1.子育てについて
2.患者さんは先生です
3.騎手と馬
4.病気がなかなか良くならないのは何故ですか?
5.引き受ける精神−1
6.引き受ける精神−2(雄雄しさと女々しさ)
7.引き受ける精神ー3(死にたがるあなたへ)
8.白い満足、黒い満足−1
9.「頑張る」ということ
たとえば「本に,うつ病は三ヶ月で治ると書いてありますが,なかなか良くなりません。何故ですか?」という質問を,時に受けることがあります。
うつ病は薬が合えば,それだけで速やかに回復していく代表的な心の病気です。
心と身体は密接不可分の関係にあるので,心の現象には正常と異常とに関わらず,それに相応する身体的側面の理由があることはいうまでもありません。ですから薬が効いて治ることもありますし,薬だけではうまくいかないことがあっても不思議ではありません。
うつ病は薬だけで治ることが珍しくない一方で,神経症や人格障害は薬で治ることはできません。
こういうことがあるので,うつ病は何らかの生物学的な原因があると考えられていますが,先にも述べたように,うつ病といっても各人各様で,薬がまったく効かない場合もあります。
それでは薬が十分には役に立たない場合,どのように考えればよいのでしょう?
結論的にいえば,自我が鍵を握っています。自我が自由で独立していれば心の病気になることはありません。逆にいえば自我の機能を回復させるのが治療の目的です。
自我は専門用語なので,あまりなじみがない言葉だと思います。
心にはその気になれば自分でも分かる世界と,分からない世界とがあります。言い換えると意識の世界と無意識の世界ということになります。
簡単にいえばこのようになりますが,実際は意識できる世界といっても,いうならば薄暗すぎて手探りで見つけることができるかどうかという困難や,複雑に入り組んでいたり,対立しあったりなど,幾重にも錯綜しているので容易には捉えることができません。ましてや無意識となると,意識化ができないということですから,見ようとしても見ることができないものが存在していることになるのです。自我というのは意識の世界の中心にあるものです。そして自己形成の中枢でもあります。その時々の状況的な課題を担い,超克することによって自己形成が計られます。それは無意識の領域へ分け入る心の作業でもあります。つまり意識化するのが不可能なものをまで問題にしなければなりません。これは大変矛盾した話ですが,克服し得ない矛盾を内包していることこそ人間存在の特徴です。いうならば人間存在は無意識という深淵を内に持っています。
では,意識化できない無意識なるものが存在しているといえるのは,何故なのでしょうか?
その理由の一つは夢の存在です。夢も意識化されたからこそ目覚めた後で想起できるのです。日中の意識の活動は多くは能動的です。つまり,「私が見ている」,「私が聞いている」というふうに,それぞれの私の意識が意志的に対象に向っています。一方で夢については意識が受身です。「見ている」という能動性はなく,「見たのを覚えている」という受動性の中にあるのです。そうすると夢を意識に向けて創出しているのは,意識自体ではあり得ません。
このことを定式化すると,「夢は疑いなくある。それは意識が受動的に活動していることを表している。しかし夢を送り出しているものは何か?それは確実に存在しているが,意識できない以上はその存在様態を知ることはできない」ということになるかと思います。
その目で見てみると,日中の意識が覚醒した状態の下でも,夢とおなじように意識が受動的になっていることがあるのが分かると思います。
そのようなことを考えると,我々が意志的に意識しているように感じられることも,むしろそうではなく受動的な活動に支配されているらしいことに気がつきます。
たとえば意識とは何かといったことを考えるとすると,それは能動的な意識活動のように見えます。その活動の拠り所は自我にあるのですが,自我は意識についてこれまでに学習したことを思い出す心の作業をしていきます。その記憶を取り出す作業は能動的な意識活動といえるでしょう。しかしそれが全てであれば,我々人間は全てを知っている,あるいは少なくても知ることができることになります。言い換えると人類の最高の知者がいるとして,我々はその知者から学び取っていけば,全てを知ることができることになるでしょう。ではその知者はどのようにして,誰も知らないことを知ることができたのでしょう?その知者は人間の中の最上位にあるとして,我々は彼から学びつくすと,それで全てということになります。換言すると,その知者は人間らしく有限の存在であるらしいので,我々の全てが知識に関して一定の限界に到達して,そこで終わる・・・といった妙なことになります。ではその限界の外を知りたければどうなるのかと考えれば,答えが行き詰るのは明らかです。
