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過食の問題

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過食の問題−その4 2007年5月14日

無意識の層は、二種に分かれます。第一のものは、大自然が心に及んでいる層です。大自然といういい方には、ふつうでいう自然ではないという意味が込められております。

それは名状し難いものです。ふつうでいう自然、すべての動物、植物、生きとし生けるもの、あの山、この山、地球、星々、宇宙などなど、知覚できるあらゆるもの、想像できるかぎりのものなど、どこまでと限定できないあらゆること、あらゆるもの、というようなことです。一言でいえば、全です。別ないい方をすると、無です。全と無とは、両極端にあるもののようですが、我われ人間には、両者の区別をつけることができません。そのような意味での大自然が心に及んでいるのが、第一の無意識層です。大自然という、茫漠を通り越した名状し難いものが心に及んでいるものを、いうならば大海が陸地に及び、囲われて湾となったような、と比喩的に捉えておきます。ということは、(第一の)無意識は大自然そのものではなく、心という限定を受けたもので、いうならば大自然の意向を受けつつ、心にそれを繋いでいく性格を担っていると考えてよいと思います。そう考える根拠は、精神の病理現象を理解しようと努める過程で、それが合理的であるということです。

ひとり一人の自己は、有限の生命を担っています。その限定は、身体に拠っているように見えます。身体が朽ち、滅びたときに、それぞれの自己は終焉にいたります。それは自我も同様で、人の誕生は自我の誕生であり、人の命の終焉は自我の終焉です。このことから自我は、身体的な基盤の上にあると推測されるのです。また、一方で、心には個々人の限定を超えたものがあると判明しております。例えば、ユングによる元型は、そういう性格のものです。また人間が持っている信仰心は、自己を超えた存在、いうならば全なるものを崇敬するという形での心的な連携、といえるのかもしれません。しかし、それは心にとっての外的な関係、つまり心に内的な根拠がない関係、としては理解ができません。

崇敬する対象が外的なものであるにせよ、ないにせよ、心の内部に感受するものがなければ、生きた関係になることはできないだろうからです。それぞれの自己の内奥にこそ、全なるものに感応する心が潜在しており、それによって、はじめて何か外的な超越者との連携が可能になるに違いありません。この想定される内的な根拠が、大自然が心に及んでいるものに関連していると考えられるのです。

そのように、心には個という限定を超越したものが入り込んでおります。そのようなことから、身体と心という関連だけでは、心の諸現象を解いていくことができないのです。身体は、先の比喩でいえば陸地に似ています。そもそも、心とか精神とかいうものは、無形状で、掴み所がありません。しかし、人間は身体的存在でもあります。

そのために、心を身体的、形状的な側面から見ることは、ある程度可能です。例えば、喜怒哀楽を、それらの人物像として、絵に描いて表現することは可能です。身体的実体のない幽霊でさえ絵に描かれます。心の諸現象を、何らか知覚的に表現することは可能なので、次のようにいうことが許されるのではないかと思います。

精神は限定化、実体化されることで精神であることが可能になるが、その限定化、実体化するのは身体に拠ってである、と。

自我は、意識化が可能なかぎりでの世界の、あるいは意識できるかぎりでの世界の主宰者です。更にいえば、意識は、何ものかについての意識である、といえます。その何ものかという意識の対象が、限定化と実体化とを保証し、意味と充実と意識を繋ぎとめる安心とをもたらします。


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