§.スポーツに学ぶ「引き際」
[多老社会を考える・その2]
('Timing of Retire' in case of sports)

−− 2008.05.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2008.10.31 改訂

 ■はじめに − 切っ掛けは掲示板の議論から
 このページの私の見解は、当サイトの掲示板<新板−3>のNo.240 −当サイトには3つの掲示板が在る− の中で、ハンドルネーム「ペケ丸」さん(←実は私の友人)から以下の様な書き込みを戴いたのが切っ掛けです。
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 野茂がクビ? 投稿者:ペケ丸 投稿日:2008/04/22(Tue) 10:27 No.240 [返信]
    <...前半略...>
 ロイヤルズのマイナーからメジャーに這い上がった野茂は4月20日付で戦力外通告されましたよ。
 これってクビってことですよね。メジャーでノーヒットノーランを2回もやった投手なのに、帰ってくればいいのにと思いますよ。
 エルニーニョさんはどう思いますか?
    <...後半略...>

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 これに関しては大いに語るべき事が有ったのですが、4月末に当サイトのカウンタや掲示板の付け替え作業などで返事が遅れて仕舞いました。そして付け替え完了後に意見を纏めて5月始めに新装開店した<新新板−3>に投稿したら文字数が多過ぎてエラー、分割して書き込むのも面倒臭いのでこの[多老社会を考える]シリーズ −「多老」は私の造語ですのでこちらを参照− の一つとして纏めることにしました。

 昔から「男の引き際」「女の引き際」(※1)とか隠居(※2)して「後進に道を譲る」とか言い習わされて来ましたが、最近の多老社会に至って年寄りが中々引かない事態が眼に余る様に成り、標題の「引き際」は現在の高齢化日本の問題点の一つである、と考えて居たからです。以下はその時の下書き原稿の対話調を記述調に直し、過去に日本人が「引き際」をどう考え対処して来たのかを加筆したものです。

 ■日本人スポーツ選手に見る「引き際」
 米大リーグ(MLB)の野茂英雄が話の切っ掛けですので、野茂を最初に他の日本人スポーツ選手の事例も加えて「引き際」について考えて行くことにします。

