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過食の問題

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過食の問題−その3 2007年5月8日

「いつも、いつも、ここ(クリニック)に来るたびにおんなじことばっかりいって、・・・少しも進歩しない・・・」と、Aさんがいいます。そして、「過食をやめようと思えばできるのに、やろうとしない」と、涙ながらに語ります。こういう気持ちはAさんだけのものではなく、多かれ少なかれ、過食に悩む人たちに共通しているのではないかと思います。

「おんなじことばかりいって、・・・少しも進歩しない・・・」という言葉には、怒りが込められています。その怒りは、二つの方向に向かっていると思われます。一つは過食をやめる意志を持とうとしないAさん自身へのものでしょうし、もう一つは、「治す力を示せない」治療者へのものでしょう。

過食に向かうエネルギーは、とても大きなものです。心を、馬(無意識)にまたがる騎手(自我)と比喩的に捉えると、過食は無力な騎手を後目に、馬が勝手に行動を起こしている姿になります。人馬一体を理想として、騎手が馬をコントロールするのが心の問題の鉄則ですから、馬が騎手を無視した行動に出るのは、あってはならないことです。過食では、そのような、あってはならないことが起こっています。この比喩でいえば、あってはならない行動に出ている馬は、怒っているに違いありません。

そして、騎手がまったくの無力であることは、それとの相対関係で、馬の怒りを怖れている姿でもあるのです。過食の行動は、怒った馬が恐れをなしている騎手を後目に、暴走している図式になります。以上のことは比喩に過ぎませんが、心の問題は抽象的になりがちなので、比喩的な絵として捉えてみるのは意味があることです。また、比喩的な絵は直感に訴えるので、冗長になりがちな説明を補足する意味を持ちます。

過食は、ふつうの意味での食への欲求の強さと、その反映ではありません。ふつうの意味でなら、旺盛な食欲は否定されるべきものではありません。それは、いうならば、生きる意志の強さの現われです。しかし、過食においては旺盛な食欲というものではなく、精神的に満たされない鬱憤が溜まっているために、そして、それが満たされる希望が見えないために、当てにならない騎手を後目に、馬が鬱憤のはけ口を求めた行動に出ているというような出来事です。

つけ加えれば、自我である騎手が、満足や希望や安心をもたらす役目を担っているにも拘わらず、長期にわたって主体性を発揮する様子が見えず、その見込みも持てないので、業を煮やした馬が暴走しはじめたということになります。旺盛な食欲が生きる意志の強さを現していることに対応して、過食は死への斜傾を意味します。それは以下のような事情によります。

そもそも、生きることは死ぬことを含んでいます。単純な生はなく、死があればこその生です。赤ん坊の誕生は、生命の誕生です。赤ん坊が犬の子でもなく、猫の子でもなく、人間の子であるのを証明するのは、自我によってです。自我は人間を特徴づけるものですが、そのために他の動物たちが自然のものであるのに対して、唯一人間が反自然の性格を合わせ持っています。

反自然的性格とは、一つには本能の命じるままに生きるわけにはいかないという意味がありますが、それは自我が本能に従う装置ではなく、本能を引き受ける主体であることに由来しています。換言すると、自我は本能への従属者ではなく、本能を引き受け、改めて本能をいかに生きるかを主題化する主体であるということです。ことは本能にとどまらず、心にとって自然的なものを、自我はすべておなじ扱い方をします。

しかしながら、このように自我はひとまずは自然のしもべではないのですが、めぐり巡って結局は自然のしもべであるのを思い知るしかないという不可思議な役割を与えられている、と考えるしかありません。そのことを忘れると、人間は(自我に拠って)自然から解離した独自の存在者である、という趣きが人間を驕らせ、災いをもたらします。それは、あたかも、孫悟空が大暴れをして、三蔵法師とは独立した力を発揮しているつもりが、気がつくと三蔵法師の手の内で暴れていたに過ぎなかったというのに似ているように思えます。昨今、異常気象が問題になり、地球環境の危機が叫ばれています。それは、自然に対する人間の驕りが、自分自身への災いとなって跳ね返っている一つの表われ、と要約できるような出来事です。


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