Home > 院内通信 > 断片集

断片集

1.子育てについて
2.患者さんは先生です
3.騎手と馬
4.病気がなかなか良くならないのは何故ですか?
5.引き受ける精神−1
6.引き受ける精神−2(雄雄しさと女々しさ)
7.引き受ける精神ー3(死にたがるあなたへ)
8.白い満足、黒い満足−1
9.「頑張る」ということ

断片集−その9

■「頑張る」ということ

「頑張ってください」というのは,日常的に多くの人が何げなく使う言葉です。

何かの折に,信頼する誰かに,「頑張れよ」,「頑張ってね」といわれて悪い気がする人はあまりいないでしょう。

しかし場合により,人によっては,「分かっているよ」と内心でうるさく感じることがあると思います。

うつ病では,「頑張れ」といわない方がよいといわれています。多くの人がそのように理解してもいるようです。それは,「頑張れ」ということが励ましにはならないからです。励ましているつもりが,逆に圧力をかけることになりかねないからです。

うつ病者はそもそも「頑張る人」が多いので,その挙句にいまの不調があるともいえます。「頑張れ」といわれると,「まだまだ頑張りが足りない。いまの自分は駄目なのだ」という否定的な意味に受け取ることになりがちです。

それは「頑張る」というのが,元々は,他から課せられたもの(義務教育なので学校に通うとか,小学生の宿題とか)について,期待に応えていくという意味があるからだと思います。

何かをするときに動因となるのは,心の内から湧き出る意欲と,他から課されたものとの混淆であるといえるでしょう。

天分といえば,自然に才能が開花することかといえば,むしろそうではなく,親をはじめとした周囲の大人の厳しい管理的指導が欠かせないようです。関与の厳しさが才能の芽をつぶさないで済むのは,本人の意欲の強さ,才能への自信の強さがあってのことのように思われます。

いかなる行為にも他から課されたという側面が必ずあるからには,すべての行為に他者の眼差しが入っているといえます。その眼差しに応えようとするのが,頑張るということです。

最近はあまり目にしなくなりましたが,うつ病に陥る典型的な病前性格があるといわれてきました。時代と共に心の病気の様相も変わっていくので,現代では,うつ病といっても一様には論じかねるのですが。

この伝統的なうつ病の病前性格は,昭和時代の初期から中期に活躍した下田光造によって執着気質と命名され,概念化されています。

下田が活躍した当時の日本では,第二次大戦前のことで,国威発揚が声高に叫ばれていました。そういう時代ですから,批判的精神より滅私奉公型の精神が尊重されたのは当然といえば当然です。

この時代,思想や言論の統制,取り締まり,町内会を通じての意志の統制など,国家権力の下に国民が一途の規制を強いられ,扇動され,一丸となって全体主義国家へとなだれこんでいきました。自由精神は圧殺される時代でした。

人間の弱さ,悲しさは,時代の風潮に逆らうのが困難なことです。

自由な判断が許されているのなら,従ってはならないことに逆らうのが良心です。

外部から巨大な圧力がかかったときに,その良心を保つのは至難といえます。自我が保身に向けて動き出すときに,意識の欺瞞化が容易に起こります。それは平時であれば卑怯ということになりますが,欺瞞化であるゆえんは,心の痛みを伴わないことです。つまり卑怯を卑怯と思わないのです。

そのようにして,国家権力によって課せられたものが,いつか自分からすすんで(国のために)引き受けるという意識になり,国民の大方が疑問を持たなくなります。

そうでなければ戦争などは成り立たないともいえるでしょうが。

人間に一番大切なものは何かといえば,自由と答える人が多いのではないでしょうか。自由が圧殺される状況は,平和な時代であれば犯罪的なものといえるでしょう。

だからこそ戦争には大義名分が重要です。

本当に自由を守るための戦争であれば,それは正義であり立派な名分になります。進んで,情熱的に,個人の自由を国のために捧げることも人は厭わないでしょう。

’命あっての物種’で,命があってこその自由ですが,場合によっては,自由を守るために一命を捨てることも辞さないということも起ります。

戦争では,必ず何らかの名分が掲げられます。その名分はいつも何らかの自由を守るためということになります。それは大抵は権力者たちの自由を守るためのものといって過言でなさそうです。そして自由に判断できるのであれば首をかしげるものであっても,戦争というほどの事態になると,多くの場合,国民の大勢はそれに従うほうへ雪崩を打つのが歴史的事実です。

いうことを聞かない小国を罰するのは,しばしば大国の正義になります。大国の市民の大勢がそれを支持するのが現実です。大国の国民の自由が,小国の国民の自由を踏みにじることで成り立つのであれば,それは自由の名に値いしないのですが。

力が強い者の自由の前に弱い者の自由が無視され,踏みにじられることは,個人的レベルから国家的レベルにいたるまで,いたるところに見られる現象です。個人的レベルでは,母と子のあいだで起こりやすく,そのために,子供が大きくなってからさまざまな精神の病理性に悩むという現象は,診療場面ではおなじみのものといえます。

