§.隠居のすゝめ
[多老社会を考える・その3]
(Retire at good time and begin your new life)

−− 2011.11.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂

 ■はじめに − 脳出血で中断された儘だった!
 先ず始めに、私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血で倒れ、2011年12月初〜2013年2月半ば迄は入院&リハビリ生活を送りました(約1年と3ヶ月)。それから心機一転、2013年3月18日から沖縄に来ました、永住する為です。この間の詳しい経緯は
  2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
をご覧下さい。
 つまり、この論考は脳出血の為に中断された儘に成って居ましたが、この度この[多老社会を考える]シリーズを出版する事に成ったので、急遽完成させる事にしました。沖縄に来てから出版事業を始めたので忙しく[多老社会を考える]シリーズは完成してるものと思い込んで居たのですが、[多老社会を考える・その3]は中断された儘だったのです、アチャア〜...(>v<)。
    {この段は2014年9月14日に全面的に書き直し最終更新しました。}

 このページでは隠居(※1)について色々考えて行きます。
 尚、このページの議論の基礎は[多老社会を考える・その1]
  日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
に拠って居ます。

 ■落語のご隠居さん
 隠居と言うと最近では余り聞きませんが、落語(※2、※2−1)には「ご隠居さん」が良く出て来ます。先ず「草創期の落語のミニ歴史」を少々述べてから隠居の話に入ります。

    ++++ 草創期の落語のミニ歴史 ++++
 落語の起源は室町時代の御伽衆(※3)に始まり最初は特定のパトロンの為の滑稽話でした。例えば織田信長に於ける野間藤六、豊臣秀吉に於ける曾呂利新左衛門、板倉重宗に於ける安楽庵策伝(←落語の祖)(※2−2)などは皆御伽衆でした。
 大衆の前で「落し咄」を演じた −所謂今日のスタイル− のは江戸前期の露の五郎兵衛(←上方落語の祖、京中心)(※2−3)が最初で、江戸では鹿野武左衛門(←江戸落語の祖)(※2−4)が、大坂では初代米沢彦八(←大阪落語の祖)(※2−5)がそれぞれ活躍しました(△1のp9〜30)。特に江戸では寛政の頃に初代三笑亭可楽(※2−6)などが現れ寄席(※4) −関西では講釈場(※4−1、△1のp69)− を始め、真打(※4−2)とかの制度が次第に完成されて行きました。
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 そこで隠居ですが、落語に出て来る主に江戸時代の隠居は【脚注】※1の[2]「家長が官職を辞し、又は家督を譲って隠退すること。又、その人、その住居。戸主が自己の自由意志に依ってその家督相続人に家督を承継させて戸主権を放棄することで、中世の武家法以来の伝統的な法制であるが、1947年廃止。」と在ります。江戸時代は戸主権(※1−1〜※1−3)というのが在って面倒臭い手続きが在ったのですが、落語の場合は面倒臭い事は家督相続(※1−3)も含め全て片付いている訳です。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 隠居とは元々は武家の制度です。ですから権力者に依って無理矢理隠居させられた事も珍しく無かったのです。又、武家では家制度と密接不可分な為に封建制度の根幹に関わり隠居するには年齢制限とか厳しい条件(←上で面倒臭い手続きと呼んだ)が在りました。が、町人の場合は条件は可なり緩く、基本的には地域の五人組(※5)などが立会人に成り家督を子息等に相続させた事を披露し立会すれば良かった様です。