 (1)野茂英雄の場合 − 反骨精神を貫いた日本人大リーガーの開拓者
 現在、日本人のプロ野球選手が米大リーグで数多く活躍して居ますが、その道筋を開拓したのは間違い無く野茂英雄です。日本人の大リーガーと言うと良く村上雅則氏の名前が挙がりますが、彼は確かに名目的には日本人初の大リーガーではありますが米大リーグに於いて大した成績を上げて無いし −1964年に初の日本人として大リーグに2年間在籍しリリーフで5勝1敗、日本では帰国後に活躍し通算103勝82敗− 後輩が続かなかったので、今日の日本人大リーガー隆盛を導いたとは言えません。更に松井秀喜だなんて思ってる人は愚の骨頂、野球を知らない”巨人教”の信者です。もう一度念を押しますが、日本人大リーガーの真の先駆的開拓者=パイオニア(pioneer)は野茂英雄で、それに続く次の開拓者がイチローです。
 大きく振り被って一旦バックスクリーンの方を向いて全身を捻り向き直って投じる独特のトルネード投法の野茂は、野球では無名の高校から社会人野球を経て1990年に近鉄バファローズに入団しました。日本での活躍は新人で即18勝8敗の成績を上げ、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率の四冠に加えて新人王・MVP・沢村賞と投手部門の賞を総嘗めにし、三振奪取率の高さからドクターK −三振はスコアブック上で”K”と記す− の異名を取りました。以後93年迄に4年連続で最多勝と最多奪三振を獲得しました。
 兎角個性的なフォームを嫌いワンパターンの鋳型に填め画一化するのが日本の野球界です。野茂が入団時の仰木監督(←元野手)は頓着せずにトルネード投法を認めました −この人は後にイチローの振り子打法も認め世に出したのでエライ!− が、93年から就任した鈴木啓示監督(←元投手)はこれを矯正しようとした為に野茂は反発、更に近鉄の”ドケチ体質”は野茂の成績に見合う年俸を出さず、翌94年のシーズン後には野茂が提案した代理人制度でも対立し、遂に94年に近鉄を退団し団野村氏を代理人として米大リーグと交渉、95年にロサンゼルス・ドジャースとの契約に漕ぎ着けました。ところで、近鉄球団の財政難は球団経営自体よりも親会社のバブル期の不良債権が最大原因で、その事実と野茂を追い出した後の近鉄球団の哀れな末路については下の論考を参照して下さい。
  オリックスの”球団転がし”を糾弾する(Denounce 'Rolling Team' by ORIX corp.)
 以後、野茂は米大リーグに於いて96年と01年に2度のノーヒットノーランという金字塔を打ち立て、95年と01年に最多奪三振を獲得95年には日本人として初めてオールスターゲームに出場し、05年には日米通算200勝を達成しました。一方、平成不況の余波で社会人スポーツ部の廃部が相次ぐ事態に抗して、自分が社会人時代を過ごした大阪府堺市に03年に「NOMOベースボールクラブ」を設立しオーナーに就任、野茂は反骨精神の持ち主です。同クラブもそれに答え05年にはクラブチームの全国大会で優勝し都市対抗野球大会にも出場を果たしました。
 野茂は08年5月10現在で、日本通算78勝46敗米大リーグ通算123勝109敗日米通算201勝155敗です。この様な輝かしい成績を残して居る野茂も、米国の数多くの球団を転々とし果てはドミニカやベネズエラ迄も行き、今季前にやっとロイヤルズとマイナー契約を結び4月5日に3年振りのメジャー昇格を果たしましたが、半月後の08年4月20日に戦力外通告されました。冒頭に紹介したペケ丸さんの書き込みは、この報道を受けてのものでした。野茂も既に39歳、野球選手としては限界の年齢です。そろそろ次の人生を考える時期かと思います。
 尚、野茂と日本人初の大リーガーの村上雅則には奇妙な因縁が有ります。野茂は奪三振も多いですが与四球も多い投手で渡米前の94年の対西武戦での与四球16[個/試合]は未だに日本記録です。そして村上雅則が帰国後南海ホークスで72年の対西鉄戦で作った与死球5[個/試合]が日本記録です。何とも不思議ですね!!
 [ちょっと一言]方向指示(次) 私は渡米前の野茂のトルネードを日生球場(=大阪市内の狭い球場)で1度見たことが有ります。速球とフォークの冴えた野茂の球は滅多に打たれず試合も勝って居るのに近鉄の守備時間の方が長いのです。その理由は、野茂は三振と四球が多い為です。三振や四球が多いと必然的に投球数が多く成る訳で、野茂が登板した試合は守備時間が長く見る方も体力を消耗したことを覚えて居ます。
 又、日米通算200勝を達成し「名球会」入会有資格者(※3)ですが金田正一の私的クラブの色彩が強い同会への入会を保留し、ここでも反骨精神を発揮して居ます。

