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過食の問題

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過食の問題−その9 2007年7月11日

第一の主体である内在する主体は、無意識界に鎮座して、一般に意識されることがありません。それは、いわば深い沈黙の内に、悠揚として不動のままに、自我の仕事を見守っていると仮定的に考えることができます。そのように考える合理的な理由は、繰り返しになりますけれど、精神の病理現象の理解と治療的還元とを通じて、その有用性が確かめられるというところにあります。

それらの仮説は、当然のことながら固定されたものではありません。新しい病理現象が、その仮説と矛盾する可能性は、常にあります。そのときには、それらをも統合した新たな仮説に赴く必要があります。現象的実体として、客観的に対象化できない心理現象に関しては、仮説を用いることは、不可避、不可欠です。そして、それらの仮説は、常に改変されていくべきものです。

そういうことが前提ですが、ここで仮定されている内在する主体は、指図せず、批判せず、しかし自我にとって一切であると考えられます。一切というのは、第一に、主体は、それぞれの自己が創出された母体であるということです。それぞれの自己、あるいは人間を象徴し、実効的な主動力を担っているのは主我です。

人は、自我に拠って人であることが可能です。主我は、客我と共に、その自我の一員ですが、主体との関係において生命的世界を展開する執行権を委ねられています。主我と主体との関係は、自己の生命線といえるものです。つまり、この関係がうまくいっていれば、心は豊かな生気感情にひたされますし、そうでなければ人生は負担の重い、暗澹たるものになります。

それぞれの自己が創出された母体は、無限性のものからであるのは、先に述べたとおりです。無限性のものによって自我が授与され、有限性の性格を持つに至ったもの、それがそれぞれの自己であり、人間です。自我に拠る心の世界は有限のものですが、心の無意識界には無限性のものである主体が鎮座しているので、結局、心は、あるいは自己は、有限のものでありながら無限性の性格を併せ持っています。有限である人の命は、いずれ終焉にいたります。

つまり、それぞれの自己は、無限性のものから創出され、無限性のものの下に回帰します。その軌跡が人生であり、その人生を自己の展開という形で演出する執行権を担っているのが主我ですが、人は社会的存在でもあるので、その観点から主我を補佐するのが、客我の本来あるべき姿です。本来あるべき姿というのは、実際には往々にして客我が主我を支配し、執行権の行使を阻害するからです。内在する主体は、無限性のものを、有限であるそれぞれの自己につなぐ役目を持ち、自己の展開の執行権を自我に委ねつつ、それを見守るという関係にあります。

では、自我は、どのようにして沈黙する主体の意向を引き受けるのでしょうか?

その前に、次なる問題は、自我が主体との関係である他に、他者との関係をも司る役目を負っているということです。自我の中で、他者との関係を司るのが客我です。先に述べたように、赤ん坊にとって、他者の中でも特別の他者である母親は、いわば現実界の代理人、第二の主体です。

赤ん坊は、自我に拠って自己であることを引き受けた(主体の命を引き受けた)という体裁になるのですが、その赤ん坊をこの世の代理人として引き受ける立場にあるのが、母親です。母親も、また、主体の命を受け、それを引き受けて母親となったという体裁です。この「体裁」は、しかしながら、意識されることがありません。母親は、主体の命を受けた特別に名誉ある代理人であるという位置づけが可能ですが、実際には、母親はその意識を欠いているので、赤ん坊にとって、自分が第一の主体であるという漠然とした意識を持つとしても不思議はありません。ここに、大きな錯誤が起こる余地があります。赤ん坊は名誉ある大切な授かり者、という意識が母親にあれば、赤ん坊は丁重に扱われるでしょう。しかし、その意識が欠落していれば、母親は赤ん坊にとって第一の主体になります。それは、良くも悪くも第一位の権力者に他ならないので、愚かな母親であればあるほど、「自分が生んだ者」という意識を、容易に「自分のモノ」に変換してしまうのです。「名誉ある代理人」の自覚があれば、「自分の都合のいいように育てたい」という意識は、無意識的にであれ滅多には働かないと思います。

そういう自覚があれば、自ずから「真の愛情」を模索することになるはずです。その「真の愛情」が、「自分が生んだ者」という意識の下では、大いに歪むのです。子供への愛情の名の下での、実質的な迫害は、軽微なものまで入れれば、これを免れることができる母親はいない、と断言できます。それは、二心(ふたごころ)が人間の心理的特性であるためです。人を愛することは自分を愛することであり、人を憎むのは自分への憎しみと無縁でないのは、良くも悪くも、人間心理の特徴です。

赤ん坊は、生まれてしばらくのあいだは幻想の中にまどろんでいます。そのまどろみは、有限と無限の入り混じった繭にくるまれているような、あるいは半ば主体のふところに抱かれているような、といったふうなことで、この世とこの世以前の世界との混淆された準備状況に置かれている標章、と考えることが可能です。その幻想の状況は、まだ母親と名指しできない「この世の代理人」が、大きな満足と大きな安心とを保証してくれるはずだから何も案じることはない、と主体に囁かれているといったふうなことであろうかと、仮定的に想定されます。

こうした「お話」は、誰もが直接は確かめることができないものなので、ばかばかしいと思えば思えます。しかし、単なるお話ではなく、そこには一定の合理性があると認められる「お話」というべきです。それは昔話が単なるお話ではなく、古今東西の人間の在り方の骨格とでもいうべきものが込められていることに通じています。

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