 ですから落語の隠居は、噺の中では【脚注】※1の[1]「世事を捨てて閑居すること。」と見做せ、「倅(せがれ)に跡目を継いで世間の雑事から解放されてのんびり暮らして居る老人」という事に成ります。それじゃあ皆悠々自適に暮らして居るか?、というとそこが落語、中には阿保な隠居も居るのです。噺を少し紹介しましょう。
 「茶の湯」に出て来る隠居は閑に任せて茶を始めますが茶の嗜みは全く無く、茶と称して青黄粉を使いムクロジの皮(※6) −昔は石鹸の代用− で泡を立てたので皆下痢をしたという頓馬な、しかし威厳を保とうとする隠居の噺(△1−1のp342〜343)。
 「後生うなぎ」は鰻を始め何でもを払って買い取り川に放ち功徳をしたと思い込んでいる盲信心の隠居に、或る時鰻屋が赤ん坊を裂き台の上に乗せて居ると案の定隠居が現れて、買い取って赤ん坊を「ドボーン」と川に放つ噺。元は上方落語で題は「淀川」で最後の落(おち)は「淀川へドボーン」(△1−1のp215〜216、△1のp296)。
 この噺は金が余って仕方が無かった隠居の話ですが、江戸時代には口減らし(※7)の為に実際に赤ん坊を川に捨てた −所謂”間引き”(※7−1)− 事実が背景に在ると思います。
 「野ざらし」には物知りの隠居が出て来ます。八五郎という頓馬が「見たぞ、見たぞ。独り身の隠居の所に何であんな”いい女”が居るんだ。」「見られたなら仕方無い。夕べ向島で釣をしたんだが一向に掛からない。ひょっと見ると野晒しの髑髏が有るではないか、そこで「野を肥やす骨を形見にすすきかな」と一句詠んで瓢(ふくべ)の酒を掛けて弔った。そしたらあの女が「浮かばれました」と言って訪ねて来たんじゃ。あれはこの世のものでは無い。」と言っても納得せず、自分も向島へ釣りに出かけると何やらが有ったので「今夜待ってるよ」と言ってこれに酒を掛けたそうな。これを船の中で聞き付けた太鼓持(※8)、これは女と会う約束に違いないと祝儀を出させる為に八五郎の所へ出掛け「新町の太鼓持です。」「しまった、昼のは馬の骨(※9)だった。」という落(おち)(△1−1のp436〜437)。太鼓持など今は殆ど居なく成りました。この隠居は”いい女”と宜しく遣り乍ら言い訳が上手いですな。
 他にも「道灌」(△1−1のp370)や「化け物使い」(△1−1のp441〜442)などに「ご隠居さん」が登場します。
    {この章は2011年11月18日に最終更新}

 ■私の人生
 当ページのタイトルは「隠居のすゝめ」ですが、他人に隠居を勧めるのに「一体お前は何の権利が有って隠居を勧めるんだ?」と言う人も居るかと思いますので、ここで「私の人生」を少し、恥ずかし乍ら、ご紹介しましょう。私は自分の人生を語るのはこれが初めてです。私は非常に早く隠居(※1の[1]) −と自称− したのです、しかし私には何の権利も御座いません。

 (1)私の幼少の頃
 私が幼少の頃より「何故、大人はこんなの働くのか?」という疑問を持って居ましたね。物心付く頃から「極楽蜻蛉」(※10)だった私は母親を説得しました。「お母ちゃんな、幼稚園から勉強、勉強って言ってもな、大きく成ったら”普通の出来”さ。」「何言ってるだ、お前の時代は人が多くて大変なんだよ。」「だけどオレは母ちゃんの子だろ?」「当たり前だ!、何を馬鹿な。」「そんならオレは普通の出来さ。」「呆れた子だよ、大人に成っておまんま食いっぱぐれたらどうする?」「食いっぱぐれたら考えるよ。それより幼稚園もお金掛かるだろ?」「子供はお金のことは良いんだ。」「有るのか?」「無いよ。」「じゃあダメじゃん。」「お金は何とかするから、ご近所も皆行くし。」「ウフェ〜、オレは行かないよ!
 我が家では子供の教育は全て母親でした。親父は盆栽以外は興味が無い人で黙々と働くサラリーマンでした(←私は盆栽を遣って居る父を或る意味で尊敬し、一方サラリーマンの父を軽蔑して居ました)。私の年代はベビーブーマー(←後に「団塊の世代」と言われる)の後半で、母親は近所の井戸端会議で”良からぬ”知恵を仕込んだのだと思います。しかし私は上の会話の太字の部分が示す様に、こんなに小さい頃から甘い幻想は抱かずに居ました。兄弟は幼稚園に行きましたが私は幼稚園に行かず幼少の頃から昆虫採集にのめり込んで行きました(←何時から昆虫に興味を持ったかは覚えてなく物心が付いた時には蟻を飼い巣を作る蟻を観察して居ました)。私は近所の友達とも遊びましたが昆虫採集の仲間は虫が集まる場所に行くと向こうも来ており次第に顔見知りに成りました。大人びた先輩で −と言っても小学校高学年ですが幼稚園位の私から見ると大先輩です− 私は”先輩”と呼んでました。色々な事、特に昆虫学のノウハウ(know how)を教えて貰いましたね、これは今でも役立って居ます。この先輩とは4年間位行動を共にしましたが、確か先輩が中二の時に「もう昆虫採集は止める」と言われました。理由は高校進学です、この時は淋しかったですね。
 私は今でも幼稚園に行かなかった事を良い判断だったと思って居ます。何故なら幼稚園なんかで”飼い殺し”されず思う存分昆虫採集で1日中遊べた訳ですから、又家に居ると母親にブツクサ言われますから。この頃の1日は長かった。私は小学校に上がってからも良く学校をさぼり一人で昆虫採集に出掛けたものです。後年私が「常識的な一般人」(→後出)とは大分人生の軌道を異にしますが、早くもこの頃から表れで居ますな、ムッフッフッフ!!