いま述べたように,考えるという心の作業は,知識や記憶の集積だけでは済みません。言い換えると意識の能動作業は,一定の限定つきで可能であり,意味もあるのですが,どうやら受身で受け取る作業の方により大きな意味があるらしいということになってきます。
そのことは意識の存在は心の全てではなく,意識できない力の存在を認めないわけにはいかないことを示しています。何かを考えるという創造的な行為は,意識が無意識から立ち上がってくる意味のある信号を受け取る作業であるといえます。
こういうことをくだくだしくいうまでもなく,我々人間は,心の内外の現象の全てを知ることは不可能であるのは誰でも知っていることです。つまり意識できないものが存在しているのは自明のことです。
このように意識化が可能なものが現象的実体で,有限の世界ということになります。そして意識化が不可能なもの,つまり無限の世界が存在し,これらを現象的実体として捉えることは人間にはできません。
生きるということは有限の世界でということになりますが,その心の営為の中心に自我があり,それは無意識的世界に包囲されているともいえます。そしてこのように考えていくと,無意識といえども単に茫漠としたものではなく,自我との有意味な関連があると考えるのが合理的です。その有意味な関連がある無意識側にも,自我に匹敵する中心があると考えるのが自然な思考の流れというものです。その中心にあるものを,内在する主体と呼んでおきます。
それは現象的実体ではありませんが,現象的実体を意味の連鎖で繋ごうとすると,そのような仮説が浮かんでくるということです。それは現象的実体に準じるものであるといってもいい過ぎではないと思います。
結論的にいえば,自我がこの主体との関係の筋を探り当てることができているとき,自我は良い仕事をしていることになります。そういう心の状況にある証は,充足感,高揚感などとなって表れると思います。それはいうならば最上位者に認められた満足感と高揚感であるともいえるでしょう。
目前の欲求に駆られて行動する動物は,いわば自然のものであるといえます。人間はどうかといえば,いま述べた意味では自然のものではありません。
人間は自我に拠る存在です。そのために精神性と社会性とを追求する特異性を持っています。そのことと,人間が他者との関係を欠かせない存在要件としていることとのあいだには,密接な関係があります
このようにいえますので,人は自然そのものからは乖離して,精神的に上昇していく形で自己形成を計らなければならない宿命の下にあります。宿命というのは,自我の特徴である両極分離化が,ここでは上昇には下降,あるいは頽落がセットになっているという意味が含まれているからです。また精神性と社会性との二つの柱において,それぞれ上昇と下降が問題になります。
躾けは主に社会性の涵養であるといえます。それは原初の他者である母親,そして父親を中心として計られます。
他者の介入,あるいは関与は,人間には不可欠,不可避であり,自我の機能には先験的にそれらのことが含まれているように思われます。つまり他者は外なるものであるだけではなく,内なるものとして自我の機構に内包されているように思われます。他者は内なるものと外なるものとのあいだで,いわば阿吽の呼吸で一体化できるものであれば,あるいは人間もまた,動物一般と等しく自然のものといえるのかもしれません。しかしながら,現実には外なる他者は,独自の個性として存在主張をします。そのために親の躾けといえども,子の個性の尊重が踏みにじられ,親の価値観の押しつけ,侵入というものになりがちであるのは避けられません。それが子の心の自然が撹乱される理由です。
ここで重要なのは自我の境界機能です。
境界機能というのは,以下のようなものです。