  ◆野茂英雄へ − もう帰って来い!
 野茂よ、もう帰って来い。”ドケチ”の近鉄球団は君が出て行った後、99年に「大阪」を冠して地元密着を謳いましたが、地元とファンを無視した為に罰が当たって遂に04年で大阪近鉄バファローズは消滅 −近鉄は消滅前に「エゴイズムの成れの果て」の汚い策を弄し日本中をストライキの渦に巻き込みました− し、鈴木啓示元監督は指導者失格の烙印を押されスポーツ新聞に駄文を寄せる”しがない売文屋”、君が提案した代理人制度は今や日本球界でも常識に成り、日本プロフェッショナル野球組織(NPB)も改革され05年からはセ・パ両リーグの交流戦も実施されて居ます。
 現役を続けたければ日本プロ野球に復帰したら宜しい。近鉄の保有権は球団消滅と共に消滅したので何処とも自由に契約出来ます。東北楽天ゴールデンイーグルスや横浜ベイスターズが獲得に乗り出したなどの記事も飛び交って居ますので受け入れ先は有るでしょう。
 しかし、上述の如く現役を続けるには年齢的に限界です。投手として日米で頂点を極めた今は、私は一時的にでもプロ野球界から”足を洗う”決断を望みますね。「NOMOベースボールクラブ」を強化するのも良いし、暫くボケッとするのも良しです。新庄剛志は03年に米大リーグを辞めて帰国後、スパッと新生の北海道日本ハム・ファイターズに入団し北海道を大いに盛り上げ(←これは巨人の人気選手でも出来なかった快挙)、06年に北海道日本ハムを日本一にした直後にスパッと辞め、野球からも足を洗いました。常に新境地を切り拓いて来た君も新庄の様に新たな人生を切り拓いて欲しいですね。
 →その後、野茂は大リーグだけで無く野球界からの引退を表明

 (2)高橋尚子の場合 − 国民栄誉賞が人生を狂わせたアイドル走者
 この女性を一躍有名にし「お茶の間のアイドル」にしたのは2000年9月24日シドニー・オリンピック女子マラソンでの金メダル獲得で、2時間23分14秒というオリンピック新記録付きでした。何しろオリンピックのマラソンでの金メダル獲得は男女の別無く日本マラソン界の長年に亘る悲願で、皆の期待を一身に背負いロサンゼルス・オリンピック男子マラソンで14位に敗れ去った瀬古利彦の姿を未だ覚えて居る方も多いと思います。そんな状況の中で、テレビでドアップに大写しにされた彼女の顔を長時間大勢の”一般大衆”の眼(まなこ)に焼き付けた効果は絶大、「刷り込み効果」は満点(※4)でした。この時点から彼女はミニスカートを穿いて下手な歌を笑顔で歌うアイドル歌手と同列に成り、最初は仲間内の呼び名に過ぎなかったQちゃんという愛称が国民的アイドル名に変貌しました。
 この”国民的英女”(←「英女」は「英雄」の捩りで、私の造語)のアイドル人気に肖(あやか)ろうと目を着けたのが、無内容な政策と失言で人気失墜して居た時の総理大臣・森喜朗でした。そもそも第一次森内閣は脳梗塞で倒れた小渕内閣の後継としてボス達の談合で00年4月5日に発足するも3ヶ月持たず解散に追い込まれ、7月4日に発足した第二次森内閣でも相変わらずの失言連発で「総理の資質に欠ける」と言われ超低空飛行して居たからです。森首相は新鮮なアイドルの人気を自分の人気と内閣延命に利用することを思い付き、金メダルから僅か1ヶ月と6日の00年10月30日に高橋尚子を国民栄誉賞に捏(でっ)ち上げた(※5)のです。私はこの時、たったシドニー”一発”で「如何にも拙速、魂胆見え見え」とせせら笑って見て居ましたが、高橋側がまんまと乗っかって(=引っ掛かって)仕舞いました。この辺が何度も国民栄誉賞を打診されても引っ掛からないイチローとの大きな差です。イチローの態度や国民栄誉賞を与える側の”ご都合主義”については、既に04年に
  イチローに於ける”球道者”精神(ICHIRO is a pursuer of baseball)
の中できっちりと指摘して居ます。
 さて、延命を図った第二次森内閣はと言うと、にも拘わらず、01年4月26日で墜落的に終焉、他力本願は功を奏さずですね!
 その後の高橋尚子はどうか。02年迄は国際大会で優勝しましたが以後は徐々に下降線を辿りましたね。更に02年秋に胸の痛みを訴え肋骨の疲労骨折(※6)が発覚し、又タレントとして浮いた生活に馴染んだ後で熾烈を極めるマラソンに耐えられる道理は無く、アテネ選考レースの一つの03年東京国際女子マラソンでの失速2位は最早選手として限界が来ている事を、「見る眼」を持つ者に明らかにしました。
 しかしシドニー五輪で刷り込まれた「見る眼」を持たぬ”節穴眼(ふしあなまなこ)の大衆”は04年のアテネにアイドルが主役を演じるメロドラマを夢想しましたが、日本陸上競技連盟(略称:[日本]陸連)は既に世界選手権2位で代表内定済みの野口みずき以外の2人は東京・大阪・名古屋の国際大会での成績で選ぶと公言し、その”公約”通りに毅然とした態度で「マスメディア+節穴人間の共同幻想」を打ち砕き原則を貫いた事は大変評価出来ます。この間の大衆の付和雷同や陸連の態度に対する私のリアルタイムの意見、及び”国民的英女”なる語の初出は
  スポーツ解体チン書(Anatomical talking about sports)
を参照して下さい。私の「先見の明」が見て取れますゾ!
 私の先見の通り、04年のアテネ・オリンピックでは野口みずきが金メダルを獲得しましたが、人気の高かった小泉内閣では国民栄誉賞は話題に登りませんでした。つまりシドニー”一発”は不公平を生んだのです。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 高橋尚子が中距離トラック走者から転向しマラソン界にデビューしたのは97年の大阪国際(7位)で、翌98年の名古屋国際で初優勝し初めて注目される存在と成り、以後98年のアジア大会、00年名古屋国際を制して00年シドニー五輪に臨みましたが、その時点でマラソンのキャリアは高々3年でした。それ故に如何にもシドニー”一発”という印象が強い訳で、アテネ後の失速はその印象を更に強めました。その根拠を具体例を挙げて以下に示しましょう。
 1984年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得し高橋と同様に同年10月9日に国民栄誉賞を受賞した柔道の山下泰裕は、76年モントリオール五輪の補欠代表、80年モスクワ五輪の代表 −日本はソ連のアフガニスタン侵攻へ抗議する西側陣営と歩調を合わせて参加をボイコット− と、3大会連続オリンピック代表(出場は84年のみ)に選出され、しかも77年〜85年の引退迄に203連勝し不敗神話を築き、決してロス”一発”では無かったのです。
 柔ちゃんの愛称で親しまれて居る女子柔道の谷亮子(旧姓:田村)は92年のバルセロナ五輪に16歳で出場し銀、96年アトランタ五輪で銀、00年シドニー五輪で金、04年アテネ五輪で金メダルを獲得と、日本国民の期待をほぼ完璧に実現しましたが国民栄誉賞は未だです(替わりに03年に紫綬褒章を受賞)。種目が日本人に有利な柔道とは言え16〜28歳迄、オリンピック4大会連続でメダルを獲得(金2、銀2)した”本番に強い”精神力、出産後も尚現役で活躍する谷亮子こそ国民栄誉賞に相応しいと私は思って居ます。→その後、北京五輪で5大会連続メダル獲得に。
 更に他の同賞受賞者リストを見れば明らかですが、”一発”の業績で受賞したのは後にも先にも高橋が唯一の例で、他は長年の「積み重ね」が評価されたものです。