 (2)今は「第4の人生」
 「私の人生」を一覧表で表すと次の様に成ります。

  第1の人生:0〜24歳、横浜、極楽蜻蛉的人間形成
          (OK:本人、人間失格:常識的な一般人)
  第2の人生:25歳〜44歳、東京→神戸(29歳)、食う為に働いた時期
        33歳の時、神戸で家(マンション)を買う
  第3の人生:44歳〜63歳、神戸(46歳)→大阪
        93年秋(44歳)以降、隠居(貯金で生活)
        93年秋に仕事をしない有限会社オメガシステムを創る
        大阪で色々な会に参加し老後の友人を開拓
        2002年11月20日にHP(ホームページ)を開設
        2004年から【ブラボー、クラシック音楽!】を主宰し終了
        (この頃、家のローン完了)
        2011年暮れの脳出血、2012年初頭に会社を廃業
  第4の人生:64歳〜?、2013年から沖縄に永住出版事業
        神戸の家の家賃と年金で生活
  (「第3の人生」と「第4の人生」が隠居です)

 通常の人は1つか2つの人生ですが、私は4つの人生を送って居ます。そして各人生の変わり目は私の内部に於いては非常に明確な区切りが在ります。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 横浜は私か小学校位迄は磯子屏風ヶ浦は遠浅の海水浴場でしたが、横浜市は京浜工業地帯を造成の為に”浜”を全部埋め立てました(中学か高校の時か忘れました)。それで私は「第2の人生」から生まれ故郷を棄て、代わりに異邦人(→後出)を意識する様に成ったのです。途中、神戸に引っ越して居るのは前から私は関西の歴史・文化に興味が有ったからです。「第3の人生」の途中で大阪に住んだのは神戸の家が阪神淡路大震災で住めなく成った為で私は阪神淡路大震災の被災者です。後の「区切り」は説明を要しないでしょう。

 ここで脳出血と「第4の人生」が直結してる様に思われるかも知れませんが、然に非ずです。もし脳出血が無かったら私は多分中国雲南省に行って居たので、脳出血に因り雲南が沖縄に変わっただけです。そして自分の本を出版する為に「日本図書コード管理センター」からISBN出版者記号=907464を取り、2013年7月26日に受理され早速出版者「蛙ブックス」を創りました。蛙の読みは「かわず」です、「かえる」でも構わないですが。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 出版に関してはもっと前から色気を持って居て「第3の人生」2004年10月1日ISBN出版者記号=902893を取って居るのです。が、この時は出版者名も決めずに出版する時に決めようと考えて居た儘、結局この出版者記号は一度も使いませんでした。

 でも何と言っても傑作だったのは93年秋に隠居(※1の[1])した事ですね。私は「もうこの辺で働くのはええんちゃう?」と思ったからでした。元々”ボロ切れ”の如く最後の最後迄働くなんて全然思って無かった私は、所詮働く事は「食う為の手段」に過ぎないと割り切って居ましたので仕事を止めるのに何ら抵抗は無かった所か、私は有限会社オメガシステム(略称:OMESYS(オメシス))という”仕事をしない会社”、時々”面白い事を遣る”を創ったのです。OMEって何だ?、と言うから「お笑い、マジック、エンターテインメント」(※11)だと言って遣りましたよ、愉快でしたね。このキャッチフレーズは名刺の裏にも刷り込みました。私の弟子のプー氏瓢箪山氏と大いに笑いましたね。或いは既にバブル経済の反動で長期不況に入って行った日本全体を笑って居たのかも知れません。こういう所が「常識的な一般人」(→後出)には理解出来ない所以なのでしょうな、ワッハッハッハ!!
 私が子供の時代は「人生50年」なんていう言葉が有り私自身もそう思って居ました。この時44歳でしたが残りの貯金 −でも”貯金”としてはそんなに持って無かったですが− を考えたら何とか55〜60歳位迄遣って行けるので、ブラジル人の様(→後出)にさっさと止めたのです。結局私が働いたのは「第2の人生」の約20年間だけです。しかしこの間は本当に働きましたね、多分普通のサラリーマン仕事の3倍〜5倍は働きました。稼ぎも凄かったですよ!
 私がサラリーマンをしたのは最初の5年間(←実際には4年半)で、自立してコンピュータ(←独学)の仕事を遣り出したのがその後で、私は派遣労働をしたのは最初の3年間位で後は全て受託(=請け負い)で仕事をしました。
 ですから「第4の人生」は元々は無く、もう死んでるだろうと考えて居たのですが、寿命が延びた結果生きているのです。もしかして脳出血本来の私が死ぬ時(=寿命)だったのかも知れません。だから「第4の人生」は全くの余生なのです。

