その1.
その2.
その3.
その4.
その5.
その6.
その7.
その8.
その9.
過食の悩みは、真に悩みを悩めないでいる人の悩みです。だから、その悩み方がつづくかぎり、過食は繰り返されると思います。真に悩んでいないなどといえば、地獄の苦しみの中にいる過食症者に、とんでもなくひどいことをいう奴だと思われるかもしれません。
しかし、苦しむことと悩むこととは違います。やはり、真正に悩めないでいる悩みだと、私は思います。そういう悩み方からは、希望の光がほとんど見込めません。逆にいえば、真正に悩まれた悩みであるときに、その果てに希望の光が見えてくると、かなりの確度で保証されるのです。これら二つの違いは、問題の核心を直視しようとしているか、避けようとしているかというところにあります。過食症の治療が難しい理由は、ここにあります。核心から眼をそらして食に取りすがっているのが過食なので、ここに見られるのは問題の隠蔽と、代理満足への回避とです。つまり問題のすり替えが起こっています。そして、そのことへの自覚が、当然ながらありません。
いくらかはあるとしても、それを隠蔽しようとする気持ちが上回るのです。過食は、より大きな問題から眼をそらす(悩みを悩まない)代理満足ですけれど、それも満足の一つには違いありません。刹那的ではあっても、それなりの満足が得られます。しかし、核心から眼をそらしている代償として、本来もとめているはずの満足には、決して至り得ないのです。また、過食によって得られるのは身体的な満足に過ぎません。そして、本当は、もっと精神的に意味のある満足を希求しているので、「いくら食べても満足できない」し、「満腹感が得られない」のです。そもそも人の満足は、健全なものであれば、精神的?身体的なものです。知的な満足であっても、身体的な興奮を伴い、単純に精神的な満足に留まるものではありません。その精神的?身体的なものの一方が欠落する場合は、必ず病的な問題が起こっていると考えなければなりません。
そして、欠落するとすれば精神的なそれであり、病的な満足の形態は、身体的な満足に偏する場合にかぎります。それは、必ず非社会的なものか、反社会的なものといえます。セクハラ、痴漢は犯罪ですし、人にいえない恥ずかしいことである過食は、非社会的な行動です。それらには、共に精神性がありません。心には、表と裏(無意識の領域)とがあり、前者は社会的な心で、後者は非社会的な心です。そして、社会性と精神性、非社会性と非精神性とは、それぞれ一対の関係です。非社会的な心である裏の人格は、自我によって抑圧され、受容されなかった心です。過食は非社会的な行動なので、「人にいえない」性格を持っています。一般には、過食をした人は、「卑しい大食漢」という汚名を、他でもなく、自分で自分自身に着せるものです。
その罪悪感が、また、大きな苦しみになります。しかし、ここには自我が抑圧した心たちの反作用である、という反省がありません。それは見方を換えれば、自我はそれらの分身たちの反攻に遭って、それを受け止める能力を欠いているということです。罪悪感は、一つには、不当な抑圧をしたことへの、自我の無意識的態度に起因しますが、もう一つは、「人に見せられない行動が現に起こっている」ことに、責任を取れないところにあります。過食症者は、一般に、人への気遣いがつよく、人の批判的態度を過敏に怖れるので、「表に現われてしまっている人に見せられないこと」を、まるで大勢から一斉に非難されているかのように恥じ入るのです。