 アテネ代表漏れの雪辱を期す高橋は05年東京国際こそ優勝しましたが、北京代表を決める最後のレースである08年3月9日の名古屋国際に背水の陣で出場するも27位で敗退、最早選手寿命は尽きていることを衆人の前に露呈しました。これには流石の”節穴眼の大衆”も眼を覚ましましたね。08年北京代表には2大会連続の野口みずき他が選考されました。野口はアテネ後の05年ベルリンに於いて2時間19分12秒という日本新記録で優勝し、その後の国内重要レースにも全て優勝し現在30歳(北京の時は31歳)です。
                (>v<)
 私はこれで高橋尚子は選手を引退すると思いましたが08年3月24日に記者会見し、何と今年11月の東京国際を皮切りに来年1月の大阪国際と3月の名古屋国際の「国内三大大会に出場する」と発表したのです。私は3月12日〜26日迄中国に行って居たので、このニュースを知ったのは4月に入ってからでしたが、これには正直驚き且つ呆れましたね。陸連も困惑の体(てい)で「1シーズンに3つの選考レースに出場するのは極めて異例」などとコメントして見放した感じでした。唯一つ考えられるのは、野口が国内三大大会全制覇を達成して居る事です。08年の東京国際で野口がVサインの替わりに三大大会制覇を表す3本指を立ててゴールした光景は記憶に新しいと思います。高橋は大阪国際が未制覇なのです。そう成ると「女の意地」という訳で俄然面白みは増しますが、非常識ですね。
 思えば高橋はシドニーの2000年が28歳、この年が肉体的にピークだったと考えられます。08年の今は37歳、充分に”薹(とう)が立っ”た年齢でマラソン選手としては疾っくに限界を過ぎた年齢です。

