伊藤花火大会

夏休みの旅。出発は大桟橋から。

高校生の頃、ときどき一人で来ていた。いまは横浜から離れて暮らしているけれど、ここへ来ると"My Home Town"(小田和正)という気がする。

飛鳥Ⅱに乗船するのは昨年の同じクルーズ今年の春に続いて三度目。

前回は、梨木香歩『海うそ』を持っていった。今回は小説は持っていかなった。

代わりに、バカンスの服装を特集したファッション誌と秋に予定している台湾旅行に備えてガイドブック、それから、今回はすこし考えごとをしようと思っていたので、思索の手助けになることを期待して、蛍光ペンで所々に傍線が引いてある森有正『思索と経験をめぐって』を鞄に入れた。

氷川丸とマリンタワー 大桟橋 ベイブリッジ遠景 黄昏のみなとみらい ベイブリッジの下を通過 本牧埠頭のクレーン

朝5時、いつも起きる時間に目が覚めた。デッキへ出るとちょうど朝日が海から昇るところだった。

朝5時 相模湾から望む富士山 日の出 日の出 日の出 日の出

船内の景色、あれこれ。

船首 木の扉とドアノブ ロビーのステンドグラス 客室の廊下 煙突

花火大会

花火 花火 花火 花火 花火 花火

海の色。プールの水は海水。

海 海 プール 初島 海 海

客船の上はまったくの非日常。飛行機の旅行とは気分がまるで違う。

どんなに豪華な食事が出ても、フルフラットのベッドで寝ることができても、飛行機旅行の第一の目的は目的地に着くこと。

船旅は船に乗っていること自体が旅の目的。離着陸時にシートベルトで身体を縛ることはないし、旅のあいだ、好きなだけ船内を歩いて回れる。

もっとも飛行機は狭い座席に縛りつけられているから、自然と思索は内へ向くという面もある。

客船は、一つの小さな街と言ってもいい。レストランがあり、劇場があり、図書館もあり、小さいながらも我が家もある。

船の上では何かをしてもいいし、何もしなくてもいい。

船旅が好きだったは、寄港地に投錨しても滅多に下船しなかったと母から聞いた。その気持ちが少しずつわかってきた。

今回、伊東では上陸しなかった。船の外観の写真がないのはそのせい。


今回の船旅では非日常の中に身を置いて、自分の日常について考えてみた。

若い頃は卒業や進学、大人になってからは転職や転居、そのたびに日常は変わってきた。

それでは私の日常はいつも場当たり的だったのだろうか。

ずっと続いているものはないのだろうか。

西田幾多郎の言う「日常の最も深いところ」に通底するものがあるだろうか。

非日常に身を置いても心身を離れないでいるもの。積み重なる日常の雑事を取り払っても、日常の奥底にあるもの。


昼下がりに白いソファで寛いでコーヒーを飲みながら、夜にピアノバーでマティーニを飲みながら、日常について、日常の奥底にあるものについて、考えつづけた。

悲しみ」という言葉が何度か思い浮かんだ。「悲嘆」という言葉も同時に思いついた。確かに私の心は悲しみに覆われている。でも、私の日常は悲しいだけではない。


「悲哀」という言葉も思いついた。「悲しみ」からは一歩「日常の底」に近づいたような気がする。でも、ここで言う「哀」は「あい」は「哀」ではなくでも「愛」の「あい」ではないか。

悲嘆と愛情

そうかもしれない。この発見に自分のことながら私はいささか意外だった。「」という概念と正面から向き合ったことがないから。

照れ臭い。それもきっとあるだろう。でも、それだけではない。「愛」は定義することができない大雑把な概念で、何かを説明したり、思索を操作するために使えるような言葉ではないと思っていたから。

もちろん私は「愛情」がまったくない人生を送ってきたわけではない。でも、「悲嘆」と対比できる概念であるという発見は私には驚きだった。

いまでも「悲嘆」と「愛情」が私の日常の根底にあるものと本能的かつ衝動的に感じてはいるものの、何度も書いてきた「悲嘆」はともかく、「愛情」について何か書くことはできそうにない。

悲嘆の只中で愛情を熱望する、それが十代の私だった。悲嘆を手にした私はそれから後に愛情を手に入れただろうか。どんな愛情を手に入れても悲嘆は消えない。大人になって、私はそれを痛切に思い知らされた。


思いがけなく「愛」という言葉が思い浮かんでから、しばらくして別の言葉が思い浮かんできた。それは「家族」だった。

家族家庭、Family、Home

家族に苦しみ、家族に悲しみ、家族を恨み、家族から逃げる。それが私の十代だった。

それでも、この30年近くの間の私は家族に対してそう悲観的ではない。むしろ私にしては珍しく楽観的で希望も感じている。家族の「再生」を見てきたからだろう。それは、とても幸福なこと

この三日間も家族のありがたみをしみじみ感じる時間だった。

2白3日の船旅から帰り新しい日常が始まる予感がしている


とにかく「経験の変貌」ということが、根本的要請であると同時に、事実として現れてくる。しかしその際起こる一つ一つのことは決して人から教わることができず、自己の中に自証して行く他はないということである。
森有正「変貌」(1967)

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