は、「過食の問題(5)」で説明したような、無限性の性格を持つものに拠っている、と比喩的にいえます。比喩的にというのは、「無限性の性格のもの」という表現が、具体的に捉えることが不可能なものを、敢えて現象的実態になぞらえて呼べばそうしたいい方になるという意味です。

以上のことをふまえて、「赤ん坊の創出問題」を敢えて定式化していえば、次のようになります。

赤ん坊は、無限性の性格のものに拠って、有限性の性格が付与されて創出されたと、比喩的に、仮定的にいえるようであるが、創出された赤ん坊(人間)の象徴性と実効性とは自我に集約されている。

赤ん坊を創出したのは、無限性の性格の、名づけ得ないものによってです。その名づけ得ないものに拠って赤ん坊は創り出されたが、先の項で説明した「内在する主体」が、創出者のいわば代理人として心に宿っている、といえます。

では、母親はどういう役割を持っているのかといえば、いうならば現実界の代理人です。母親は、名づけ得ないものによって名指しされて、いってみれば天与のものとしての赤ん坊を託されたという構図になります。そういう事情を前提にすると、赤ん坊は最大限に丁重に扱われて然るべきです。そのようにして、ともかくも、然々の家風の家の、然々という母親の全面的な庇護の下に、赤ん坊は「この世の新参者」として人類の一員になります。

赤ん坊にとって、客我を形成する直接的な状況は「家風」です。そして、「家風」の下で、絶対的な庇護者である母親は、客我形成に影響を与える最大の他者ということになります。母親が、何らかの意味で欠落している場合には、「あるべき者がない」という致命的な影響を与えます。赤ん坊にとって、母親は、いわば第二の主体です。内在する主体が真の主体であり、現実的な代理人である母親が第二の主体という構図になります。

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