  ◆高橋尚子へ − どうでもしなはれ、しかし他選手に迷惑掛けるな!
 私は08年3月の名古屋国際惨敗でアテネに続き北京の五輪切符を逃した時点で高橋は引退するだろうと思って居ましたが、豈図らんや、五輪後の国内三大大会出場の報を知って、高橋尚子は血迷って居ると思いましたね。高橋はずっと小出義雄監督の指導を慕って小出監督の移籍先に付いて行った人ですが、小出氏の許(もと)を離れた今は周囲に良きアドバイザーが不在と見ました。陸連にも見放されて孤立状態です。思えばこの孤立と”舞い上がり”を招いたのが、前述の如く森喜朗です。私の見立てでは高橋は”精神的便秘”ですので、腹の中にウンコの様に溜まって居る国民栄誉賞を返上したらスッキリしまっせ!!
 私から高橋に特に言う言葉は無いですな、「どうでもしなはれ」です。唯一つ「他選手に迷惑掛けるな!」とだけは言いたい。他の選手からすればタレントの出場でレースがイベント化されては迷惑千万な話です。高橋も選手なのかタレントなのかはっきりしない生き方をして居るとタレントとしての賞味期限も切れると気付くべきです、ファンや大衆は身勝手な存在です。男子マラソンの瀬古は1988年に32歳で引退して指導者に成った事を一つの教訓にして欲しいですね。
 →その後、高橋が”迷走”の挙句にやっとプロ走者引退を表明

 (3)伊達公子の場合 − 不甲斐無い若手に活入れ
 当初は掲示板に書き込む積もりで以上の二人の例をメモ書きして居た所に、一旦引退し既に”薹が立っ”た37歳の御仁が再び現役に復帰し見事に復帰戦を飾ったというニュースが飛び込んで来ました。08年5月4日の岐阜市長良川テニスプラザで行われたカンガルーカップ国際女子オープン最終日に、何と12年振りに現役復帰したクルム伊達公子ダブルス決勝で優勝し、シングルスでも準優勝 −タイのタマリネ・タナスガーン(世界ランキング86位)に決勝で敗戦− しました。それ迄伊達が復帰した事を知らなかった私は、4月7日の復帰記者会見の報をこの時調べたら復帰の理由を「若手に刺激を与える為」と語って居ました。
 私流に解釈すれば、今の若手は不甲斐無いので一丁活入れたろか、という所でしょう。で、実際に長良川ではシングルス/ダブルス共に伊達より上位の日本人選手は居なかったので、テニス界に於いても若手が不甲斐無いのは確かな様です。私は相撲界に於いて日本人の若手が不甲斐無い現状を
  不甲斐無い日本人力士たち(Gutless Japanese Sumo wrestlers)
で指摘して居ます。又、スポーツ界だけで無く今の若者が押し並べて無気力に成った原因について
  戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
の中で確りと分析して居ます。
 高校を出て直ぐプロに転じた伊達は日本人女子として初めて世界ランキングのトップ10入りを果たし最高位4位(95年)迄上り詰めた選手です。相手ボールが自分のコートでバウンドした直後に打つライジング・ショット(rising shot)の名手として鳴らし、ウィンブルドン(全英オープン)/全仏オープン/全米オープン/全豪オープンなどで準決勝(=ベスト4)に進出するなどし、96年のアトランタ・オリンピック女子シングルスでベスト8入りを果たしたのを潮に26歳で引退し見事な「引き際」を見せました。引退後は01年にドイツ人カーレーサーのミハエル・クルム氏と結婚し、クルム伊達公子を本名とします。
 伊達が現役時代には他の女子選手も世代的塊を成して活躍し国際大会にも束に成って進出して居ましたが、今は32歳の杉山愛が孤軍奮闘するも肝心の若手が伸び悩んで居るのが現状です。その杉山も「若手が伊達に刺激を受けて出来る様なら前から出来て居る筈」と言って居ますが、仰る通りかも知れません。伊達が何時迄「活入れ」を続けるのか、何を以て「引き際」と考えているのか、そこが問題ですね。