生まれて間もない赤ん坊は,意識と無意識,あるいは自己と他者との分離ができていず,渾然としています。長ずるにつれて,それらが分離していきます。境界機能というのは,これらを分かつ機能的な隔壁と考えればよいでしょう。
幼い自我ではこの機能が未発達なので,母と子はいわば一体の関係で子の心が護られます。
境界機能は愛と信頼とによって健全に形成されていくもののようです。乳幼児期に見捨てられる恐怖に圧倒されそうになった幼い自我は,境界機能の形成が不確かなまま成長するように思われます。良い子であろうとする心は,母親の自我に従おうとする心でもあるでしょう。そのようにすれば,母親に見捨てられる(無論,心理的に)恐怖を最小にすることができるからです。それは母親を支配して,安心と満足とを万全なものにしたいという小児に特有の心理(この欲求は,それを充足するために,強い怒りを従えています)を押し殺し,いうならば意識の地下室に閉じ込める無意識的な試みを伴わないわけにはいかないと思われます。そして母親の自我に取りすがるのは,逆に母親の支配を受けることになったのと同じことになります。意識下に押し込められて沈黙していた,そのような小児心性が,既に成人の域に達したあるときに表面化して,母親またはその代理者に向けられることがあります。特別に乳児にのみ許される安心と満足との万全な要求を,怒りにまかせて突きつけることになるのです。強い怒りを伴ったそれらの要求や感情を抑圧し,意識下に潜在させたのが,良い子が支払わなければならなかった代償です。
境界機能は例えば次のように作用します。
2歳の子が友達の家に遊びに行って,玩具を持ってきたとしても,泥棒呼ばわりされることはありません。しかし5歳の子であれば少々問題になるかもしれません。これは2歳の自我では境界機能が未成熟であり,5歳ではある程度の成熟が求められているということを意味します。
AがBに怒りを込めて抗議したとします。Aに,客観的な正当性がある場合,怒りは適応的なものといえます。そのときAの自我は,怒りを引き受けた上で行為しているといえます。抗議されたBの自我が,受けた抗議を引き受けることができたときに,自分が取るべき態度を判断できます。つまり両者共に自我が正当に仕事をしているのですが,それは境界機能がうまく作動していることとパラレルな関係にあるといえます。
Aの抗議にBが反射的に怒りを以って応えたとき,あるいは恐れをなして単に意気消沈したときなどは,境界機能がうまく作動していません。従って自我は,引き受けるという自我の仕事の前提のところでつまずいていることになります。
自我の強さは,どうやら境界機能の強さ如何であるようです。自我の役割のうちで最も重要と思われる引き受ける機能は,境界機能を根拠としているように思われるからです。
以上の考えを基にして,’心の病気がなかなか治らない’理由は,自我が問題を引き受けようとしていないところにある可能性が最も高いといえるでしょう。角度を変えてみると,それは自我が小児心性に支配されているという見方にもなるでしょう。ごく幼いころの問題が未解決で,そこに今も留まって心が動けないのかもしれません。暗黙の内に,自分がこんなに辛いのは,自分のせいではない・・・という心理が働くのかもしれません。そして,それらの心の最奥には強い怒りがあると考えられます。当然といえば当然ですが,この怒りの存在に気がついている人はあまりありません。
人間は動物一般のようには自然のものでないと先に述べましたが,結論的には自然の摂理とでもいうべきもの(内在する主体の意向)に沿うのでなければ,人生の無意味感に囚われてしまうかもしれません。人生の意味の問題は理性が追求すべきものですが,理性自身に解決能力があるわけではありません。自我が主体との関係を肯定的に保つことができているときに,人生について何かを会得することが可能になるといえるのでしょう。それは自我に内属する理性が,無意識から浮上してくる主体の意向を受け止めることができたことを意味すると思います。
その主体の意志を受け止める重要な心の作業は,人格形成の最早期の諸欲求をどう護るかであるように思われます。
幼い子の心には,様々な欲求が浮かびます。それらの欲求のすべてが主体から送り出されてきたもののように思われ,従ってそれは,いわば神の子です。自我には神の子を護る使命があると考えて然るべきもののようです。
