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過食の問題

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過食の問題−その5 2007年5月27日

先に述べた比喩的モデルをまとめると、以下の通りです。

@大自然である全なる大海がある。

A大海に浮かんでいる島がある(自我、身体)。

Bその島には湾がある(無意識)。

@は全または無の世界です。それぞれの自己は、「かのような存在」と名指しできる、限定化された有の存在です。自己は意識で捉えることができるかぎりでの世界、つまり現象的世界の住人です。全と無とは、「かのような存在」である現象的実体としては存在していません。それは、「かのようにと名指しできるものは何もない」ので、いわば一者性の性格のものです。AとBは有機的な関連を持ち、心という総合体を形成しています。心は身体という衣装を身にまとっているかぎり、明確に限定化されています。

それは、「何もない」無(または全)から生じた「かのようにと名指しできる」有の存在です。その有の世界は、湾である無意識を抱え持っています。つまり心は、身体と自我とによって限定化されていますが、大自然のものである全(または無)の性格をも併せ持っています。結局、心は有と無との二項が対立する二者性の性格を持っていることになります。

以上のことは、広義の心理学が蓄積してきたものと、精神の病理現象を理解する努力と、その理解が治療的に還元された事実との上に成り立つ仮説を、比喩的に図式化したものです。

それぞれの自己の誕生は、全なる大海のただ中に、湾を持つ島が生まれることと、比喩的にいうことができます。その島を宰領するのが自我であり、島と湾とを合わせた全体がそれぞれの自己ということになります。

全なる大海から自己という有の存在が生まれ、それはいわば島と湾との出現です。そして自己という有の存在が消滅する(無に帰する)とき、島と湾とは全なる大海に回収され、姿を没し去ります。

島を宰領するのは自我です。そして湾を宰領するものは、大自然の意向を心に繋いでいく役目を持っています。大自然の意向が何であるかは、人間にはうかがい知ることができません。しかしながら、自我なる島の母体は、大自然以外にはありません。大自然の意向が何であるかは不可知である、というのはその通りで、論を待ちません。しかし、精神の病理現象を理解しようとすると、不可知のものをも可知としなければなりません。

「知らないものは知らない」というのは謙遜のようですが、精神を病む人の前では、それで済ませるわけにはいかないのです。人の心には、無意識という不可知の世界が、否定し難くあります。無意識の世界は、それがなくては心が成立しないものです。そのような重要なものがある以上は、それをも問題化しないかぎり、精神現象を理解することはできません。それをはじめて主張し、無意識の問題を精神医学に持ち込んだのがフロイトです。この無意識の問題を不問に付し、自我の領域のことに限定しようとするのは、「群盲、象を評す」という行為に他なりません。

それで不可知の問題についても、「かのように考える」試みが必要です。その試みに合理的な意味があるかどうかは、治療上の有効性にかかっています。

「かのように考える」のは、自我の能力を超えている領域について、敢えて合理的な準拠を仮定的に措定し、自我が宰領者であるのを可能とさせようとする試みです。


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