  ◆伊達公子へ − 復帰後は「引き際」が肝心
 伊達が「活入れ」に乗り出した気持ちは解りますが、自らの身体に鞭打って身を挺して迄する必要が有ったかどうかは、人に依って評価が分かれる所でしょう。即ち自ら大会に出場しなくても指導者として若手を鍛える道も有るからです。伊達も既に37歳、何時迄も現役を張れるものでは無い事は伊達自身が一番良く知っている筈です、だからこそ26歳の若さで引退した訳ですから。
 事実、滑り出しは良かったですが次の福岡国際シングルスでは準々決勝で中村藍子(24歳)に敗れベスト8止まり、次いで久留米市ベストアメニティカップ・シングルスでも福岡国際を制した米村知子(25歳)に準々決勝で敗れベスト8止まりでした。足踏み状態ですね、若手が奮起したという事でしょうか?!、体を張っての「活入れ」は楽では無いということです。{この福岡、久留米の記事は08年5月20日に追加}
 私は現役としての「活入れ」は高々1年と考えて居ますが、どうでしょうか。活入れ後の「引き際」を間違うと、過去の栄光の晩節を汚す結果に成り兼ねない(※7)ので、呉々も「引き際」が肝心です。テニスに思いが有るならば、やはり指導者の道を歩むべきと考えますが、無いならば普通のおばちゃんがカッコエエでっせ!!

 ■結び − 晩節の「欲」
 スポーツ選手を事例研究のサンプルにして「男の引き際」「女の引き際」を具体的に見て来ましたが、野茂の節で記した新庄剛志がやはり鮮やかな「引き際」を見せました。反対に自分の俗物的な「欲」からマラソン走者に罪な重荷を背負わせた森喜朗は総理大臣を辞めた後もアメリカの傀儡に過ぎない政界にしがみ付いて居ます。他にもしがみ付いて引けない人が各界に大勢居ますね。潔く引けないのはやはり「欲」でしょう、どうやら潔く引く為には「欲」を捨てる事が先決という結論が導けそうです。江戸時代、自らけじめを付けて隠居(※2)した人も、或いは外圧で隠居させられた人も、この「欲」を[自らか他からかは色々在ったにせよ]結局は捨てさせられたのです。
 「醜い顔曝すな、引っ込め!」と言った粋(いき)な江戸時代は遠く去り、現代はそれとは対極の野暮尽くめの平成の多老社会の真っ只中、昔の瓦版(※8)から今や巨大な存在に成り上がったマスメディアに晩節の醜さを曝す側も享受する側も、延命欲に取り憑かれマスメディアの権化たるテレビにしがみ付いて居ます。現代では「引き際」という言葉は死語と化し”醜い顔”が巷に「氾濫」し過ぎて感覚麻痺を来たして居ますが、或いは「引っ込め!」と迂闊に言ったら自分が引っ込まなければ為らない世の中なのかも知れません。
 本論考はその様な状況に対し少し乍ら「反乱」を試みましたが、如何せん多勢に無勢、多老に無頼、これにて私が引っ込む頃合かと自らの「引き際」を察知致しました。お後が宜しい様で、では失礼仕ります!!

