最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

矢車草

6/25/2017/SUN

はじまりの死生学、平山正実、春秋社、2005


はじまりの死生学

ずっと探していて、新しく通いはじめた図書館でようやく見つけた。

平山正実の本は、これまでに3冊、買って読んでいる。

『自ら逝ったあなた、遺された私―家族の自死と向きあう 』:この本で「自死遺族」という言葉を初めて知った。この本を読んだときは、まだ自死遺族について書く準備ができていなかった。

『自死遺族を支える』:著者が地道に支援活動をしていることを知った。

『精神科医の見た聖書の人間像―キリスト教と精神科臨床』:精神疾患の原因として「本人の我欲」が挙げられていて非常に驚いた。


平山正実の著書は、内容においても文体においても、非常に厳しい。精神疾患の患者ならば、調子の悪いときには読まないほうがいい。

おそらく、著者は他人に厳しい以上に自分に対しても厳しい人なのだろう。行間にストイックな人物像が思い浮かぶ。

   命の問題を考えるときには、知恵とバランスが大切であるように思う。旧約聖書に「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪ゆえに長らえることもある。善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう」(コヘレト7:16-17)しかし、善か悪かの二者択一的な生き方ではなくて、むしろ両者を見据えて、自分の考えをもう一度客観的に見直し、両極端を避け熟慮しながら、畏れをもって決断することが大切であろう。

死は特別な出来事ではない。死と生は対立しない。死は終わりでなく始まり。終わりのなかに始まりがある⋯⋯。

こうした主張は初めて死生学の本を読んだ人には多少驚きはあるかもしれない。いくつか死別体験死生学の本読んできた私には、書いてあることにほぼ異論はない。もっともなこととは思う。

ところが、読み進めていると、どこか馴染めないところがある。


たとえば、「喪失体験を否定的にとらえず、むしろ肯定的な体験として捉え直す知恵を身につける必要がある」ことを、テニス選手のフェデラーが恩師の死を乗り越えて大会に優勝したことを引き合いに出している。

この論旨から察するに、著者は"PTG"という概念についても積極的に肯定する立場だろう。

死別体験を積極的に受け入れ、悲嘆を前向きに生きる力に変えるという主張が、平山正実の死生観の大きな特徴といえる。

そこにこそ、私が彼の考えのすべてを受け入れられない分岐点がある。


人は強くなければいけないのだろうか

強い、ということは勝負に勝つことだろうか。

確かにパウロは「最も弱いときに最も強い」と言ったかもしれない。

しかし、彼の言う「強さ」は何かに打ち克つようなことではないように、私は思う。パウロは挙兵してローマ皇帝と戦おうとしたわけではない。また、使徒ペテロは『クオ・ヴァディス』に描かれているように、キリスト教徒が迫害されているローマへ戻る師に出会い、ローマに戻った。


キリスト教徒の立場から、「強い」こととは何かに「打ち克つ」ことと著者は考える。私は特定の宗教の立場に今はいない。特定の宗教の教理ではなく、もっと普遍的な意味でも、「強い」ということは「勝つこと」ではないと考える。


「弱いときにこそ強い」というときの「弱さ」とは、私が思うに、ほんとうに「弱い」ことを意味している。言葉を換えれば、弱さの中に強さが宿るのであり、弱さが強さに転化するのではない。

弱いまま弱い自分に耐えて生きていくことは、逆境をバネにして弱さを強さに変えることよりもきっと難しい。

イエスの最後のように、逮捕され、起訴され、判決を下され、処刑される、最悪最低の状態。

その苦しみを「克服」するのではない。克服することなどできない苦しみだから。できることはせいぜい「耐える」こと。

「耐える」ことの先にあるものが「強さ」ではないか。

「強さ」がどういうものか、私は知らない。ただ、自分の「弱さ」についてはわかってきた。

心を病み、仕事を失い、身体も痛めた。ようやく仕事を見つけたものの、報酬は前よりずっと少なく、その仕事さえ満足にこなせていない。周りには元気な若い人たち⋯⋯⋯。

この状況を克服できるとは思っていない。若い人と同じように仕事に打ち込み、遅くまで働き、働きがいを持って暮らす。そういうことはもうできない。

こういう「日常」に耐えていかなければならない

その先にどんな「強さ」があるのか。すでに書いたように今の私にはわからない。そもそも耐えられるのか、楽観的にはなれない。


さくいん:平山正実