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過食の問題

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過食の問題−その7 2007年6月10日

過食症にかぎらず、心の障害とは何かといえば、「心が囚われていること」と考えてよいと思います。その方が、具体的で、分かり易いかもしれません。それは言葉を換えると、主我が客我に、あるいは何らかの強い感情(具体的には恐怖と怒りとそれに伴う不安)に支配されているということです。

例えば、癌の宣告を受けると、大多数の者が「心が囚われる」ことになります。このときは、御し難い恐怖に主我が支配されて、不安に駆られたり、落ち込んだりします。その恐怖は、いうまでもなく死の恐怖です。恐怖は怒りを伴います。(一般に、「心が囚われる」場合、無意識下にある恐怖が「元凶」であろうと思われます。この問題は後で取り上げるつもりですが、恐怖は怒りを必ず伴うと考えられます。例えば暴力男の前では恐怖が目立ちますが、怒りも伴います。その怒りは抑圧されて意識されないのです。怒りは、相手へのものと自分自身へのものです。抑圧された怒りは不安を引き起こします。怒りは関係を破壊しかねません。他へ向かえば人との関係が破壊されるかもしれませんし、抑圧されると自分自身との関係、つまり心が危機に瀕します。このような怒りの扱いは、その人の性格を表します。また怒りの扱い方によって、心の成長が図られもし、あるいは鬱屈した心の持ち主になって行きもし、ということでもあります)

ひとしきり怒り(「何故、自分が?」という怒り)を顕わにし、やがて、「避けられない運命であれば従おう」という落ち着きと平安が心に訪れるプロセスを、癌の臨床に長年携わってきたスイス出身の精神科医、キューブラ・ロスが、「死ぬ瞬間」で、述べております。

そのことは、主我が恐怖と怒りという強い感情から自由になり、与えられた状況を受け止めることができるようになった、と説明することができます。

癌の恐怖に「囚われる」のも心の障害に順じる問題です。しかしこれは誰もが陥ることであり、従ってそれを理解するのが容易で、共感もできることなので、この場合は「心の障害」とはいわれません。しかし、その恐怖への囚われが、常識を越えて長期にわたるようであれば、「心の障害」ということになります。後者については、癌の罹患という直接的な脅威を越えて、元々何らかの理由で無意識下に潜在していただろう恐怖のエネルギーが大きかったと推測されるのです。その潜在していただろう恐怖が、癌という具体的、かつ現実的な脅威に直面したために一気に活性化され、いつまでもそのことに心が囚われるのです。しかし、元々、怯え易い性格の人が、癌を宣告されて、意外にも落ち着き払っていることが珍しくありません。ですから、一様にいま述べたようなことが起こるわけではありません。死への直面という強烈なインパクトが、ある人の主我をゆさぶり、しかしある人の主我は、いわば「背中をどやされてシャンとなった」といえるのかもしれません。

そのことに関連して、精神病院に長く入院していた統合失調症の、ある患者さんのエピソードを思い出します。その患者さんは重症の自閉と緘黙の状態にあり、何年ものあいだ誰とも一言も口をきかないまま、入院生活が長期化していたのです。そして、その上に重い身体病に罹患しました。死期が近づいたあるとき、トイレで主治医と一緒になりました。たまたま、二人だけだったそうです。そのときに、「お世話になりました」と主治医に挨拶をしたのです。そんなことを口にするとは信じていなかった主治医は、大変驚いたといいます。

このエピソードからは、凝固したように動かなかった患者さんの主我が、死への直面という特別な事態を向かえて、「背中をどやされた」ように、瞬時、「我に返った(自由が回復した)」のかという印象を受けます。

上に述べた例では恐怖が主我を支配しているのですが、以下は客我が主我を支配している例です。

ある男性(A)は、会社で重要な仕事を任されています。しかし毎日が苦痛でなりません。自分がしていることが、人に認められるものとは、どうしても思えないからです。上司はといえば、Aさんの仕事振りを、「何も問題がない」といいます。しかし、それは上司がよく分かっていないから、甘いからだとAさんは思うばかりです。自分を信頼し、評価してくれている上司が信じられないのです。つまり、Aさんは自分も人も信じられません。

こういうAさんを、「自分に厳しい」といういい方は当たらないと思います。「自分に厳しい」というのは、自己否定感に囚われている人を指した言葉ではないからです。Aさんの場合、問題になるのは自己否定感への囚われです。

よりレベルを下げて、転勤させてほしいとAさんは望むのですが、何人もの上司が、Aさんに、「無理はさせないから自分のところに来て欲しい」といいます。上司たちはAさんを十分に評価し、好意的なのに、Aさんは、まるで厳しい上司に仕事ぶりを否定されつづけているかのように自信を持てないのです。仮に、上司が厳しい人であったなら、おそらくAさんの主我が心を持ちこたえることはできなかっただろうと思います。他者である上司とAさんの客我とが連動して、主我を脅かすからです。そのことは、主我が客我から独立していれば、例え他者である上司が過酷な人であっても、心がつぶれることはないという意味でもあります。

つまり、心にとって重要なのは、他者がどうであるか以上に、他者と連動して攻撃、非難をする客我と、それに支配されている主我なのです。(いじめに遭って学校に行けなくなった子の場合も同様です。いじめをする者たちもさることながら、それに連動する客我に支配されている主我という心の状況が問題です)

Aさんのような状況にあっても、社会的な地位に固執する人もあります。そのような場合は、自己否定感の塊のようになったまま、「超低空飛行」を強いられることにもなります。Aさんは、レベルを下げてほしいと転勤願いを出している分、まだしも柔軟といえます。

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