 隠居の話の戻ると、隠居とは【脚注】※1の[1]「世事を捨てて閑居すること。」を指します。背広を脱ぎ時計を外し夏は半ズボンを穿いて、やはり「食う為に働く」間中断していた自転車を乗り回し彼方此方を駆け巡りました。そしてこの頃付き合いの有る会社の社員を外の喫茶店に呼び出して −まさか半ズボンで入れないでしょう、いや私は構わないですが相手の立場を慮って− 隠居の素晴らしさを語って聞かせました。皆呆気に取られて居ましたが、この頃の知り合いは徐々に去って行きましたね、ワッハッハッハ!!
 食う為に働いた仲間など所詮こんなもんです。私は全く別の価値観・趣味・生き方の人間をその後の「第3の人生」に於いて作って行ったのです。そんな中で「雲南桃源倶楽部」「パーリャンのボランティア仲間」パーリャンも雲南省です、△2)と、私が主宰した【ブラボー、クラシック音楽!】(△2−1)は格別な思いが有ります。そして1998年頃からデジカメを買い”昆虫撮集” −虫を採らずに写真撮影する− を始めました。沖縄に来てからは南方産の種の昆虫撮集をして居ます。
 「第3の人生」のHP開設は趣味、「第4の人生」の出版事業は「隠居の手遊(てすさ)び」と言った所でしょうか。
    {この章は2014年9月14日に一部を追加、2014年9月27日に最終更新しました。}

 ■隠居のすゝめ − 老後を楽しく!
 先ず老後(※12)の定義ですが
  65歳以上を「年寄り」「老人」
とします。この話は[多老社会を考える・その1]で詳しく議論して居ますので、ここではそれを踏襲します。ですから65歳以上の方に隠居を勧める事にします。期せずして私も今年(=2014年)が65歳です、これも何かの縁(えにし)と思われます。
 以下の設問の途中でスキップ・アウト。をクリックすると貴方(貴女)は何時でも抜けられます(=スキップ・アウト

 (1)「明るい隠居暮らし」希望者に成る為の10の設問
  [1].隠居と言っても、※1の[2]の様な戸主権(※1−1〜※1−3)という制度は既に廃止されてますので、ここでは【脚注】※1の[1]の「世事を捨てて閑居すること。」を指します。ですから貴方(貴女) −江戸時代は隠居は男でしたが今は男女同権です!− が家族と同居して居ても構いません。唯家族にも隠居した事をはっきりと示す必要は在ります、「世事を捨て」た訳ですから。
 しかし人は中々「世事を捨て」られないものらしいですね。私は会社の仕事など「食う為の手段」と割り切って居ましたが、皆さんは会社 −大抵はサラリーマンですが− の仕事を”天職”と思って(或いは思い込んで)居る方が少なく無いですね。貴方(貴女)は「世事を捨て」られますか?
 No.の答えの方はここ迄です、抜けて下さい。→スキップ・アウト。Skip out

  [2].現実問題として隠居したらどうやって食べて行くんだ?、年金だって僅かだし。そうですね、金銭的な不安・心配は各自で解決して貰わないと、どうにも成りません。そういう問題が在る方は、残念ですがここで抜けて下さい。→スキップ・アウト。Skip out
 これで「常識的な一般人」(→後出)の大部分がお帰りですな、数が一辺に少なく成りましたね。金銭的問題については後でもう一度採り上げます

  [3].親の介護をして居るんで、どうも隠居という訳には行かないのです、という方も居られますな。それはそうですな、親が死ぬ(←サイト管理者:ちょ、ちょっと、これは禁句なので取り消し線を入れましたよ!)迄は無理ですな。貴方(貴女)も残念乍ら、お引き取り願いましょう。→スキップ・アウト。Skip out
 もう自分が介護されて良い歳なのに未だ介護して居るという、はっきり言ってこれは社会の矛盾なのです。この問題についても後で採り上げます

  [4].これとは逆に子供や孫の事とか、長年連れ添った妻(又は夫)とか、人は色々な柵(しがらみ)(※13)が有り、これを中々断ち切れない人も居ます。子や孫や配偶者が居ても、上手く扱って隠居してる人も居ますので一概には言えません。無理そうだ、と思われる方はここで抜けて下さい。→スキップ・アウト。Skip out