 尚、[多老社会を考える]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

 >>>■その後
  ●野茂英雄、現役引退の報
 08年7月17日(木)、ロイヤルズから戦力外通告されて居た野茂英雄投手が現役引退を表明した、という一報が飛び込んで来ました。今後どうするかなどは未詳ですが野茂に対する私の気持ちは上に記した通りですので、私は野茂の決断を歓迎します。
    {この段は08年7月19日に追加}

  ●谷亮子、北京五輪で「銅」
 本文で谷亮子に触れましたが、08年8月9日(土)に北京オリンピックの女子柔道48キロ級に出場した谷亮子は3連覇成らずも銅メダルを獲得しました。準決勝で負け3位決定戦で勝ったもので、これでオリンピック5大会連続でメダルを獲得(金2、銀2、銅1)です。夫の谷佳知選手(巨人)は「銅でも金に見える」と語ったそうですね。
 谷亮子も9月の誕生日で33歳、既に峠は過ぎているので私は「今年は「金」は難しいだろう」と見て居ましたがプレッシャーを跳ね除けての「銅」は立派なものです。試合後の会見で次を目指す様なニュアンスを含めましたが、そろそろ「引き際」を考える時期に来たと思いますね。何でも彼でも目一杯続けるのが良いというものでも無いでしょう、後進に道を譲る気概も大切です。
    {この段は08年8月10日に追加}

  ●高橋尚子、”迷走”の挙句に引退
 08年10月28日午後5時過ぎに女子マラソンの高橋尚子が記者会見を開き遂に引退を表明しました。記者会見の記事では色々言ってましたが、血迷った”迷走”の挙句、というのが私の印象ですね。「引き際」の手際が悪かったということです。7月、8月と練習し乍らプロ高橋として限界を感じつつ悩んだそうですが、限界は疾っくに感じてた筈で、私はやはり「チームQ」のスポンサーに対する遠慮が有ったと思いますね。しかしそれを押し隠し「完全燃焼した」などと会見で”負け惜しみ”を突っ張る所は一人前のタレント(←厚顔無恥なという意味に於いて)です。
 その辺りは後日の小出氏(現在、佐倉アスリート倶楽部代表)のコメントでも充分窺い知れます。10月29日、中国昆明での合宿から帰国したばかりの成田空港での記者の質問に、小出氏は「事前の相談は無く引退は今朝電話で知らされた。吃驚した。」とした上で「(練習の)遣り方が分からない儘の完全燃焼でしょ。」と答えて居ます。高橋が長年の恩師・小出監督の許を去り新スポンサー −医薬部外品(※9)や健康食品やスポーツ関連商品の販売業− の下で「チームQ」を結成したのが05年6月で、結成直後の東京国際には優勝したものの、その後はレース前の故障や調整ミスでの負けが続き私も「変だな」とは思って居ましたが、マラソンにそれ程興味が無く事情にも疎い私はそれ以上考えませんでした。
 今調べてみると、「チームQ」のメンバー構成は高橋尚子を中心にコーチ(=併走ランナー)・トレーナー・管理栄養士・ドクター、そして全体の調整役などから成り、ランニング・メニューは高橋本人が案出して進めたとの事で、周囲はイエスマンばかりだったと想像出来ます。私が本文で指摘した通り、そして小出氏もコメントの中で触れた様に、結局は客観的に対等に高橋に練習の遣り方を進言出来る良きアドバイザーが周囲に不在だった訳です。そして「チームQ」に群がった”練習の遣り方が分からない”連中やスポンサーは、高橋の知名度に便乗し自分の商売の”客寄せパンダ”に利用したり有名人との交際を自分の箔付けにひけらかしたりと打算的な算盤を弾いて居たと推察するのは下衆の勘繰りでしょうか?
 まぁ、これで私が暗に引退勧告した通りに成り高橋が他選手に迷惑を掛ける心配は無くなったので結果は良しです。私は高橋個人には全く興味有りませんので、高橋さん後はどうでもしなはれ!
    {この段は08年10月31日に追加}

