1.子育てについて
2.患者さんは先生です
3.騎手と馬
4.病気がなかなか良くならないのは何故ですか?
5.引き受ける精神−1
6.引き受ける精神−2(雄雄しさと女々しさ)
7.引き受ける精神ー3(死にたがるあなたへ)
8.白い満足、黒い満足−1
9.「頑張る」ということ
Aさんは友達に頼まれると,努めて明るく,「いいよ」という人でした。人に親切で,ある意味では「引き受ける人」です。しかしここでいう引き受ける精神というのは,このような意味ではありません。
Aさんは,「断ると,バイバイっていわれそうで怖い」といいます。喜んで引き受けるというのではなく,本当は断りたいのです。しかし人に見離されるのが怖いので,その友人に内心では腹を立てていることさえ気がつかなかったのです。
怒りは何かを破壊する力を持っています。Aさんが友人に怒りを向ければ,友人との関係が壊れるかもしれません。怒りを我慢すると,心や身体に支障が出るかもしれません。事実Aさんは,激しい過呼吸発作に,しばしば死の恐怖を経験しました。その原因は怒りであるといっても間違いではありません。そういう意味では,怒りというのは厄介な存在です。しかし怒りは無意味なものかといえば,そんなことはありません。
動物では,怒りは生きていく上で重要な意味を持っています。動物は一般に本能として満足と安全とを求めます。それを脅かす侵入者には,怒りを向けて撃退しようとします。
人間ではどうでしょうか。人間の場合は,他者との関係が動物一般とは違った重要な意味があります。動物でも群を作って行動するなど,他との関係は生存の上で重要であるのはいうまでもないでしょうが,人間の場合は自我に拠る存在であるという点で,特殊な意味を持つのです。
自我というのは難しい概念ですが,植物での胚珠になぞらえられるでしょうか。人間が身体的のみならず,精神的な存在として成長していく上での情報がぎっしりと詰まった自我機構が,植物における胚珠に相当するといっておきます。ですから身体は物質ではなく,精神性と切り離して捉えることはできません。身体の痛みは心の痛みであり,身体への陵辱はそれ以上に精神への陵辱になるのです。
このように物質としての身体を,精神から切り離して捉えることができないように,自我に拠る人間にとって,あらゆる対象が主観的であり,かつ客観的であるという体裁になり,両者を切り離して捉えることができません。ですから人間にとって,世界の一切が現象として存在します。
主観と客観とがそうであるように,あらゆる現象を二極に分化して捉えるのが,自我の能力的な特徴です。
白と黒もその一つです。純粋の白はなく,純粋の黒もありません。かぎりなく白に近い黒が白であり,かぎりなく黒に近い白が黒です。それは自我が全体を全体として捉える能力がないことを表しています。全と無は両極に分かれているようですが,自我はかぎりなく全にちかづく,あるいはかぎりなく無にちかづくことができるばかりで,全そのもの,無そのものには至り得ません。全と無の二極分化には,自我の観点からという限定がつくのは,当然といえば当然のことです。
男と女,自己と他者も然りです。それぞれは歴然と異なるように見えますが,現象的な客観としてそのように存在していると認識しているということであって,それらは純粋客観ではありません。男はかぎりなく男に近い女であり,女はかぎりなく女に近い男なのです。他者も同様に,かぎりなく他者に近い自己であり,他者はかぎりなく他者にちかい自己といえます。
事実,心理学が蓄積した知見によれば,男は女を心の内景として持ち,女は男を心の内景に持っています。他者と自己の関係も同様です。いうならば男と女は合体してはじめて完全であり,自己と他者もそのような関係にあります。
'05/08/15