  [5].貴方(貴女)は今迄自分が遣って来た事に対し自信が持てますか?、自信が無いとやはり「世事を捨て」られないですね。未練がそれを妨げます。そういう方も隠居には向いて無いですね。済みませんが、抜けて下さい。→スキップ・アウト。Skip out

  [6].「生涯現役だ」と言う貴方(貴女)も、ここでお帰り下さい。「生涯現役」という言葉は今流行りですが、そんなに格好良いですかねえ?
 私はこの言葉が若者の気力を削いでいると思う訳です。確かに今の若者は年寄りを押し退けて自分を主張して来るパワーが不足して居ますが、「生涯現役だ」なんて言わずにここは我々の子の世代にを譲って遣ろうという気に成って貰いたいですね。私はこの言葉の中に日本人の「真面目、几帳面」(→後出)で”どうしょうも無い”面が良く現れて居ると思います。まぁ、兎に角、この言葉は隠居とは正反対の概念ですので、抜けて下さい。→スキップ・アウト。Skip out

  [7].どうも、私は流行り言葉に付和雷同するのは余り感心しません。
 これで「自分はこんなに働いて来たんだから、ここらで止めても良いじゃない」と思う方が大分残った筈です。でも、ここで「世事を捨てる」訳ですから、貴方(貴女)は「踏ん切り」を付ける必要が在るのです。私の友人で禁煙を50回位した人が居ますが、結局未だに禁煙出来ずに居ます。言わば人生を一度リセット(reset)する訳です。そういう「踏ん切り」が付かない人は、ここで抜けた方が良いでしょう。→スキップ・アウト。Skip out

  [8].貴方(貴女)は隠居して何か「生き甲斐」をお持ちですか?、これが一番肝腎です。例えば私だったら南方産の種の昆虫撮集とか、本の出版とか、オペラのCD観賞とか、そういったものです。趣味と言っても良いですが、その趣味が「生き甲斐」に成らなくては為りません。毎日それだけでは飽きる、という方はここで抜けた方が良いでしょう。→スキップ・アウト。Skip out

  [9].もう後戻りは出来ませんよ。あの人は一旦隠居したけど又何か仕事してるよ、じゃあ少し格好悪いと言うか、見っとも無いですからね。威厳が無いのは行けません。後戻りしそうな人は、この辺で抜けて貰いましょう。→スキップ・アウト。Skip out

  [10].これで根性の座った人だけに成ったみたいですな。ここで貴方(貴女)の性格的な事を少し言うと、日本人よりもブラジル人の方が向いて居ますね。日本人は外国人が誰しも言う事は「日本人は真面目、几帳面です(←これが「常識的な一般人」の特徴です)。これに対し「ブラジル人は時間にルーズ、賃金を払うと出社しないです。でも、これで良いのです。今から仕事をする訳では有りません。或いは中国雲南省でのんびりと長い水煙草の煙管(きせる)を吸っている、ああいう心境ですね。総じて南方系の人の方が合うみたいですね。隠居して相も変わらず「真面目、几帳面」に生きるんじゃあ、変わり映えがしませんから。老後を明るく生きたいですからね。やはり「明るい隠居」「暗い隠居」が在りまして、暗いのはどうもねぇ、抜けた方が良いでしょう。→スキップ・アウト。Skip out

 (2)「明るい隠居暮らし」希望者へ
 これで「明るい隠居暮らし」希望者だけに成りました。楽隠居(easy retirement)(※1−4)という言葉が在りますが、私が勧めて居るのは正にそれです。「楽」は「安楽で楽しい」という意味で、又「音楽」の「楽」でも在ります。もっと言えば「安直な」という意味も在りますので、私なんかは「イージー、イージー、難しい事は考えない!」てな調子ですな。
 それでは隠居の心得(或いは楽隠居の心得)を話しましょう。私の「隠居のすゝめ」は「老後を楽しく!」暮らす為の一つの生き方の提案なのです。隠居をしなくても「老後を楽しく!」暮らす方法は在るでしょうし、それを実践してる人も居るでしょう。私はそれを否定しません。しかし、隠居してそれ迄の生き方と全く違う生き方をする、というのも一つの選択肢なのです。隠居をして、私の場合は「第4の人生」として楽しんで生きてますが、貴方(貴女)は貴方(貴女)の「第nの人生」を、隠居をしてリフレッシュ(refresh)(※14) −私はこの気分をリフレッシュする事が大事だと思って居ます− して新たな気持ちで思い切り楽しんで戴きたい、唯そう思うのみです。残り少ない私の、そして貴方(貴女)の人生ですので!!