欲求に駆られる乳幼児の行動は,暴力的であったり,危険であったりもします。欲求を護るというのは,それらをそのまま満たすことではありません。それらを護るのは自我の役目ですが,幼い子の未熟な自我だけではできないことなので,実際には母親を中心とした親の補助が必要になります。
欲求自体には善も悪もなく,幼い子のあらゆる行動は自然のものです。善悪の問題が生じるのは,他者が関与することによってです。欲求に駆られた幼い子の行動を捉えて,善悪の問題や危険から身を守ることなどを教えるのが躾けです。親の愛情が確かなものであれば,それが適切に行われます。確かな愛情の下での自我は,境界機能が活きているので,幼い子の人格も尊重されるのです。そして’世間体を気にする’親は,この適切さに疑問符がつくことになります。危険に過敏な親も同様です。これらの場合は,親の自我の境界機能に問題があります。更にいえば境界機能が不確かな自我の下では,潜在する怒りが問題を惹き起こすと思われます。親といえども子の領域に侵入すれば,親が子の人格を否定しているのと同じことになります。たいていは躾けの名のもとに正当化されますが,相手の心の領域への侵入には,必ず怒りが一役買っていると考えて間違いはないと思います。子供の行動に過度に危険を感じて介入する場合などのときは,一見すると怒りと無縁のように見えます。しかし親の心に,抑圧された強い怒りが潜在していると思います。
このように,境界機能の確かな自我の下にある親の躾けであれば,基本的に子の心に生じる欲求が護られると思いますが,そうでないときには護られない度合いが高まるでしょう。主体から送り出されてきた諸欲求は,自然のもので傷つきやすく,いわば白い子です。そして護られなかった白い子は(幼い自我が受け取りを拒否したことになります),怒りによって黒い子になり,無意識界の勢力になっていきます。また自我の後見人ともいえる超自我といわれているものは,白い子(神の子)を護れなかった幼い自我に,いわば怒りを持ちます。白い子が抱えてきたエネルギーが,自我に受け渡すことができなかった分を,黒い子と超自我とに渡すことになり,それは怒りの性格を持つと思われます。
白い子が抱えてきたエネルギーを適正に受け取ることにより,自我は生きる意志を確かなものとしていきます。しかし,他者(親)の介入によって受け取ることができなかったエネルギーは,怒れる黒い子たちと,怒れる超自我を養う結果となります。相対的に自我の力が不足してしまうと,両者の山の狭間に埋没して自由を失います。自我は,それら怒れるものの支配を受けがちになります。
過食症のYさんは,次のように述べています。
「気分の落ち込みがほとんど無くなってから,過食がクローズアップされている。過食が止まらない一方で,自分から求めて何かを食べたいという気持ちが湧かない。だから食事を楽しむことはできない。食べるなという命令に逆らえないということもある・・・」
過食が肥満の恐怖に連動していくので,食べることが恐怖なのは当然です。「食べるな」と命令するのは超自我でしょう。そして過食を惹き起こすのは黒い子たちです。自我はそれらの狭間で無力でいます。この黒い子は,自我が引き受けなかった分身たちです。力を弱めた自我は,この分身たちの支配を受けています。超自我は,黒い子をたくさん作り出した自我に怒りを向けます。超自我は自我を補佐せずに,懲罰的な動きをしています。
白い子をよく護れなかった自我は,自由を保持するエネルギーを確保できなかったといえると思います。それらは生へのエネルギーとなるべきものでしたが,怒りのエネルギーと一体となって負のものに変質したのです。
では,現実にどのような心構えで臨めばよいのでしょうか?
問題の核心は,自我がその時々の心の状況に即して,それなりに仕事をする意志を持てるかというところにあります。そのためには,「生きていこう・・・元気になりたい・・・」という心が必要です。言葉を換えれば,当事者意識を持ち,問題を引き受ける意志を確かめなければなりません。自我がそれなりに仕事をすれば,それなりに満足感を味わえるはずです。
「引き受ける精神」があるかないか,それがすべてといっても過言ではないと思います。その精神が基本的に備わっているか否かによって,心の内と外とに深淵(無限または無)を含む個々人の世界は,恐るべき貧困に陥るか,(命のあるかぎり)自己超克という豊穣を手に入れるかということになるのでしょう。