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:引き際/退き際(ひきぎわ)とは、引き退く時。特に、現在就いている地位から身を引く時。「―が肝心だ」。

※2:隠居(いんきょ、retirement(事), retired man(人))は、
 [1].世事を捨てて閑居すること。致仕。今昔物語集13「只―を好む心のみ有り」。
 [2].家長が官職を辞し、又は家督を譲って隠退すること。又、その人、その住居。戸主が自己の自由意志に依ってその家督相続人に家督を承継させて戸主権を放棄することで、中世の武家法以来の伝統的な法制であるが、1947年廃止
 [3].江戸時代の公家・武家のの一。地位を退かせて家禄をその子孫に譲らせること。
 [4].江戸小伝馬町の牢内囚人の顔役の称。伎、小袖曾我薊色縫「行きやア―と立てられて、見舞の初穂を喰ふ株だが」。
 [5].当主の現存の親の称。又、老人の称。

※3:名球会(めいきゅうかい)とは、日本プロ野球名球会の通称。プロ野球選手の親睦団体で、入会資格は昭和生まれを対象に投手では200勝以上、打者では安打2,000本以上の条件が有る。金田正一らに依り1978年設立。その後、時流に合わせ2004年度から投手として250セーブ以上を付け加え、日米通算も可に改定。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※4:刷り込み(すりこみ、imprinting)とは、[1].〔生〕多くの動物、特に鳥類に於いて最も顕著に認められる学習の一形態ローレンツが最初に記載。生後間も無い特定期間内に目にした動物や物体が雛に固定的に認識され、以後それを見ると機械的に反応する。刻印付け。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、一部「Microsoft エンカルタ総合大百科」より>
 [2].転じて一般用語として、特定の物事が短期間で覚え込まれ、その影響で以後の思考や行動が長期間に亘り規制される場合にも使う。洗脳と同様の作用を及ぼす。「―効果」。

※5:国民栄誉賞(こくみんえいよしょう)とは、広く国民に敬愛され、前人未到の業績を上げた人に内閣総理大臣の決定を経て贈られる表彰。1977年、プロ野球の王貞治選手が最初。
 補足すると、国民栄誉賞は1977年福田赳夫内閣の時に米大リーグのハンク・アーロンが保持して居た本塁打の世界記録755本を抜いた王貞治選手(読売ジャイアンツ)を表彰する為に創設された。

※6:疲労骨折(ひろうこっせつ、stress fracture)は、同じ動作を何回も繰り返すことで、骨の一部に持続的な刺激が掛かる為に起こる骨折。ゴルフでの肋骨骨折、ランニングでの脛骨骨折、ウサギ跳びでの腓骨骨折などが有る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※7:晩節(ばんせつ)とは、
 [1].晩年。老後。
 [2].晩年の節操。「―を汚す」。
 [3].末の時。末の世。末年。
 [4].季節の終りの時期。

※8:瓦版(かわらばん)は、粘土に文字・絵画などを彫刻して瓦の様に焼いたものを原版として一枚摺りにした粗末な印刷物。江戸時代、事件の急報に用いた。実際は木版のものが多い。但し「瓦版」の名は江戸末期のもので、それ以前は絵草子など。

※9:医薬部外品(いやくぶがいひん、quasidrug)は、薬事法に拠り医薬品と区別されて居て、或る程度の薬効は有るが人体に対する作用が緩和なもの、及びそれに準じ厚生大臣の指定するもの。但し器具・器械類は含まれない。製造には承認・許可が必要であるが、販売には医薬品の様な規制が無く、一般小売店/スーパー/コンビニ店でも販売出来る。歯磨き/蚊取り線香/日焼け止めクリーム/脱毛剤/養毛剤などの類。<出典:「現代用語の基礎知識(1999年版)」、「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
 補足すると、一般に医薬品との区別が明確に認識されて無い為と、医薬品より規制が緩い為に、中には薬効や因果関係が曖昧な商品も在る。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

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