 (3)中々隠居出来ない現代人
 上の10の設問で、貴方(貴女)は何問目位でアウトに成りましたか?、それとも全問クリアして「「明るい隠居暮らし」希望者へ」へ到達しましたか?
 「「明るい隠居暮らし」希望者へ」へ到達した方は恐らく非常に少ないと思います。中々隠居は出来ないのが実情なのです。そこで大量にスキップ・アウトしたであろうと思われる設問について少し考察してみましょう。今実際に隠居してる人はどの位居るんでしょうか?、千人に1人は居ないでしょう、5千人〜1万人に1人位ですかねえ。
 先ず設問[2]の金銭的問題ですね。金銭的問題と言っても金銭トラブルとはちゃいまっせ。これには2つのアプローチが在る様に思います。<1>として、金銭的な不安・心配が絶対的な場合は残念乍ら、こちらとしてはどうしょうも有りません。
 <2>として、金銭的には何とか成るという方は貴方(貴女)の考え方次第なのです。要するに、隠居とそれに要するマネーと天秤に掛けて、どっちを取るかですから貴方(貴女)自身で良く考え、残りの[3]以降の設問も良く考えて戴きたい、と申し上げて置きます。私の様に沖縄に来ると経費は相当安く出来るのです、沖縄も東京に比べれば大分南方です。
 次は設問[3]の老人が大老人を介護する問題ですね。これこそ正に多老の問題です。65歳以上の老人 −本来なら介護される歳なのに− が、更にその上の大老人(parents of old-people)(←これは私の造語で、老人の親などを指す)を介護しなくては為らないという、高齢社会の矛盾且つ縮図です。実際に私の知り合いにそういう人が数人居ます(私の両親は疾っくに亡くなりましたが)。長生きは良い事だ、とは単純に言い切れない現実 −この現実を無視すると偽善に陥ります!− が在るのです。しかし私としては如何ともし難い問題です。
 まぁ、ぶっちゃけて話せば親が死ぬ(←サイト管理者:ちょっとエルニーニョさん、表現に気を付けて下さい!)のを待って、その時又相談に来て下さい、アッハッハッハ!
                (^o^)/

 やはり「柵(しがらみ)」を捨て今迄の人生に「踏ん切り」を付け、「生き甲斐」を見出し気分をリフレッシュする事が大切ですが、特に決断する時は「踏ん切り」が大事ですね。そして「真面目、几帳面」な「常識的な一般人」的な人生観は出来たら捨てた方が良いですな、そうしないと楽隠居は難しい。こういう人生の再出発の考え方は元々中国起源の還暦(※15) −60歳に成ったら還暦で暦(こよみ)の干支が戻るのです− の中に在るのです。そして是非、上述した様に我々の子の世代にを譲って遣ろうという気に成って戴きたいのです。
    {この章は2014年9月14日に一部を追加、2014年9月27日に最終更新しました。}

 ■結び − 「常識的な一般人」とは異なる生き方
 「第2の人生」の時は「食う為の手段」と割り切って働いて居ましたが、隠居をした「第3の人生」では「食う為に生きる」生き方を選びました。この事は[エルニーニョの快楽主義的健康論]
  私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)
の中で述べました。この論考は2002年12月4日に書き始められ(←この激辛論考のコーナーは2002年11月20日に開設されました)、当コーナーで最初に書かれた論考です。最初に私の基本的な「考え方」を掲げて、それを実践して来ました。何しろ「私の健康論」として「不摂生は健康の母」と言うのですから驚かれる方も多いでしょうが、私は「常識的な一般人」とは大分「考え方」が異なって居ますので宜しく、ワッハッハッハ!!
 私は快楽主義者(エピキュリアン、epicurean)で、これも彼方此方で述べて居ます。しかも幼少の頃より「極楽蜻蛉」ですから質(たち)が悪いですな。まぁ、本質的に楽観主義者なのです。だから私は「真面目、几帳面」な「常識的な一般日本人」に囲まれると息が詰まり自分を異邦人(エトランジェ)として意識して仕舞うという精神的な一種の病気を抱えて居ます。異邦人を意識せずに紛れて居られるのは何と言っても中国雲南省です!!
 以上、「隠居のすゝめ」という題で書いて来ましたが同調者が居る居ないに関わらず、私はゴーイング・マイ・ウェイ(going my way)で進みます。「第4の人生」は「隠居の手遊(てすさ)び」をマイペースでボチボチと遣って行きます。
 ここ迄付き合って戴き本当に有難う御座居ました。「多老」という造語を提示した[多老社会を考える]シリーズをこれで終了します。
    {この章は2014年9月27日に追加し最終更新しました。}