自由というのは,いうまでもなく容易な問題ではありません。

精神性は身体性と切り離して存在することはできません。自由もその例外ではありません。

高度に純化された自由の精神とは,身体性が理想的に克己されたさまといえるでしょう。

おなじ理由から,不純なものを内に含む自由とは,身体性を無視し難く内に含んでいるということになるのです。

自由の精神が理想的に高くなれば,職業に貴賎はないとか,万人が等しく自由であり,平等であるとかということになるのでしょうが,現実の人間はこの理想からはるかに遠いところにいるので,これらの美しい理念は空々しい響きを持っています。

現実的な自由にば,個人的な利得,欲求などの身体性を色濃く内に含み,結局は力の強さの順番に,その種の自由は享受されるのです。

権力者の自由とは,しばしば,自分の利得のために他人の自由を奪って憚らない,自由の名に値いしないものというべきものでしょう。

私心を最大限に払拭した純化した高邁な自由精神の持ち主であれば,政治などに携わろうという意志を持たないだろうと思いますが,このように高邁なといえるほどに純化された自由の精神を具現している人は,極めて稀なことでもあるに違いありません。

一般的に自由というのは,甚だ不純な代物であることになります。

そのようなことがいえるので,自由の意識は,容易に欺瞞化されます。

執着気質者は,良かれ悪しかれ滅私奉公型であるのを特長としますが,滅私奉公という美風が,そのようなわけで権力者にとって甚だつごうのよいものであるのは否めません。

しかし以上の論旨でいけば,この気質の美風を不当にこき下ろしたことになりかねないので,補足が必要です。

滅私奉公型の精神にはそのような問題がはらまれているといえるものの,精神にかかわる多くのことがそうであるように,身体性のほうに偏るおぞましいものから,精神性の方向に浄化され,高邁というレベルに達している人に至るまで,十把一絡げというわけにはいきません。

滅私奉公型の中でも,下は力を持つ者に媚び,利得を狙い,狡賢く,濁った目つきの者たちがある一方,上はそれらの身体性が純化され,愛他精神といったものに浄化されている人々があります。執着気質と呼ばれる場合は,後者の意味合いが込められているといえます。

権力者に利用されないかぎり,この気質の人たちは有徳の持ち主です。歴史的にも,虐げられる民衆のために一命を賭して行動する人もあったと思います。

精神の高邁の中心にあるのは,自由の精神が健在であることといえるでしょうが,この観点から,対立する二つの典型的な気質を上げることができます。

一つは分裂気質者,一つは執着気質者がそれです。

両者を分けるのは,それぞれの自己が拠り所としているものの相違です。

人は自己自身との関係であり,同時に他者との関係でもありますが,それらを総合して心の中軸に何が位置しているかという問題です。

前者は自己自身,つまり内在する主体にあり,後者は集合体としての他者,つまり外なる主体とでもいうべきものにあると考えられます。その集合体としての他者というのは,内在する主体の外在化とでもいうべきものです。前者の自己の主な拠り所が内部(主体)にあり,後者のそれは外部(集合的他者)にあるという違いが,前者を超俗的にさせ,後者を世俗的にさせる理由と考えることが可能です。

前者は孤高の人として人々の輪から離れたところに存在し,後者は輪の真ん中に存在します。前者は冷ややかに,後者は暖かに,周囲の人には感じられ,前者は隣人愛よりは人類愛に,後者は人類愛よりは隣人愛に傾きます。

ところで頑張るというのは,先にも述べましたが,他から課せられたものを引き受けて,こなしていく努力というふうにいえると思います。

一般に何かの行為をするときに,内発的な欲求と,他者から課せられたものとが混淆して意志となり,動機となるといえるでしょう。両者は合い携えて何らかの行為を可能にするといえますが,そのどちらにより多く比重があるかによって,「熱中する」のと,「頑張る」のとの比重の違いとなってきます。

人は何ものかに依存しつつ存在可能ですが,個々の他者の存在を欠かせない拠り所としているのであれば,それは個としての確立が未熟,不確定ということになります。

自己がそれなりに確立されているとき,自己自身との関係,つまり主体との関係が計られているか,あるいは集合体としての他者との関係が計られているかのどちらかであるといえるようです。

前者は自己の拠り所がより内的なので,「熱中する」でしょうが,後者はそれがより外的なので「頑張る」ことになるといえます。

つまりは頑張るというのは,人の期待に応えようとするさまであるといえるでしょう。

自己の拠り所が‘より外的’であれば,それに生真面目に応えるためには,いわば‘あらゆる人の目に適う’ものでないかぎり,安心できない,申し訳が立たないということになります。どうしても完璧であろうとします。それが執着という意味になると思います。


ページトップへ
Copyright (C) Ookouchi Mental Clinic All Rights Reserved.