 尚、[多老社会を考える]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:隠居(いんきょ、retirement(事), retired man(人))は、
 [1].世事を捨てて閑居すること。致仕。今昔物語集13「只―を好む心のみ有り」。
 [2].家長が官職を辞し、又は家督を譲って隠退すること。又、その人、その住居。戸主が自己の自由意志に依ってその家督相続人に家督を承継させて戸主権を放棄することで、中世の武家法以来の伝統的な法制であるが、1947年廃止
 [3].江戸時代の公家・武家のの一。地位を退かせて家禄をその子孫に譲らせること。
 [4].江戸小伝馬町の牢内囚人の顔役の称。伎、小袖曾我薊色縫「行きやア―と立てられて、見舞の初穂を喰ふ株だが」。
 [5].当主の現存の親の称。又、老人の称。
※1−1:戸主(こしゅ、householder, head of family)は、[1].律令制で、戸の首長。戸の代表者。
 [2].〔法〕一家の首長で、戸主権を有し、家族を統轄しこれを扶養する義務を負う者。1947年、家の制度と共に廃止。
※1−2:戸主権(こしゅけん)とは、家族統率の為に戸主に認められた権利。家の制度と共に廃止
※1−3:家督(かとく、family estate)とは、[1].[史記越王勾践世家]相続すべき家の跡目。又、跡目を継ぐべき子。嗣子。長子。惣領。「―を継ぐ」。
 [2].〔法〕旧民法で、戸主の身分に付随する全ての権利・義務。戸主の地位
※1−4:楽隠居(らくいんきょ、easy retirement)は、家督を子に譲って安楽に世を送る隠居。本朝二十不孝「法体して―をすること専らにはやりぬ」。

※2:落語(らくご、comic monologue)は、(初めオトシバナシと読み、明治中期より一般にラクゴと読む)演芸の一。一人の演者滑稽な話を登場人物の会話の遣り取りを主として進め、その末尾に落(おち)を付けて聴衆を興がらせるもの。江戸初期安楽庵策伝が大名などに滑稽談を聞かせたのが初めと言い、身振り入りの仕方咄(しかたばなし)から発達して芸能化し、江戸・大坂を中心に興隆。上方を中心に「軽口(かるくち)」「軽口ばなし」と呼ばれ、江戸中期より「落し咄」と呼ばれた。噺(はなし)。
※2−1:仕方話/仕方咄/仕形噺(しかたばなし)とは、(「仕方/仕形」と「話/咄/噺」の色々な組み合わせが有るが、要するにジェスチャー入りの話
 [1].身振り・物真似に依って話をすること。
 [2].身振りを交えて演ずる落語
※2−2:安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)は、江戸初期の浄土僧茶人笑話作者(1554〜1642)。落語の祖と言われる。京都誓願寺竹林院の住持。後、寺域に茶室安楽庵を結ぶ。「醒睡笑」を著して京都所司代板倉重宗に呈した。
※2−3:露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)は、江戸前期の落語家(1643?〜1703)。京都の人。上方落語の祖。作「露がはなし」「軽口あられ酒」など。
※2−4:鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)は、江戸前期の噺家(1649〜1699)。本姓、志賀氏。大坂生れ。座敷仕形噺の上手と言われ、江戸落語の祖。筆禍事件を起し、晩年伊豆大島に遠島と成る。作「鹿野武左衛門口伝咄」「鹿の巻筆」など。
※2−5:初代米沢彦八(しょだいよねざわひこはち)は、江戸前期の落語家(?〜1714)で大阪落語の遠祖。元禄期に大坂の生玉神社境内を中心に活躍。仕方物真似と小咄で人気。現行の大阪落語の萌芽と思われる軽口本「軽口大矢数」など数編を残す。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※2−6:初代三笑亭可楽(しょだいさんしょうていからく)は、江戸中期の落語家(1777〜1833)。通称、京屋又五郎。江戸の生れ。1798年(寛政10)江戸下谷の寄席に出演、以後各地を巡業。軽口頓作の才が有り、噺本・滑稽本を著し、初代林屋正蔵ら門人を育成。

※3:御伽衆(おとぎしゅう)とは、室町時代以後、主君に近侍して話相手を務めた役。豊臣秀吉に於ける曾呂利新左衛門、板倉重宗に於ける安楽庵策伝 −落語の祖と言われる− など。

※4:寄席(よせ/よせせき)は、(「よせせき」の略)落語・講談・浄瑠璃・浪花節・手品・音曲など大衆演芸の興行場。元禄年間に江戸で始まる。人寄席(ひとよせせき)。寄席場(よせば)。席亭
※4−1:講釈場(こうしゃくば)とは、講釈の常設の寄席。釈場。
※4−2:真打/心打(しんうち)とは、落語・講談・義太夫・浪花節など寄席の一座で最も技量の優れた出演者。又、それに相当する資格。一日の最後の演目(=取りを勤め、締め括りをする責任を持つ。真/心(しん)。←→前座。

※5:五人組(ごにんぐみ)とは、江戸幕府が村々の百姓、町々の地主・家主に命じて作らせた隣保組織。近隣の5戸を1組とし、火災・盗賊・浮浪人・キリシタン宗徒等の取締り、又、婚姻・相続・出願・貸借等の立会と連印の義務、納税・犯罪の連帯責任を負わせたもの。→十人組。

※6:無患子(むくろじ)は、ムクロジ科の落葉高木。高さ約10〜15m。6月頃、淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序に付け、球状の核果を結ぶ。種子は黒色で固く羽子(はご)の球に用い、又、果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とした。西日本の山林に自生し庭園にも栽培。むく。つぶ。季語は秋。

※7:口減らし(くちべらし)は、家計が苦しいので、家族の者を他家へ奉公に遣るなどして、養うべき人数を減らすこと。
※7−1:間引き(まびき、thinning out, culling)は、(畑の作物などを)[1].間引くこと。間に在るものを省くこと。間隔を空けること。「―運転」。
 [2].口減らしの為に親が生児を殺すこと

※8:太鼓持(たいこもち)は、[1].遊客の機嫌を取り、酒興を助けるのを仕事とする男幇間(ほうかん)。末社(まっしゃ)。太鼓。好色一代女2「物に馴れたる―をつれ」。
 [2].人に追従してその機嫌取りをする者。太鼓叩き。

※9:馬の骨(うまのほね)は、素姓の判らない人を罵って言う語。元禄大平記「いづくの―にもせよ」。

※10:極楽蜻蛉/極楽トンボ(ごくらくとんぼ、happy-go-lucky fellow)は、浮付いた呑気者を罵って言う語。

※11:「お笑い、マジック、エンターテインメント」は、私が創り1993〜2012年迄存在した有限会社オメガシステムのモットーです。そして当社の愛称はOMESYSで、当社の方針は無借金経営だったのです。"OMESYS"の'OME'とは、

  'O'=Owarai           お笑い
  'M'=Magic            魔道神力
  'E'=Entertainment    演芸と宴会

です。
 では無借金経営は何故?、貴方(貴女)は銀行から借金をして銀行とうまく付き合って行けば安泰だと思いますか?
 では、お答えします。俗に「カネは天下の回り物」と言いますが、実はカネが回るのは好景気の時で、不景気の時はカネは回らず人が回るのです。銀行は困っている人は助けません!!

※12:老後(ろうご、old age)は、年老いて後。年取って後。「―の楽しみ」。

※13:柵(しがらみ)とは、[1].weir。水流を塞(せ)き止める為に杭(くい)を打ち並べて、これに竹や木を渡したもの。
 [2].fetters。転じて、柵(さく)。又、塞き止めるもの。纏い付くもの。「浮き世の―」。

※14:リフレッシュ(refresh)は、気分を爽やかに一新すること。生気を与え、元気付けること。

※15:還暦(かんれき、one's 60th birthday)は、(60年で再び生れた年の干支に還るから言う)数え年61歳(今では満60歳)の称。華甲。本卦還(ほんけがえり)。「―の宴」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『上方落語の歴史』(前田勇著、杉本書店)。
△1−1:『合本 東京落語地図』(佐藤光房著、朝日文庫)。

△2:『パーリャン小学校の思い出(第2版(改訂版)) 〜中国雲南省の辺境地に小学校を作る〜』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2−1:『ブラボー、クラシック音楽! 〜活動履歴・曲目解説・オリジナルCD・折々の感想など〜』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):還暦の考え方▼
資料−十干十二支(Chinese zodiacal signs and 60 years cycle)
補完ページ(Complementary):リハビリ施設を抜け出してから沖縄に来る迄や
異邦人を意識する私▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
補完ページ(Complementary):「食う為に生きる」の心▼
私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)
脳出血後の最初の新規ページで、
私が阪神淡路大震災の被災者である事にも言及▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
出版事業について▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
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阪堺電車沿線の風景−大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
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プー氏について▼
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パーリャンに小学校をつくる会
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(Chinese zodiacal signs and Cat, 2006 beginning)

オペラの観賞や【ブラボー、クラシック音楽!】について▼
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